表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

22/84

第22話 戻る道を持つ者

 灰印を持って外へ出る者は、最初は一人だけと決まった。


 バルザだった。


 本人は当然のような顔をしていたが、透としては簡単に頷ける話ではなかった。封環を外したばかりで、首にはまだ焼けた輪の跡が残っている。戦えるとはいえ、奈落の外道に一人で出すのは危険すぎる。


 だが、バルザは笑った。


「俺が行く」


「軽いな」


「軽くはない。だから俺が行く」


 そう言って、彼は右腕に結んだ灰印(かいいん)を指で叩いた。


 骨札に刻まれた黒灰色の線が、わずかに揺れる。


「これが本当に戻る道になるか、試す必要がある。なら、最初は俺がいい」


「理由は」


「死ににくい」


「雑だな」


「だが事実だ」


 ガルドが横から頷いた。


「実際、今の灰置き場で外へ出せる者の中では、バルザが最も生還率が高い」


「お前まで」


「情で決めるな。ここでは、戻れる者を先に出す」


 透は言い返せなかった。


 正しい。


 冷たく聞こえるが、正しい。


 この場所で全員を同じように扱おうとすれば、全員死ぬ。できる者が前に出る。できない者は別の役を持つ。それが、灰置き場で生きるということだった。


 ルカは骨棒を抱えながら、唇を尖らせていた。


「ぼくも道を知ってる」


「だから今回は残れ」


 ガルドが言う。


「灰印はまだ一つだ。お前が外へ出て戻れなくなれば、灰だまりの道案内が消える」


「でも」


「ルカ」


 透が呼ぶと、ルカは口を閉じた。


「今回は、灰印がどこまで使えるかを見るだけだ。ルカ用の印は、ちゃんと作る。でも、今はまだ危ない」


「……ほんとに作る?」


「ああ」


「忘れない?」


「忘れない」


 ルカは少し迷った後、頷いた。


「じゃあ、待つ。けど、道はぼくが覚える」


「頼む」


 そう言うと、ルカは少しだけ嬉しそうにした。


 リィンは透の脇腹を確認していた。


 灰補修の痕はまだ硬い。


 青い封印針で押さえられているが、無理をすれば裂ける。透自身、立って歩くことはできるが、走るのはまだ危ないとわかっていた。


「トオルは外に出ない」


 リィンが言った。


「言われなくても」


「本当に?」


「……少なくとも今回は」


「今回は、で妥協する」


「信用が少し戻ったな」


「半分」


「十分だ」


「ガルド語」


 透は苦笑した。


 セイルは入口の術式石を調整していた。手はまだ震えているが、顔つきは前よりましになっている。灰置き場に残ると決めたことで、逃げることに使っていた力が、少しずつ別の方向へ向き始めているのかもしれない。


