第24話 黒い杭の痕
黒い膜の魔物を倒した後、通路にはひどい匂いが残った。
腐った水。焼けた石。裂けた肉膜。バルザの血。透の頬をかすめた毒水の焦げ跡。
奈落の戦いは、勝っても綺麗には終わらない。
床には黒い水が広がり、踏めば靴底がじゅう、と鳴った。壁には溶けた跡が残り、ところどころ石が泡立つように崩れている。膜の残骸はぐったりと床に張りつき、まだ小さな口を動かしているものもあった。
透はそれらを見下ろしながら、息を整えた。
脇腹が痛い。
灰装を使った反動だ。
体に灰を通し、骨と筋へ着せる。たったそれだけのはずなのに、終わった後は内側を棒でかき回されたような痛みが残る。
それでも、動けた。
傷を抱えたまま、戦えた。
その事実が、透の中で重く沈んでいる。
リィンが横から頬の火傷を見た。
「顔も焼けてる」
「少しだろ」
「少しでも、毒水。放っておくと広がる」
「顔まで灰補修は嫌だな」
「私も嫌。だから、今止める」
リィンは封印針を短く当てた。
青い光が頬をなぞり、焼けた痛みが少し引く。治ったわけではない。毒の広がりを止めただけだ。それでも十分ありがたかった。
バルザは黒い膜の残骸を片足で押さえていた。
左腕の皮膚が焼けている。だが、本人は気にした様子もなく、膜の厚い部分を爪で裂いていた。
「こいつ、乾かせば盾になるな」
ガルドが頷く。
「水を弾くなら、浄水室へ向かう時に使える。毒を抜ければだが」
「毒はどうする」
バルザが透を見る。
透は膜の残骸を見る。
毒水の袋。貼りつく粘液。熱を吸う小さな口。床下に溜まった腐水の呪い。
喰えるものは多い。
だが、全部喰えば濁る。
今の体に入れるには重すぎる。
「毒を全部喰うのは無理だ」
「なら使えんか」
「全部じゃなくて、表面だけなら薄くできる。あと、乾いた部分を切り分ければ、内側の毒袋は避けられる」
ガルドはすぐに判断した。
「セイル、毒袋の位置を記録しろ。バルザ、裂くな。これ以上破ると毒が広がる」
「早く言え」
「今言った」
「もう少し早く言え」
「お前の手が早すぎる」
バルザは鼻を鳴らして手を離した。
セイルが青い顔で近づく。
膜の残骸を見て、吐きそうな顔になりながらも石板に線を刻み始めた。神殿の補修術師だった男が、今は奈落の魔物の死骸を資材として記録している。
妙な光景だった。
だが、必要な光景でもあった。
ルカは入口の方から、こちらを見ていた。
来たいのを我慢している顔だ。
透は手を上げる。
「まだ来るな。床が危ない」
「わかった!」
ルカは素直に引っ込んだ。
その横で、シェラが座ったまま右目を光らせていた。
「外縁第一防衛線、確保。次点、浄水室方面分岐」
「もう次の場所を見るのか」
透が言うと、シェラはこくりと頷いた。
「水資源確保は、拠点維持に必須」
「それはそうだけど、今の戦闘直後だぞ」
「休息後、推奨」
「休息って言葉、登録しててよかったな」
「トオル命令により登録済み」
リィンが静かに言った。
「休息は今」
「わかってる」
「本当に?」
「……たぶん」
リィンの目が細くなる。
「今のは駄目」
「わかってる。座る」
透は素直に、近くの乾いた石に腰を下ろした。
灰装の反動が遅れて押し寄せる。右腕が重い。背骨の奥に熱が残っている。脇腹の灰補修が硬くなり、呼吸のたびにきしむ。
体は強くなっている。
それは間違いない。
だが、強くなった分だけ、壊れ方も変わっている気がした。
普通に傷つくのではない。
灰が入った場所から、別のものに作り替えられていく。
透は手を握った。
力を入れすぎないように。
その時、外に置いた灰標が震えた。
