表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

24/87

第24話 黒い杭の痕

 黒い膜の魔物を倒した後、通路にはひどい匂いが残った。


 腐った水。焼けた石。裂けた肉膜。バルザの血。透の頬をかすめた毒水の焦げ跡。


 奈落の戦いは、勝っても綺麗には終わらない。


 床には黒い水が広がり、踏めば靴底がじゅう、と鳴った。壁には溶けた跡が残り、ところどころ石が泡立つように崩れている。膜の残骸はぐったりと床に張りつき、まだ小さな口を動かしているものもあった。


 透はそれらを見下ろしながら、息を整えた。


 脇腹が痛い。


 灰装(かいそう)を使った反動だ。


 体に灰を通し、骨と筋へ着せる。たったそれだけのはずなのに、終わった後は内側を棒でかき回されたような痛みが残る。


 それでも、動けた。


 傷を抱えたまま、戦えた。


 その事実が、透の中で重く沈んでいる。


 リィンが横から頬の火傷を見た。


「顔も焼けてる」


「少しだろ」


「少しでも、毒水。放っておくと広がる」


「顔まで灰補修は嫌だな」


「私も嫌。だから、今止める」


 リィンは封印針を短く当てた。


 青い光が頬をなぞり、焼けた痛みが少し引く。治ったわけではない。毒の広がりを止めただけだ。それでも十分ありがたかった。


 バルザは黒い膜の残骸を片足で押さえていた。


 左腕の皮膚が焼けている。だが、本人は気にした様子もなく、膜の厚い部分を爪で裂いていた。


「こいつ、乾かせば盾になるな」


 ガルドが頷く。


「水を弾くなら、浄水室へ向かう時に使える。毒を抜ければだが」


「毒はどうする」


 バルザが透を見る。


 透は膜の残骸を見る。


 毒水の袋。貼りつく粘液。熱を吸う小さな口。床下に溜まった腐水の呪い。


 喰えるものは多い。


 だが、全部喰えば濁る。


 今の体に入れるには重すぎる。


「毒を全部喰うのは無理だ」


「なら使えんか」


「全部じゃなくて、表面だけなら薄くできる。あと、乾いた部分を切り分ければ、内側の毒袋は避けられる」


 ガルドはすぐに判断した。


「セイル、毒袋の位置を記録しろ。バルザ、裂くな。これ以上破ると毒が広がる」


「早く言え」


「今言った」


「もう少し早く言え」


「お前の手が早すぎる」


 バルザは鼻を鳴らして手を離した。


 セイルが青い顔で近づく。


 膜の残骸を見て、吐きそうな顔になりながらも石板に線を刻み始めた。神殿の補修術師だった男が、今は奈落の魔物の死骸を資材として記録している。


 妙な光景だった。


 だが、必要な光景でもあった。


 ルカは入口の方から、こちらを見ていた。


 来たいのを我慢している顔だ。


 透は手を上げる。


「まだ来るな。床が危ない」


「わかった!」


 ルカは素直に引っ込んだ。


 その横で、シェラが座ったまま右目を光らせていた。


「外縁第一防衛線、確保。次点、浄水室方面分岐」


「もう次の場所を見るのか」


 透が言うと、シェラはこくりと頷いた。


「水資源確保は、拠点維持に必須」


「それはそうだけど、今の戦闘直後だぞ」


「休息後、推奨」


「休息って言葉、登録しててよかったな」


「トオル命令により登録済み」


 リィンが静かに言った。


「休息は今」


「わかってる」


「本当に?」


「……たぶん」


 リィンの目が細くなる。


「今のは駄目」


「わかってる。座る」


 透は素直に、近くの乾いた石に腰を下ろした。


 灰装の反動が遅れて押し寄せる。右腕が重い。背骨の奥に熱が残っている。脇腹の灰補修が硬くなり、呼吸のたびにきしむ。


 体は強くなっている。


 それは間違いない。


 だが、強くなった分だけ、壊れ方も変わっている気がした。