 シェラは炉のそばに座っていた。


 休息状態のまま、右目だけが動く。彼女はバルザの灰印をじっと見ていた。


「携行灰標、接続安定。距離試験を推奨」


「どのくらいまでわかる?」


 透が聞くと、シェラはすぐに答えた。


「現状態では、直線距離で五十歩。壁や呪いの濁りを挟む場合、三十歩前後。灰道内では減衰率上昇」


「短いな」


「初期状態としては良好」


「それも十分ってやつか」


「十分」


 シェラまで言った。


 透はもう諦めた。


 バルザは入口に立つ。


 武器らしい武器はない。


 だが、その爪と牙が武器だった。封環が外れてから、彼の動きには抑えがない。体を捻るだけで筋肉が獣のように波打ち、足元の石が小さく鳴る。


 ガルドが指示する。


「正面から出て、赤黒い苔の手前まで進め。角の先は見るだけだ。骨蛇の死骸が使えそうなら回収する。深追いはするな」


「了解」


「何かいたら?」


「潰す」


「違う。戻れ」


 バルザは少し不満そうに鼻を鳴らした。


「潰してから戻る」


「状況による」


「わかった。状況を見て潰す」


「お前も透に似てきたな」


「やめてくれ」


 透が言うと、バルザは楽しそうに笑った。


「褒め言葉だろう」


「違う」


「俺はそう受け取る」


 灰幕が開かれる。


 バルザは一歩、外へ出た。


 その瞬間、透の意識の端で灰印が細く震えた。


 繋がっている。


 近い。


 灰置き場の入口から、外の冷たい通路へ。バルザが歩くたび、灰印が小さく揺れる。音は聞こえない。姿も見えない。だが、位置はわかる。


 右へ三歩。

 壁沿い。

 苔の手前。

 足を止める。


「止まった」


 透が言うと、ガルドが入口を見た。


「何かいるか」


「まだわからない。警戒してるだけかも」


 灰印は強く震えていない。


 痛みもない。


 ただ、バルザの気配が低く沈んでいる。戦う前の獣の静けさ。動く寸前の力が、灰印越しに薄く伝わってくる。


 透は無意識に灰域を伸ばそうとした。


 リィンが黒鎖を軽く引く。


「追わない」


「わかってる」


「灰印から来る分だけ」


「ああ」


 透は息を吐き、灰を抑えた。


 見るだけ。


 バルザがまた動き出す。


 角へ近づく。


 そこで、灰印が跳ねた。


 衝撃。


 だが、痛みではない。


 バルザが何かを避け、壁を蹴った。灰印の揺れが一瞬だけ上へ跳び、すぐに床へ戻る。


「戦闘」


 透が言った。


 ガルドが骨杭を持つ。


「戻せるか」


「まだ。バルザが前に出てる」


 リィンが目を細める。


「無理に引かないで。印は命令線じゃない」


「わかってる」


 命令はしない。


 引き戻す首輪ではない。


 灰印は、戻る道だ。


 透は灰印へ意識を触れさせる。


 戻れ。


 そう押しつけるのではなく、灰置き場の位置を強く灯す。


 炉の灰。

 入口の幕。

 水瓶。

 ルカの足音。

 リィンの封印。

 ガルドの骨杭。


 ここへ戻る道。


 灰印が一度、強く光るように震えた。


 角の向こうで、バルザが笑った気配がした。


 次の瞬間、重い音。


 何かが壁へ叩きつけられた。


 骨が砕ける乾いた音。続いて、濡れたものが潰れる音。


 ルカが肩を震わせる。


 透は灰印を見続ける。


 バルザの気配はまだある。


 大きく乱れてはいない。


 数呼吸の後、彼は戻ってきた。


 右腕に骨蛇の残骸を巻きつけたまま。


 いや、巻きつけているのではない。


 掴んでいる。


 骨蛇は頭を半分潰され、胴体の節がいくつも砕けていた。だが、まだ完全には死んでいない。割れた頭蓋の中で、黒い粘液が蠢いている。顎だけがかちかちと動き、バルザの腕に噛みつこうとしていた。


