第23話 灰装
浄水室へ向かうには、まず外の道を押さえる必要があった。
灰置き場の入口からすぐ先にある細い曲がり角。
骨蛇が潜んでいた影。
赤黒い苔の張りついた通路。
その先に、古い水路へ続く分岐がある。
そこを確保できなければ、浄水室どころではない。
水を取りに行くたびに喰屍や骨蛇に襲われるようでは、誰も戻れない。だから、ガルドはまず近い道から固めると決めた。
灰標を外へ置く。
骨蛇の顎罠を仕掛ける。
灰切り虫の鋏を骨網に噛ませる。
バルザが前に立つ。
透が後ろから灰域で見る。
リィンが灰の広がりを止める。
シェラは入口に座ったまま、防衛線の記録を取る。
簡単に言えば、そういう作戦だった。
簡単にいくとは、誰も思っていなかった。
「本当に出るのか」
リィンが言った。
透は黒鎖を右腕に巻き直す。
「近くまでだ。走らない。跳ばない。無茶しない」
「三つとも信用が薄い」
「言うと思った」
「でも、必要なのもわかる」
リィンは透の脇腹を見る。
灰補修の痕はまだ残っている。青い封印針で押さえられているが、無理をすれば開く。完全に休むべきなのは、透自身もわかっていた。
だが、灰標を外へ置くには、透の感覚がいる。
バルザ一人に任せて、戻る道を作るだけでは足りない。外へ防衛線を伸ばすなら、透自身もその道を知らなければならない。
「痛くなったら戻る」
「痛くなる前に戻って」
「難しい注文だな」
「それが普通」
「奈落だと普通が難しい」
「だから私が言う」
透は少しだけ笑った。
「頼む」
「うん。止める」
バルザは入口で待っていた。
右腕には灰印。首には封環の痕。大柄な体は、今にも走り出しそうな力を抱えている。
「遅いぞ」
「怪我人に言う台詞か?」
「立つなら戦力だ」
「厳しいな」
「奈落だからな」
ガルドが骨杭を透へ渡した。
「これを分岐の手前に置け。灰標にするなら、骨杭の根元がいい。敵が踏めば揺れる」
「わかった」
「無理に戦うな」
「ガルドまで言うのか」
「お前が無理をするからだ」
「全員から同じ評価を受けてる」
「改善しろ」
透は反論できず、骨杭を受け取った。
ルカが近づいてくる。
手には小さな骨棒。目は真剣だった。
「ぼくも行く」
「今回は駄目だ」
透が言うより早く、ルカは唇を尖らせた。
「道、覚えるって言った」
「だからこそ、今回は入口から見る。どこに誰が立ったか、誰がいつ戻ったか、覚えていてくれ」
「それ、道?」
「戻る道だ」
ルカは少し考えた。
「戻る道なら、覚える」
「ああ。頼む」
「うん」
ルカは素直に下がった。
リィンが小さく言う。
「上手くなった」
「何が」
「頼み方」
「そうか?」
「うん。少し」
その少しが、今はありがたかった。
灰幕が開く。
透は外へ出た。
奈落の空気は、灰置き場の中より冷たかった。
壁には赤黒い苔が張りつき、水の腐った匂いが薄く漂っている。床には骨蛇を潰した時の黒い染みが残っていた。骨片が散り、壁にはバルザが爪を立てた跡が刻まれている。
前にここへ出た時より、少しだけ違って見えた。
怖い場所ではある。
だが、もう完全に知らない場所ではない。
透は床に手を触れた。
灰域を狭く広げる。
入口の灰標。
バルザの灰印。
背後のリィン。
外の床に散った骨蛇の灰。
壁の隙間に残る灰切り虫の鋏粉。
点と点が、ゆっくり繋がる。
頭の奥が重くなるが、耐えられる。
「見えるか」
バルザが言う。
「見えるってほどじゃない。けど、角の奥に動きはない」