透は顔を上げた。
リィンも気づく。
「何か来る?」
「違う……いや、来る。下から」
灰標の下。
床の奥。
さっき倒した膜の残骸のさらに下で、何かが動いた。
重い。
大きい。
水音が一度、止まった。
そして、通路全体が揺れた。
ガルドが叫ぶ。
「下がれ!」
次の瞬間、床が破裂した。
黒い水柱が噴き上がる。
石床を突き破り、巨大な腕のようなものが現れた。肉ではない。水でもない。腐った水路の泥と骨片と古い皮が絡み合い、腕の形をしている。
指に見える部分には、人間や魔物の肋骨が並んでいた。
その先端が開く。
掌の中央に、大きな口があった。
口が吠えた。
水路の底から押し上げられるような、濁った咆哮。
通路の壁が震え、灰標が一つ砕けた。
透の頭に痛みが走る。
「っ……!」
リィンが黒鎖を掴む。
「トオル!」
「灰標が潰れた。下にでかいのがいる」
バルザが前へ出た。
「腕一本か」
巨大な腕は、通路の半分を埋めるほど太い。
その根元は床下へ続き、まだ本体は見えていない。さっきの黒い膜は、この腕の表面に溜まった薄皮にすぎなかったのかもしれない。
ガルドの顔が険しくなる。
「水路の番か」
セイルが震えながら言った。
「古い浄水系の守護獣が、腐水で変質した可能性があります。床下の水路を守っているなら、分岐へ進む者を全部沈めるはずです」
「つまり、こいつをどうにかしないと浄水室へ行けない」
透が言うと、セイルは青い顔で頷いた。
巨大な腕が振り下ろされた。
バルザが真正面から受ける。
衝撃。
石床が蜘蛛の巣のように割れた。
バルザの足が沈む。
だが、彼は倒れない。
両腕で骨の指を押さえ、牙を剥いて笑う。
「重いな」
「遊ぶな!」
透は黒鎖を振る。
灰糸が腕の表面を走った。だが、深く入らない。骨と泥と腐水の層が厚すぎる。腕全体が水路の呪いで覆われ、灰を滑らせている。
さっきの膜とは違う。
こいつは、明らかに格が上だ。
巨大な掌の口が開く。
黒い水の塊が吐き出された。
リィンが封印針を打つ。
青い線が空中で水を止める。だが、完全には止まらない。黒い水は封印を押し潰しながら、細かい雨のように降りかかった。
透は灰幕を薄く広げる。
毒水の飛沫が灰に触れ、じゅうじゅうと音を立てた。
全ては防げない。
頬、肩、手の甲に焼ける痛みが走る。
バルザも被った。だが、彼は怯まない。
巨大な腕を押し返し、爪を骨の指に食い込ませる。
「透、どこだ!」
「まだ見えない!」
灰域を伸ばす。
腕の表面ではない。
根元。
床下。
腐った水路の奥に、何かがある。
大きな本体ではない。腕を動かすための節。古い浄水術式に絡みついた腐水の核。そこを壊せば、少なくともこの腕は止まる。
だが、遠い。
床下深く。
灰糸では届かない。
灰装で踏み込むには、脇腹が持たない。
透は歯を食いしばった。
巨大な腕がもう一本、床から出かけている。
このまま増えれば、防衛線ごと潰される。
ガルドが骨杭を打ち込み、入口側を守る。
「後ろへ通すな!」
灰置き場の者たちが動く。
ルカは水瓶の方へ走り、女と子どもを奥へ誘導している。セイルは術式石を抱え、壊れた灰標の代わりに補助線を刻もうとしている。シェラは立とうとして、胸の核が強く揺れた。
「シェラ、動くな!」
透が叫ぶ。
「現戦力、不足」
「座ってろ。壊れたら直せない」
「しかし」
「命令だ」
シェラの右目が揺れた。
「命令、受領」
彼女は座ったまま、悔しそうに見えない顔で沈黙した。
透は巨大な腕を見る。
届かない。
今の灰糸では。
今の灰断では。
今の灰装では。
でも、届かせる必要がある。
広げるのではない。