 バルザはそれを入口の前へ投げ捨てた。


「待ち伏せが二匹。片方は逃げた。これはまだ動く」


 骨蛇が床で跳ねた。


 砕けた胴をくねらせ、近くの足に絡みつこうとする。


 透は右手を上げた。


 灰糸が走る。


 狙うのは骨ではない。粘液でもない。砕けた頭蓋の奥で、まだ待ち伏せを続けようとする黒い残り火。


 灰糸がそれを撫でた。


 骨蛇の動きが止まる。


 顎が一度だけ鳴り、黒い粘液が灰になって崩れた。


 透は息を吐く。


「これで死んだ」


 バルザは腕についた血を振った。


「便利だな」


「そっちは派手すぎる」


「殺すなら早い方がいい」


「まあ、助かった」


「ならいい」


 ガルドが骨蛇の残骸を確認する。


「骨は使える。節をばらせば、細道の罠になる。顎も残せ。噛ませ罠にできる」


 セイルが嫌そうな顔をした。


「まだ動きそうなんですが」


「だから使える」


「奈落って本当に嫌ですね」


「今さらか」


 ガルドは平然としていた。


 バルザが透の前に戻ってくる。


「灰印は使えたぞ」


「こっちでもわかった」


「戻る場所が見えた」


 透は顔を上げる。


 バルザは右腕の骨札を見下ろしていた。


「角の向こうで、少し道がずれた。壁の影が深くなって、灰置き場の入口がわかりにくくなった。だが、これが光った」


「光った?」


「目では見えない。だが、腕の奥でわかった。戻るならこっちだ、と」


 透は灰印を見る。


 骨札の黒灰色の線が、少し濃くなっていた。


 バルザが奈落の外を歩き、戦い、戻ったことで、灰印が少し馴染んだのかもしれない。


 シェラが告げる。


「灰印、帰還補助機能を確認。持ち主の認識に干渉せず、方向感覚のみ補助」


「それならいい」


 リィンが言った。


「干渉は少ない。今のところ」


「今のところ、な」


 透は頷く。


 バルザは首輪ではないと言った。


 なら、絶対に首輪にしてはいけない。


 命令を通さない。痛みを通さない。意志を奪わない。


 戻る道だけを示す。


 その線を越えれば、灰印は神殿の封環と同じになってしまう。


 透はそのことを、深く胸に刻んだ。


「もう一回行けるか?」


 ガルドがバルザへ聞く。


 バルザは笑う。


「行ける」


「なら、今度は骨蛇の逃げた方は追うな。角の手前に罠を置く。透、見られるか」


「灰印でバルザの位置は見られる。罠の場所は、灰標を一つ外へ置けばたぶん」


 リィンがすぐに言う。


「増やしすぎない」


「固定の灰標を一つ移すだけだ。保存食の近くのやつを一時的に外す」


「保存食は?」


「ルカが見る」


 ルカが背筋を伸ばした。


「見る」


 リィンは少し考えた後、頷いた。


「短時間なら」


「よし」


 透は保存食の箱のそばに置いた灰導石の灰標を手に取った。


 意識の端から一つ灯が消える。


 その代わり、灰標をバルザへ渡す。


「角の手前、床の割れ目に置いてくれ。置いたらすぐ戻れ」


「了解」


「戦わなくていい」


「戦わなくていいなら、戦わない」


「本当か?」


「たぶん」


「俺の真似するな」


 バルザは笑って、再び外へ出た。


 今度は、灰印と灰標の二つを意識する。


 難しい。


 灰印はバルザと一緒に動く。灰標は固定するためのもの。二つの感覚が重なり、透の頭の中で少し混線する。


 リィンが黒鎖に触れる。


「分けて」


「どうやって」


「バルザは重い。灰標は冷たい。違うものとして見る」


 言われて、透は意識を分けた。


 バルザの灰印は、重い獣の気配。

 灰標は、小さな冷たい石。


 同じ灰で繋がっているが、性質は違う。


 わける。


 混ぜない。


 バルザが角の手前まで進む。


 止まる。


 灰標が置かれた。


 冷たい小さな点が、灰置き場の外に灯る。


「置いた」


 透が言う。


 その直後、灰標が細く震えた。


 何かが近づいている。


 床を擦る。細い。長い。さっき逃げた骨蛇だろう。


 灰標のすぐ向こうで、骨蛇が止まる。


 待ち伏せの気配。


 こちらを見ている。


 透は小さく息を吸った。


「角の向こうにいる。逃げたやつだ。バルザの背後を狙ってる」


 バルザが戻る途中で足を止めた。


 灰印が低く沈む。


 笑っている。


 そんな気がした。


「潰すなよ」


 透は言った。


 もちろん声は届かない。


 だが、灰印が小さく震えた。


 バルザがゆっくり後退する。


 骨蛇が動く。


 床を這い、壁の影から飛び出す。バルザの足へ絡みつこうとした瞬間、ガルドが準備していた骨蛇の顎罠が発動した。


 罠の顎が跳ね上がり、骨蛇の胴を噛む。


 砕ける音。