 普通に傷つくのではない。


 灰が入った場所から、別のものに作り替えられていく。


 透は手を握った。


 力を入れすぎないように。


 その時、外に置いた灰標が震えた。


 透は顔を上げた。


 リィンも気づく。


「何か来る?」


「違う……いや、来る。下から」


 灰標の下。


 床の奥。


 さっき倒した膜の残骸のさらに下で、何かが動いた。


 重い。


 大きい。


 水音が一度、止まった。


 そして、通路全体が揺れた。


 ガルドが叫ぶ。


「下がれ!」


 次の瞬間、床が破裂した。


 黒い水柱が噴き上がる。


 石床を突き破り、巨大な腕のようなものが現れた。肉ではない。水でもない。腐った水路の泥と骨片と古い皮が絡み合い、腕の形をしている。


 指に見える部分には、人間や魔物の肋骨が並んでいた。


 その先端が開く。


 掌の中央に、大きな口があった。


 口が吠えた。


 水路の底から押し上げられるような、濁った咆哮。


 通路の壁が震え、灰標が一つ砕けた。


 透の頭に痛みが走る。


「っ……!」


 リィンが黒鎖を掴む。


「トオル!」


「灰標が潰れた。下にでかいのがいる」


 バルザが前へ出た。


「腕一本か」


 巨大な腕は、通路の半分を埋めるほど太い。


 その根元は床下へ続き、まだ本体は見えていない。さっきの黒い膜は、この腕の表面に溜まった薄皮にすぎなかったのかもしれない。


 ガルドの顔が険しくなる。


「水路の番か」


 セイルが震えながら言った。


「古い浄水系の守護獣が、腐水で変質した可能性があります。床下の水路を守っているなら、分岐へ進む者を全部沈めるはずです」


「つまり、こいつをどうにかしないと浄水室へ行けない」


 透が言うと、セイルは青い顔で頷いた。


 巨大な腕が振り下ろされた。


 バルザが真正面から受ける。


 衝撃。


 石床が蜘蛛の巣のように割れた。


 バルザの足が沈む。


 だが、彼は倒れない。


 両腕で骨の指を押さえ、牙を剥いて笑う。


「重いな」


「遊ぶな!」


 透は黒鎖を振る。


 灰糸が腕の表面を走った。だが、深く入らない。骨と泥と腐水の層が厚すぎる。腕全体が水路の呪いで覆われ、灰を滑らせている。


 さっきの膜とは違う。


 こいつは、明らかに格が上だ。


 巨大な掌の口が開く。


 黒い水の塊が吐き出された。


 リィンが封印針を打つ。


 青い線が空中で水を止める。だが、完全には止まらない。黒い水は封印を押し潰しながら、細かい雨のように降りかかった。


 透は灰幕を薄く広げる。


 毒水の飛沫が灰に触れ、じゅうじゅうと音を立てた。


 全ては防げない。


 頬、肩、手の甲に焼ける痛みが走る。


 バルザも被った。だが、彼は怯まない。


 巨大な腕を押し返し、爪を骨の指に食い込ませる。


「透、どこだ!」


「まだ見えない!」


 灰域を伸ばす。


 腕の表面ではない。


 根元。


 床下。


 腐った水路の奥に、何かがある。


 大きな本体ではない。腕を動かすための節。古い浄水術式に絡みついた腐水の核。そこを壊せば、少なくともこの腕は止まる。


 だが、遠い。


 床下深く。


 灰糸では届かない。


 灰装で踏み込むには、脇腹が持たない。


 透は歯を食いしばった。


 巨大な腕がもう一本、床から出かけている。


 このまま増えれば、防衛線ごと潰される。


 ガルドが骨杭を打ち込み、入口側を守る。


「後ろへ通すな!」


 灰置き場の者たちが動く。


 ルカは水瓶の方へ走り、女と子どもを奥へ誘導している。セイルは術式石を抱え、壊れた灰標の代わりに補助線を刻もうとしている。シェラは立とうとして、胸の核が強く揺れた。


