第25話 杭痕の代償
灰置き場へ戻った時、透は自分の足で歩いていた。
歩いている、という形だけは保っていた。
実際には、右側をリィンに支えられ、前をバルザが守り、後ろをガルドが固めている。足を一歩出すたびに脇腹の灰補修が軋み、右腕の灰殻手甲からは白い煙のような灰が細く漏れていた。
痛い。
熱い。
重い。
だが、それ以上に、体の奥が空っぽだった。
さっきの灰杭で、何かを一気に持っていかれた感覚がある。魔力なのか、灰なのか、体力なのか。たぶん、その全部だ。
灰幕をくぐると、ルカが真っ先に駆け寄ってきた。
「トオル!」
「止まれ」
リィンが鋭く言った。
ルカはびくっとして、その場で止まる。
リィンは透の脇腹を押さえながら、低い声で続けた。
「今、触ったら傷が開く」
「……そんなに?」
「かなり」
ルカの顔が青くなる。
透はどうにか笑おうとした。
「大丈夫だ。まだ倒れてない」
「それ、安心できない」
「正しい」
リィンが即答した。
透は笑うのをやめた。脇腹に響く。
灰置き場の者たちが、遠巻きに見ている。
バルザは全身を黒い泥と腐水に汚し、左腕に焼けた傷をいくつも作っていた。だが、立ち方はいつも通りだ。牙を見せ、まだ戦えるという顔をしている。
その後ろで、ガルドが黒い膜の乾いた残骸と、巨大な腕から剥がした骨片を運ばせていた。石床を溶かす毒水の入った袋は避け、使える部分だけを選んでいる。
勝って、持ち帰った。
それはわかる。
だが、透の状態を見れば、ただの勝利ではないことも伝わったらしい。
老婆が炉のそばから立ち上がる。
「寝かせな」
短い言葉だった。
リィンは頷き、透を壁際の布の上へ座らせた。
座った瞬間、体から力が抜けた。
倒れそうになる。
バルザが片手を伸ばしたが、リィンの方が早かった。透の肩を押さえ、脇腹の封印針を抜き、別の針を打つ。
青い光が傷口を縫うように走った。
「っ……!」
透は息を詰めた。
傷が閉じる痛みではない。
灰で塞いだ場所を無理やり押さえ込み、漏れた血と灰を中へ戻すような痛みだ。
リィンの顔は、いつもよりずっと硬かった。
「動かないで」
「動けない」
「ならよかった」
「よくはないだろ」
「今は、動かない方がいい」
リィンは布を裂き、封印針の周りに巻いた。
次に右腕を見る。
灰殻手甲の隙間から漏れていた白灰の煙は、まだ止まっていない。手甲の灰路が一部焼け、黒鎖の根元まで熱を持っている。
シェラがぎこちなく近づいてきた。
休息状態から無理に動いたのか、胸の核が小さく揺れている。
「手甲損耗、確認。灰路三箇所、焼損。黒鎖接続部、過熱。右腕内部、灰圧残留」
「わかりやすく」
透が言うと、シェラは数秒考えた。
「右腕、危険」
「急に短いな」
「リィン表現に近似」
「うつってるぞ」
リィンは否定しなかった。
ただ、透の右腕を両手で押さえた。
「黒鎖を少し緩める」
「外すのか?」
「外さない。外したら灰が漏れる。緩めるだけ」
黒鎖が動く。
金属が軋む音がして、右腕に巻きついていた圧が少し下がった。途端に、手甲の内側から灰が溢れようとする。
リィンが封印針を打つ。
シェラの左手から青白い細線が伸びる。
二つの光が、漏れ出そうとした灰を押し戻した。
透は歯を食いしばった。
右腕が自分のものではないように熱い。
熱いのに、指先は冷たい。
「灰杭、しばらく禁止」
リィンが言った。
「言われた」
「しばらくじゃない。かなり」
「かなりか」
「かなり」
シェラも頷く。
「現状態での再使用、右腕喪失率高」
「失うのか」
「はい」
平然とした返答だった。
透は右手を見た。
指は動く。
だが、動きが少し鈍い。灰が関節の内側で固まりかけているような感覚があった。
あれをもう一度撃てば、腕が壊れる。
それはたぶん本当だ。
それでも、あの黒い杭の痕が頭から離れない。
石床を一直線に喰い抜いた溝。
巨大な腕の根元を貫いた黒灰色の穴。
今まで届かなかった場所へ届いた感覚。
怖い。
だが、あれは必要になる。
いつか、必ず。
透は目を閉じた。
「……わかった。今は使わない」
リィンが目を細める。