「なら進む」
「ゆっくりな」
「俺なりに」
「それ、速いやつだろ」
バルザは笑い、先に進んだ。
透はその後ろを歩く。
リィンがさらに後ろ。青い封印針を手に持ち、透の灰が広がりすぎないよう見ている。ガルドは入口付近で骨杭を構え、防衛線を見ていた。
最初の曲がり角に灰標を置く。
骨杭の根元へ、透は灰を染み込ませた。固定する。深くしない。周囲の床の揺れだけを拾うようにする。
灰標が灯る。
意識の端に、小さな冷たい点が増えた。
「一つ」
透が言うと、リィンが頷く。
「まだ大丈夫」
「次へ行く」
進む。
赤黒い苔の道を抜ける。
水音が少し大きくなる。
浄水室へ向かう分岐は、まだ先だ。だが、ここからすでに空気が湿っている。水がある場所には、魔物も寄る。死骸も寄る。呪いも沈む。
透の灰域が、床の下の濁りを拾った。
嫌な感覚。
生き物ではない。
骨でもない。
粘つくような、薄い死骸の膜が床の下に広がっている。
「止まれ」
透が言った。
バルザが即座に止まる。
「何だ」
「床の下に何かいる」
リィンが封印針を構える。
「喰屍?」
「違う。もっと薄い。床に貼りついてる」
バルザが鼻を鳴らした。
「匂いはする。腐った水と肉だ」
「踏むな」
「もう踏んでる」
「おい」
次の瞬間、床が割れた。
石の隙間から、黒い膜のようなものが噴き上がる。水ではない。肉でもない。腐った皮を何枚も重ねたような薄い魔物が、床一面から立ち上がった。
それは布のように広がり、バルザの足を包もうとした。
バルザが笑う。
「踏んで正解だったな。出てきた」
「前向きすぎるだろ!」
透は黒鎖を振った。
灰糸が床を走る。
黒い膜の表面には、無数の小さな口が開いていた。噛むというより、張りついて熱を吸う口だ。まともに触れれば、皮膚ごと持っていかれる。
灰糸で全部を喰えば、濁りが深すぎる。
狙うのは、貼りつくための粘り。
灰が膜の表面を撫でる。
黒い粘液が乾き、膜の一部が床へ落ちた。
バルザはその隙に足を引き抜き、右拳を叩き込む。
膜が破裂した。
腐った水が飛び散る。
壁にかかった水が、じゅう、と石を溶かした。
「触るな!」
透が叫ぶ。
「もう触った」
バルザの左腕から煙が上がっていた。
皮膚が焼け、毛が焦げている。だが、バルザは顔色を変えない。
「痛くないのか」
「痛い」
「なら下がれ!」
「下がるほどじゃない」
バルザはもう一度踏み込んだ。
黒い膜が床から何枚も立ち上がる。
薄い体を重ね、通路全体を塞ごうとしていた。奥へ行かせないためではない。入口へ戻らせないためだ。前後から包むつもりらしい。
灰標が激しく震えた。
入口側にも膜が回り込んでいる。
透は舌打ちした。
「挟まれる」
リィンが封印針を床へ打つ。
青い線が背後に走り、入口側から迫る膜を一瞬止めた。
「長くは止められない」
「十分!」
「ガルド語、今は許す」
透は右腕に灰を集めた。
脇腹が痛む。
だが、ここで灰を使わなければ、戻れない。
黒い膜が前から迫る。
バルザが潰す。
潰れた膜が水を吐く。
水が床を溶かす。
溶けた隙間から、さらに薄い膜が這い出る。
数が多い。
バルザの力で押し潰せるが、押し潰すたびに腐った水が飛ぶ。力任せにやれば、通路ごと毒水に沈む。
透は息を吐いた。
力が要る。
でも、力任せでは駄目だ。
灰を体へ通す。
右腕だけではない。足。背骨。肩。灰補修した脇腹の周囲にも、細く灰を流す。
灰が骨の内側に噛む。