細くするのでもない。
灰を一点に集める。
床下の核へ、杭のように突き刺す。
そんな形が、頭の奥に浮かんだ。
胸の灰がざわめく。
危険だ。
それはわかる。
今の透が扱うには、重すぎる。
リィンも気づいた。
「トオル、何をしようとしてるの」
「床下の核に届かせる」
「灰糸じゃ無理」
「ああ。だから、束ねる」
「駄目。今の体でそれは危ない」
「でも、このままだと腕が増える」
巨大な腕の根元で、床がさらに盛り上がる。
二本目が来る。
バルザが一人で一本目を押さえている間に、二本目が灰置き場の入口を叩けば、防衛線は崩れる。
透は立ち上がった。
脇腹が痛む。
リィンが腕を掴む。
「トオル」
「止めるなら、暴走した時に止めてくれ」
「今止めたい」
「わかってる」
「わかっててやるの、ずるい」
「悪い」
リィンは唇を噛んだ。
それでも、手を離さなかった。
「なら、私も一緒に縛る。灰を広げない。杭の形から出したら切る」
「頼む」
透は黒鎖を床へ落とした。
鎖が石に触れ、灰が流れる。
右腕の手甲が熱を持つ。
灰装をもう一度起こす。
骨が軋む。
灰補修した脇腹が悲鳴を上げる。
だが、今は動く。
透は灰を集めた。
灰糸ではない。
灰幕でもない。
灰域の網でもない。
全てを一点に重ねる。
細く、重く、硬く。
死んだ魔力を喰う灰。
腐った水を嫌う灰。
骨蛇を止めた灰。
灰切り虫の隙間を読んだ灰。
封環を断った灰。
黒い膜の飢えを切った灰。
それらを、右腕から黒鎖へ流し、鎖の先に固める。
灰が杭の形を取った。
長さは腕ほど。
黒灰色の杭。
先端は鋭くない。だが、そこに触れた空気がざらざらと崩れていく。
バルザが振り返った。
「いい気配だ」
「近づくな」
「わかってる」
バルザは巨大な腕を押さえながら、牙を見せた。
「撃て」
透は床下の核を見た。
見えない。
だが、灰域と灰標の残骸が、その位置を示している。
床下、三歩先。
腕の根元のさらに奥。
腐水の流れが曲がる場所。
古い浄水術式が、黒く腐って絡まっている場所。
そこへ杭を落とす。
透は息を吐いた。
「灰杭」
名は短かった。
まだ完成した技ではない。
大技と呼ぶには粗すぎる。
だが、灰の杭は確かに形を持った。
黒鎖が跳ねる。
杭が床へ突き刺さった。
音が消えた。
次の瞬間、通路が縦に裂けた。
石床の下へ、黒灰色の線が走る。
線は一瞬で奥へ伸び、巨大な腕の根元を貫き、床下の腐水核へ届いた。
遅れて、爆ぜるような衝撃が来た。
石が砕ける。
水が吹き上がる。
巨大な腕の根元に、黒い穴が開いた。
穴の周囲は焼けたように灰化し、泥も骨も腐水も、まとめて乾いた灰になって崩れていく。
通路の床には、一直線の破壊痕が残った。
透の足元から腕の根元まで。
黒い杭が通った跡。
それは斬撃ではなかった。
爆発でもなかった。
何かに喰い抜かれたような、深い黒灰色の溝だった。
巨大な腕が痙攣する。
バルザがそれを逃さなかった。
「おおおおおッ!」
咆哮。
獣の声が通路を震わせる。
バルザは骨の指を引き千切り、根元が崩れた腕を両腕で抱え込んだ。
筋肉が膨れ上がる。
爪が腐った骨へ食い込む。
そして、腕を床から引き剥がした。
黒い水が滝のように噴き出す。
バルザは構わず、巨大な腕を通路の壁へ叩きつけた。
一度。
二度。
三度。
三度目で、腕は半ばから砕けた。
腐った骨と泥が飛び散り、掌の口が潰れて歯を撒き散らす。黒い水が床を這ったが、リィンの封印線がそれを入口側へ流さなかった。
巨大な腕は、完全に動きを止めた。
二本目の腕も、床下で震えたまま出てこない。
透は立っていた。