「今は?」
「いつか使うなら、ちゃんと使えるようにする」
リィンはしばらく黙っていた。
怒るかと思った。
だが、彼女は静かに息を吐いただけだった。
「それなら、止め方も覚える」
「止め方?」
「トオルが灰杭を撃つなら、私はそれを縛る。広がらないように、戻れなくならないように」
「……頼りすぎだな」
「頼って」
短い言葉だった。
透は何も言えなくなった。
ガルドが近づいてくる。
その手には、巨大な腕の骨片があった。大きさは人間の前腕ほど。黒く濁った骨の中に、灰色の筋が通っている。
「こいつは使える」
「何に?」
「防壁の芯だ。浄水室の水路を守っていたものなら、水圧や腐水に強い。毒を抜いて加工すれば、外縁の杭にできる」
セイルが横から石板を抱えて言った。
「それと、古い浄水術式の欠片が残っています。完全には読めませんが、水路の構造を知る手掛かりになります」
「浄水室へ近づいたってことか」
「ああ」
ガルドは頷く。
「ただし、守護腕が一本出たということは、本体がいる可能性が高い」
「だろうな」
「次に行く時は、準備がいる。透、お前はしばらく出るな」
「みんなそれ言うな」
「全員正しいからだ」
バルザが笑いながら、透の近くへ座った。
彼の左腕もひどい状態だった。焼けた皮膚、黒い毒水の跡、裂けた傷。だが、血は止まり始めている。獣人の回復力なのか、本人の頑丈さなのか。
透は眉をひそめた。
「お前こそ治療しろよ」
「舐めれば治る」
「動物か」
「獣人だ」
「そういう問題か?」
リィンがバルザを見た。
「治療」
「俺は後でいい」
「今」
バルザは透を見た。
「お前の周り、命令するやつが多いな」
「俺もそう思う」
「だが逆らわない方がよさそうだ」
「それもそう」
バルザは大人しく腕を差し出した。
リィンは透の処置を続けながら、ルカへ指示を出した。
「水、少し。灰布も」
「うん!」
ルカが走る。
その動きは、以前よりずっと速かった。
逃げ回る子どもの速さではない。役目を持って動く速さだった。
透はそれを目で追う。
ルカも強くなっている。
戦闘力という意味ではまだ小さい。だが、水を守り、道を覚え、誰が何を必要としているかを見るようになっている。
灰置き場が、少しずつ人を変えている。
いや、役割が人を立たせているのかもしれない。
ルカが戻り、リィンに水と灰布を渡す。
バルザの腕に灰布が巻かれると、焼けた皮膚の周りから黒い毒がにじみ出た。リィンはそれを封印針で止め、透を見る。
「少しだけ、毒の表層を抜ける?」
「俺が?」
「うん。でも、ほんの少し。バルザの肉は喰べない。毒だけ」
「言われなくても」
「言う」
透は左手を伸ばした。
右腕は使えない。
左手から細い灰糸を出す。
右手ほど精密ではない。だが、バルザの腕の毒は表面に浮いている。黒い濁りが灰布に染み、そこからまだ皮膚へ戻ろうとしている。
その戻ろうとする濁りを、灰糸が撫でた。
毒が薄く灰になって散る。
バルザが少しだけ眉を動かした。
「変な感覚だな」
「痛いか?」
「痛いが、毒が抜ける方がましだ」
「なら続ける」
「短くな」
「俺が言われるやつだ」
透は必要な分だけ毒を抜いた。
全部は取らない。
深く触れば、バルザの血や肉にまで灰が入り込む。それは駄目だ。
処置を終えると、バルザは腕を回した。
「動く」
「しばらく無茶するな」
透が言うと、バルザはにやりとした。
「お前が言うのか」
「言ってみたかった」
「似合わんな」
「だろうな」
少しだけ笑いが漏れた。
だが、すぐに空気は引き締まった。
ガルドが炉の前に、巨大な腕の骨片、乾いた黒膜、骨蛇の顎、灰切り虫の鋏を並べた。
「持ち帰ったものを使う」
彼の声に、灰置き場の者たちが集まる。
「黒膜は毒を抜いて防水布にする。骨蛇の顎は外縁の罠。灰切り虫の鋏は骨網の補強。守護腕の骨は防壁の芯だ。セイルは浄水術式の欠片を読む。シェラは部品として使えるか確認しろ」
「了解」
セイルとシェラが同時に答えた。
シェラの方が迷いなく、セイルの方は少し遅れた。
ガルドはさらに続ける。