筋が熱を持つ。
体の芯が、少しだけ重く、強くなる。
リィンがすぐに気づいた。
「トオル、何してるの」
「動けるようにする」
「灰補修の上に灰を流してる。危ない」
「わかってる。でも少しだけだ」
「少しで止める」
「ああ」
透は自分の体の中に流れる灰へ、名を与えた。
ただの暴走ではない。
喰う力でもない。
体を動かすために、骨と筋へ灰を着せる。
「灰装」
呟いた瞬間、体の感覚が変わった。
痛みは消えない。
だが、痛みに体が負けなくなる。
脇腹の灰補修が軋む。右腕の手甲が熱を持つ。足の裏が床の凹凸を掴み、膝が衝撃を受ける準備をする。
透は前へ出た。
リィンが短く息を呑む。
バルザが振り返る。
「来るのか」
「短くだけだ」
「なら派手にやれ」
「派手にはしない」
透は黒鎖を両手で握った。
前方の黒い膜が、通路いっぱいに広がる。薄い体の奥に、核のようなものはない。ただ、床下に溜まった死骸の膜が一斉に動いている。
なら、全部を倒す必要はない。
通る道だけ開ける。
透は灰域で膜の重なりを見る。
厚い場所。薄い場所。毒水を溜めた袋。貼りつくための粘液。熱を吸う小さな口。
灰糸を広げる。
だが、広げすぎない。
必要な分だけ、膜の継ぎ目を拾う。
「バルザ、左を潰せ。水袋は避けろ」
「どれだ」
「俺が印をつける」
透は灰糸の先で、黒い膜の一部を薄く灰色に変えた。
そこは毒水の袋ではない。ただの支え。
バルザが踏み込む。
爪がそこを裂いた。
黒い膜が大きく崩れる。
毒水は飛ばない。
「次、右上」
「見えた」
バルザの拳が走る。
膜の支えが砕ける。
通路の中央に、わずかな隙間ができた。
透はそこへ黒鎖を投げた。
鎖が床に噛み、灰糸が広がる。
口を閉じる。
粘りを乾かす。
毒水の袋を避ける。
通る道だけ、膜の力を落とす。
灰が一気に流れた。
黒い膜が、中央だけ乾いて崩れる。
バルザがその隙間へ飛び込んだ。
両腕を広げ、左右の膜を押し返す。
筋肉が膨れ上がる。
足元の石が割れる。
黒い膜が何枚もバルザの腕に噛みついた。小さな口が皮膚へ食い込み、血を吸い、熱を奪おうとする。
バルザは笑った。
「この程度か」
腕を振る。
膜がまとめて引き千切れた。
黒い水が飛ぶ。
透は灰糸で毒水の飛沫を払う。全部は無理だ。数滴が頬をかすめ、焼けるような痛みが走った。
だが、止まらない。
灰装を維持する。
足が動く。
痛みの奥で、体がまだ戦えると言っている。
リィンの声が飛ぶ。
「長い!」
「あと少し!」
「本当にあと少しにして!」
「する!」
透は前へ踏み込んだ。
黒い膜の奥。
床下に溜まった死骸の灰が、濁った塊になっている。核ではない。だが、この膜たちを動かす古い飢えの中心だった。
全部喰えば、力になる。
毒への耐性。水場での感知。膜のような防御。
胸の奥の灰が囁く。
喰え。
濁りごと喰え。
水の中でも腐らない体を得ろ。
傷をもっと塞げ。
痛みを消せ。
透は奥歯を噛んだ。
「いらない」
今は力ではなく、道が欲しい。
透は灰糸を中心へ伸ばした。
飢えの全部ではない。
通路を塞げと命じている古い残り火だけ。
それを、灰で挟む。
「灰断」
白い命令線ではない。
黒い飢えの線だった。
だが、断つ感覚は同じだった。
灰糸が、膜の中心に残っていた古い飢えを切った。
黒い膜が一斉に震える。
通路を塞いでいた体が、力を失った布のように床へ落ちた。
バルザが最後に足を振り下ろす。
中心の塊を踏み砕いた。