「シェラ、動くな!」


 透が叫ぶ。


「現戦力、不足」


「座ってろ。壊れたら直せない」


「しかし」


「命令だ」


 シェラの右目が揺れた。


「命令、受領」


 彼女は座ったまま、悔しそうに見えない顔で沈黙した。


 透は巨大な腕を見る。


 届かない。


 今の灰糸では。

 今の灰断では。

 今の灰装では。


 でも、届かせる必要がある。


 広げるのではない。


 細くするのでもない。


 灰を一点に集める。


 床下の核へ、杭のように突き刺す。


 そんな形が、頭の奥に浮かんだ。


 胸の灰がざわめく。


 危険だ。


 それはわかる。


 今の透が扱うには、重すぎる。


 リィンも気づいた。


「トオル、何をしようとしてるの」


「床下の核に届かせる」


「灰糸じゃ無理」


「ああ。だから、束ねる」


「駄目。今の体でそれは危ない」


「でも、このままだと腕が増える」


 巨大な腕の根元で、床がさらに盛り上がる。


 二本目が来る。


 バルザが一人で一本目を押さえている間に、二本目が灰置き場の入口を叩けば、防衛線は崩れる。


 透は立ち上がった。


 脇腹が痛む。


 リィンが腕を掴む。


「トオル」


「止めるなら、暴走した時に止めてくれ」


「今止めたい」


「わかってる」


「わかっててやるの、ずるい」


「悪い」


 リィンは唇を噛んだ。


 それでも、手を離さなかった。


「なら、私も一緒に縛る。灰を広げない。杭の形から出したら切る」


「頼む」


 透は黒鎖を床へ落とした。


 鎖が石に触れ、灰が流れる。


 右腕の手甲が熱を持つ。


 灰装をもう一度起こす。


 骨が軋む。


 灰補修した脇腹が悲鳴を上げる。


 だが、今は動く。


 透は灰を集めた。


 灰糸ではない。


 灰幕でもない。


 灰域の網でもない。


 全てを一点に重ねる。


 細く、重く、硬く。


 死んだ魔力を喰う灰。

 腐った水を嫌う灰。

 骨蛇を止めた灰。

 灰切り虫の隙間を読んだ灰。

 封環を断った灰。

 黒い膜の飢えを切った灰。


 それらを、右腕から黒鎖へ流し、鎖の先に固める。


 灰が杭の形を取った。


 長さは腕ほど。


 黒灰色の杭。


 先端は鋭くない。だが、そこに触れた空気がざらざらと崩れていく。


 バルザが振り返った。


「いい気配だ」


「近づくな」


「わかってる」


 バルザは巨大な腕を押さえながら、牙を見せた。


「撃て」


 透は床下の核を見た。


 見えない。


 だが、灰域と灰標の残骸が、その位置を示している。


 床下、三歩先。

 腕の根元のさらに奥。

 腐水の流れが曲がる場所。

 古い浄水術式が、黒く腐って絡まっている場所。


 そこへ杭を落とす。


 透は息を吐いた。


灰杭(かいぐい)