「バルザは外縁戦闘の中心。だが、傷が塞がるまで正面以外には出るな」
「正面には出ていいのか」
「正面で止まれ。追うな」
「注文が増えた」
「生きていれば次も使える」
「使えるって言い方は嫌いらしいぞ」
バルザが透を見る。
透は肩をすくめた。
「立てるやつ、でいいんじゃないか」
ガルドは少しだけ考えた。
「生きて立て。次も立て」
「そっちの方がいい」
「なら、そう言う」
灰置き場の者たちが、静かに頷いた。
その小さな言い換えが、不思議と場に残った。
道具ではない。
使い捨てでもない。
生きて立つ。
次も立つ。
それが、ここで戦う者の決まりになっていく気がした。
透は炉の灰を見つめる。
灰は静かに揺れていた。
そこへ、ルカが恐る恐る近づいてきた。
「トオル」
「どうした」
「外の黒い痕、すごかった」
透は目を伏せた。
「見たのか?」
「入口から少しだけ。まっすぐ、黒くなってた。石が、なくなってた」
「危ないから近づくなよ」
「うん。でも……」
ルカは言葉を探すように、骨棒を握った。
「怖かった。でも、あれがあったから、でっかい腕が止まったんだよね」
「ああ」
「じゃあ、怖いけど、助かった」
透は返事に詰まった。
怖いけど、助かった。
それは、透の力そのものへの言葉のようだった。
リィンが静かに言う。
「力は、怖いままでいい」
「そうなのか」
「うん。怖いものを、怖いと知って使うなら、まだ戻れる」
シェラが補足する。
「番人記録にも近似記述あり。大規模灰術は、恐怖認識を失った個体から崩壊率上昇」
「つまり、怖がってる方が安全ってことか」
「肯定」
透は小さく笑った。
「情けない安全基準だな」
「情けなくない」
リィンが言った。
「大事」
透は頷いた。
怖い。
それでいい。
怖いまま、使い方を覚える。
灰杭も、灰装も、灰断も、灰域も。
全部、喰われないように名前をつけて、形を決めて、自分で選んで使う。
そうしなければ、いつか灰に全部持っていかれる。
その時、入口の灰標が小さく震えた。
全員が一瞬でそちらを向く。
だが、強い揺れではない。
ガルドが目を細める。
「何だ」
透は灰標に意識を触れた。
外縁の新しい防衛線。
黒い杭痕の近く。
そこに、何かが触れている。
敵ではない。
動きが弱い。
這っている。
人の形に近い。
「……誰かいる」
透が言うと、場が静まった。
バルザが立ち上がる。
「行くか」
「待て」
透は灰標を探る。
その気配は、杭痕の手前で倒れ込んでいる。濃い奈落縛り。血の匂い。焼けた布。首ではなく、両手首に封環らしきものがある。
落とされた者だ。
たぶん、また。
「人だ。たぶん地上から落とされた」
ルカが息を呑む。
ガルドの顔が険しくなる。
「処刑路とは別の落下か」
セイルが青ざめる。
「奈落門がずれているのかもしれません。門の歪みで、落下地点が広がっている」
「つまり、これから増えるかもしれない」
透が言った。
誰も否定しなかった。
リィンが透の肩を押さえる。
「トオルは行かない」
「わかってる」
今度は、本当にわかっていた。
この体で行けば足手まといになる。
透はバルザを見た。
「バルザ」
「ああ」
「灰印で繋ぐ。位置は俺が見る。ガルド、入口側を固めてくれ。リィン、もし呪いが強かったら戻ってから処置を頼む」
言葉が自然に出た。
命令のようだった。
だが、今はためらっている暇はない。
バルザは牙を見せた。
「任せろ」
ガルドは頷く。
「了解」
リィンは短く言った。
「見る。止める。戻す」
ルカが骨棒を握る。
「ぼく、戻る場所を見てる」
「頼む」
透は灰印へ意識を繋いだ。
バルザが外へ出る。
黒い杭痕の方へ。
透自身は動けない。
だが、道は見える。
灰標があり、灰印があり、戻る場所がある。
灰置き場は、もう一人が倒れたら終わる場所ではなくなっている。
誰かが出て、誰かが見て、誰かが守り、誰かが戻す。
透は痛む脇腹を押さえながら、目を閉じた。
外の通路で、バルザの灰印が強く灯る。
黒い杭の破壊痕のそばに、また一人、捨てられた者が倒れている。
灰置き場は、その者を拾いに動き出した。