腐った水が床へ広がる。
だが、もう動かない。
透は肩で息をした。
灰装が切れる。
その瞬間、脇腹に痛みが戻った。
膝が落ちる。
リィンが支えた。
「終わり。もう駄目」
「まだ立てる」
「立てるから駄目」
「理不尽だな」
「立てると動くから」
「……否定できない」
バルザが黒い膜の残骸を見下ろす。
左腕は焼けている。血も出ている。だが、致命傷ではない。彼は腕を振り、こびりついた膜を床へ落とした。
「今のは良かった」
「どの辺が」
透は息を切らしながら聞いた。
「俺が潰す場所を、お前が示した。毒を避けられた。力任せより早い」
「それはよかった」
「あと、お前が前に出た時、敵が止まった」
「止まった?」
「灰の匂いに怯んだ」
バルザは牙を見せた。
「強くなってるぞ、透」
その言葉に、透は黙った。
強くなっている。
自分でもわかった。
灰装。
体に灰を通した時、痛みを抱えたまま動けた。前より速く、前より正確に。灰域で見て、灰糸で印をつけ、バルザと合わせ、灰断で中心を落とした。
単に灰を喰うだけではない。
技が繋がり始めている。
それは、怖いほど速かった。
リィンが透の顔を見る。
「嬉しい?」
「少し」
「怖い?」
「かなり」
「両方でいい」
「そうなのか」
「うん。怖くなくなったら、たぶん危ない」
透は小さく息を吐いた。
通路には黒い膜の残骸が広がっている。
腐った匂いはひどい。
残酷な光景だった。潰れた膜。裂けた口。石を溶かす毒水。バルザの血。透の頬に残る焼けた跡。
それでも、通路は開いた。
灰置き場の外へ、また一歩。
ガルドが入口側から近づいてきた。
「派手にやったな」
「派手にしないつもりだった」
「結果だ」
ガルドは残骸を見て、すぐに判断する。
「この膜は使える。毒水は罠にする。乾いた膜は防水布の代わりになるかもしれん。骨杭に巻いて、細穴の封に使う」
「本当に何でも使うな」
「使わなければ、殺される側に戻る」
透はその言葉を聞いて、残骸を見た。
殺される側。
さっきまで床下で待ち構え、透たちを包もうとしていた魔物。それが今は、灰置き場を守る材料になる。
奪われる側から、奪い返す側へ。
少しずつ、変わっている。
シェラの声が入口から届いた。
「戦闘結果確認。外縁第一防衛線、確保可能」
ルカがその横で叫ぶ。
「トオル、生きてる?」
「生きてる!」
「怒られてる?」
「少し!」
「たぶん、いっぱい!」
ルカの返事に、リィンが小さく頷いた。
「いっぱい」
「そこは否定してくれ」
「無理」
バルザが笑った。
透はその場に座り込み、痛む脇腹を押さえた。
だが、口元には少しだけ笑みがあった。
戦いは激しかった。
痛かった。
危なかった。
けれど、勝った。
しかも、ただ生き延びただけではない。
通路を取り、罠の材料を得て、灰装を掴み、バルザとの連携を試した。
勝利が、次の強さになる。
奈落では、そういうことなのだろう。
透は黒い膜の残骸から立ち上る灰を見た。
喰いたい衝動はまだある。
だが、今は全部喰わない。
使えるものは、灰置き場へ持ち帰る。
自分一人の力にするのではなく、拠点の骨にする。
そう決めると、胸の奥の灰が少しだけ静まった。
ガルドが骨杭を地面に打ち込む。
「ここに灰標を置く。分岐までの中継点だ」
透は頷き、骨杭へ手を伸ばした。
痛みはある。
だが、灰は動く。
新しい灰標が、外の通路に灯った。
灰置き場から浄水室へ向かう道に、最初の防衛線ができた。