 名は短かった。


 まだ完成した技ではない。


 大技と呼ぶには粗すぎる。


 だが、灰の杭は確かに形を持った。


 黒鎖が跳ねる。


 杭が床へ突き刺さった。


 音が消えた。


 次の瞬間、通路が縦に裂けた。


 石床の下へ、黒灰色の線が走る。


 線は一瞬で奥へ伸び、巨大な腕の根元を貫き、床下の腐水核へ届いた。


 遅れて、爆ぜるような衝撃が来た。


 石が砕ける。


 水が吹き上がる。


 巨大な腕の根元に、黒い穴が開いた。


 穴の周囲は焼けたように灰化し、泥も骨も腐水も、まとめて乾いた灰になって崩れていく。


 通路の床には、一直線の破壊痕が残った。


 透の足元から腕の根元まで。


 黒い杭が通った跡。


 それは斬撃ではなかった。


 爆発でもなかった。


 何かに喰い抜かれたような、深い黒灰色の溝だった。


 巨大な腕が痙攣する。


 バルザがそれを逃さなかった。


「おおおおおッ!」


 咆哮。


 獣の声が通路を震わせる。


 バルザは骨の指を引き千切り、根元が崩れた腕を両腕で抱え込んだ。


 筋肉が膨れ上がる。


 爪が腐った骨へ食い込む。


 そして、腕を床から引き剥がした。


 黒い水が滝のように噴き出す。


 バルザは構わず、巨大な腕を通路の壁へ叩きつけた。


 一度。


 二度。


 三度。


 三度目で、腕は半ばから砕けた。


 腐った骨と泥が飛び散り、掌の口が潰れて歯を撒き散らす。黒い水が床を這ったが、リィンの封印線がそれを入口側へ流さなかった。


 巨大な腕は、完全に動きを止めた。


 二本目の腕も、床下で震えたまま出てこない。


 透は立っていた。


 いや、立っているつもりだった。


 視界が傾く。


 灰杭を撃った右腕から、感覚が消えている。黒鎖が熱い。手甲の隙間から白い煙のような灰が漏れている。


 脇腹が開いた。


 リィンが支えるより早く、血が流れる。


 灰補修の継ぎ目が裂け、黒灰色の泥が赤い血に混じって落ちた。


「トオル!」


 リィンの声が遠い。


 透は膝をついた。


 それでも、目は破壊痕を見ていた。


 黒い溝。


 床を一直線に喰い抜いた痕。


 自分がやったのか、と一瞬思う。


 怖い。


 だが、同時に思った。


 届いた。


 今まで届かなかった場所に、灰が届いた。


 リィンが透の脇腹へ封印針を打つ。


 青い光が走る。


「馬鹿。ほんとに、馬鹿」


「……止まっただろ」


「止まったけど、馬鹿」


「二回言った」


「足りない」


 リィンの声が震えていた。


 透は返事をしようとして、咳き込んだ。


 血の味がした。


 バルザが巨大な腕の残骸から戻ってくる。


 全身に黒い水と泥を浴びていた。左腕の傷は増えている。だが、目は獣のように輝いていた。


「今のは何だ」


「……わからない」


「いい杭だった」


「名前は、灰杭」


「灰杭?」


 バルザは床の破壊痕を見た。


 黒灰色の溝。


 石も泥も骨も腐水も、そこだけ綺麗に喰い抜かれている。


 バルザは喉の奥で笑った。


「杭にしては、跡が派手すぎる」


 ガルドも近づいてきた。


 彼は破壊痕を見て、しばらく黙っていた。


「これは、攻城槍の痕だ」


「攻城槍?」


「城門に撃つようなものだ。人に向ける技ではない」


 透は息を荒げながら言った。


「まだ、制御できない」


「だろうな」


 ガルドは透を見る。


「だが、制御できれば、道を開ける技になる」


 シェラが入口から告げる。


「灰杭、仮登録。高負荷貫通技。現番人の使用、非推奨」


「非推奨っていうか、禁止に近い」


 リィンが言った。


「禁止?」


 透が聞くと、リィンは即答した。


「禁止」


「でも」


「今は、禁止」


 その言い方に、透は逆らえなかった。


 今は。


 つまり、いつかは違う。


 リィンもそれをわかっている。


 この技が必要になる時がある。


 だが、今の透の体では危険すぎる。


 透は黒い破壊痕を見た。


 灰杭。


 まだ未完成。


 使えば体が壊れる。


 だが、圧倒的な痕を残した。


 バルザがその溝の横に立ち、牙を見せた。


「地上の騎士どもがこれを見たら、何と言うだろうな」


「さあな」


「俺なら逃げる」


「お前は逃げないだろ」


「俺はお前の側にいるからな」


 バルザは当然のように言った。


 透は何も返せなかった。


 リィンが脇腹を押さえながら、小さく言う。


「喋らないで。傷を閉じる」


「……はい」


「あと、寝る」


「ここで?」


「戻ってから」


 ガルドが頷く。


「撤収だ。腕の残骸は一部だけ持ち帰る。毒水は避けろ。破壊痕の先には近づくな。床が落ちる」


 セイルが破壊痕を見て、震える声で呟いた。


「石床を、術式ごと喰い抜いてる……。こんなもの、神殿の結界でも……」


 言いかけて、彼は口を閉じた。


 透は聞こえていた。


 神殿の結界でも。


 その先の言葉は、今は要らない。


 けれど、胸の奥で灰が静かに揺れた。


 いつか。


 地上へ戻る時。


 王国が門を閉じ、結界を張り、騎士を並べたとして。


 この黒い杭は、その全てへ届くかもしれない。


 透はその考えを、すぐに押し込めた。


 今はまだ早い。


 まず戻る。


 灰置き場へ。


 拾った者たちの場所へ。


 リィンに支えられ、バルザに前を守られ、ガルドに退路を固められながら、透は歩き出した。


 背後には、黒い破壊痕が残っていた。


 奈落の石床を一直線に喰い抜いた、未完成の杭の跡。


 それは、透自身にもまだ扱いきれない力が、確かに芽生えた証だった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