いや、立っているつもりだった。
視界が傾く。
灰杭を撃った右腕から、感覚が消えている。黒鎖が熱い。手甲の隙間から白い煙のような灰が漏れている。
脇腹が開いた。
リィンが支えるより早く、血が流れる。
灰補修の継ぎ目が裂け、黒灰色の泥が赤い血に混じって落ちた。
「トオル!」
リィンの声が遠い。
透は膝をついた。
それでも、目は破壊痕を見ていた。
黒い溝。
床を一直線に喰い抜いた痕。
自分がやったのか、と一瞬思う。
怖い。
だが、同時に思った。
届いた。
今まで届かなかった場所に、灰が届いた。
リィンが透の脇腹へ封印針を打つ。
青い光が走る。
「馬鹿。ほんとに、馬鹿」
「……止まっただろ」
「止まったけど、馬鹿」
「二回言った」
「足りない」
リィンの声が震えていた。
透は返事をしようとして、咳き込んだ。
血の味がした。
バルザが巨大な腕の残骸から戻ってくる。
全身に黒い水と泥を浴びていた。左腕の傷は増えている。だが、目は獣のように輝いていた。
「今のは何だ」
「……わからない」
「いい杭だった」
「名前は、灰杭」
「灰杭?」
バルザは床の破壊痕を見た。
黒灰色の溝。
石も泥も骨も腐水も、そこだけ綺麗に喰い抜かれている。
バルザは喉の奥で笑った。
「杭にしては、跡が派手すぎる」
ガルドも近づいてきた。
彼は破壊痕を見て、しばらく黙っていた。
「これは、攻城槍の痕だ」
「攻城槍?」
「城門に撃つようなものだ。人に向ける技ではない」
透は息を荒げながら言った。
「まだ、制御できない」
「だろうな」
ガルドは透を見る。
「だが、制御できれば、道を開ける技になる」
シェラが入口から告げる。
「灰杭、仮登録。高負荷貫通技。現番人の使用、非推奨」
「非推奨っていうか、禁止に近い」
リィンが言った。
「禁止?」
透が聞くと、リィンは即答した。
「禁止」
「でも」
「今は、禁止」
その言い方に、透は逆らえなかった。
今は。
つまり、いつかは違う。
リィンもそれをわかっている。
この技が必要になる時がある。
だが、今の透の体では危険すぎる。
透は黒い破壊痕を見た。
灰杭。
まだ未完成。
使えば体が壊れる。
だが、圧倒的な痕を残した。
バルザがその溝の横に立ち、牙を見せた。
「地上の騎士どもがこれを見たら、何と言うだろうな」
「さあな」
「俺なら逃げる」
「お前は逃げないだろ」
「俺はお前の側にいるからな」
バルザは当然のように言った。
透は何も返せなかった。
リィンが脇腹を押さえながら、小さく言う。
「喋らないで。傷を閉じる」
「……はい」
「あと、寝る」
「ここで?」
「戻ってから」
ガルドが頷く。
「撤収だ。腕の残骸は一部だけ持ち帰る。毒水は避けろ。破壊痕の先には近づくな。床が落ちる」
セイルが破壊痕を見て、震える声で呟いた。
「石床を、術式ごと喰い抜いてる……。こんなもの、神殿の結界でも……」
言いかけて、彼は口を閉じた。
透は聞こえていた。
神殿の結界でも。
その先の言葉は、今は要らない。
けれど、胸の奥で灰が静かに揺れた。
いつか。
地上へ戻る時。
王国が門を閉じ、結界を張り、騎士を並べたとして。
この黒い杭は、その全てへ届くかもしれない。
透はその考えを、すぐに押し込めた。
今はまだ早い。
まず戻る。
灰置き場へ。
拾った者たちの場所へ。
リィンに支えられ、バルザに前を守られ、ガルドに退路を固められながら、透は歩き出した。
背後には、黒い破壊痕が残っていた。
奈落の石床を一直線に喰い抜いた、未完成の杭の跡。
それは、透自身にもまだ扱いきれない力が、確かに芽生えた証だった。