 骨蛇が暴れる。


 バルザは振り返りもせず、片足を後ろへ振った。


 踵が骨蛇の頭を踏み潰す。


 乾いた破裂音が響いた。


 透は灰標越しに、黒い残り火が消えるのを感じた。


 今度は、誰も傷つかなかった。


 バルザが戻ってくる。


 右足の裏に骨蛇の黒い粘液をつけたまま、満足そうに笑っていた。


「戦わなくていいと言われたが、足元にいた」


「言い訳が雑だ」


「踏んだだけだ」


「それを戦ったって言うんだよ」


 バルザは肩をすくめた。


 ガルドは顎罠の結果を見て、頷いた。


「使える。骨蛇の顎は細道の罠に向く」


 セイルが石板に記録する。


「灰標を外に置くと、罠の発動前に敵の接近がわかる……。これは、防衛線を外へ伸ばせますね」


 透はその言葉に反応した。


 防衛線を外へ伸ばす。


 灰置き場の中だけを守るのではない。


 入口の外、角の手前、灰道の分岐、処刑路の近く。


 灰標を置き、灰印を持った者が歩き、罠を仕掛ける。


 そうすれば、敵が入口に来る前に止められる。


 それは、ただ隠れるだけだった灰置き場にとって、大きな変化だった。


「外にも、守る場所を作れるのか」


 透が呟くと、ガルドが頷いた。


「そうだ。砦とは、壁の内側だけではない。外の道、罠、見張り、退路。その全部で守る」


「砦」


 その言葉は、少し重かった。


 灰置き場は、まだただの灰だまりだと思っていた。


 でも、水がある。食料がある。入口がある。見張りがある。罠ができる。戻る印もできた。


 なら、少しずつ砦になっていくのかもしれない。


 シェラが静かに言った。


「灰置き場、防衛段階一へ移行可能」


「段階とかあるのか」


「機兵記録上、拠点防衛には段階分類あり」


「今は一?」


「一。最低限の防衛線、警戒点、帰還印を確認」


「最低限か」


「はい」


 シェラは淡々としていた。


 だが、その淡々とした評価すら、今の灰置き場にとっては前進だった。


 最低限。


 つまり、ゼロではない。


 ルカが嬉しそうに言った。


「一になった」


「一で喜ぶのか」


 透が聞くと、ルカは頷いた。


「ゼロじゃない」


 透は黙った。


 ゼロじゃない。


 捨てられた者たちが集まるだけの場所ではなく、守る形を持ち始めた場所。


 それが一。


 なら、二にも三にもできる。


 透は右腕を見る。


 灰印を維持し、灰標を外に置き、灰域を繋ぎ、骨蛇の残り火を読み、バルザの帰還を感じた。


 負担はある。


 脇腹も痛む。


 頭も重い。


 だが、前より少しだけ扱える。


 灰が、自分の外へ広がっていく。


 自分を喰うためではなく、場所を守る形として。


 リィンが隣で言った。


「無理はした。でも、悪くなかった」


「褒めてるのか、怒ってるのか」


「両方」


「いつものやつだ」


「うん」


 バルザが灰印を指で叩いた。


「次はもう少し遠くまで行けるな」


「まだ早い」


 リィンが言う。


 ガルドも頷いた。


「だが、いずれ行く。浄水室への道を確かめる必要がある」


 浄水室。


 水。


 灰置き場が生き残るために、必ず必要になる場所。


 透は地図を見る。


 灰置き場から灰道を通り、貯蔵庫を越え、古い水路へ向かう道。その先に、浄水室があるかもしれない。


 そこを押さえれば、水に怯える日々は変わる。


 ただ生き延びるだけではなく、人数を増やせる。


 救える者が増える。


 透は息を吐いた。


「まず、浄水室までの道を作る」


 ガルドが片目を細める。


「決めるのか」


「必要なんだろ」


「ああ」


「なら、やる」


 バルザが牙を見せた。


「命令か?」


「違う。方針だ」


「なら、俺はその方針に従う」


 透は少しだけ眉を寄せた。


「言い方が重い」


「慣れろ」


「慣れたくない」


「慣れる」


 バルザは楽しそうだった。


 灰置き場の者たちも、静かに聞いていた。


 透はまた見られていることに気づく。


 ガルド。

 リィン。

 ルカ。

 バルザ。

 セイル。

 シェラ。

 水を抱えた女。

 焼き印の少年。

 炉のそばの老婆。

 片足の男。


 視線が集まる。


 期待だけではない。


 不安も、恐怖もある。


 でも、その奥に細いものがあった。


 この場所は変われるかもしれない、という小さな火。


 透はその火から目を逸らせなかった。


「浄水室へ行く準備をする。無理に突っ込まない。灰印と灰標を増やして、罠を作って、戻る道を確かめてから進む」


 自分で言いながら、命令のようだと思った。


 けれど、誰も笑わなかった。


 ガルドが頷く。


「了解した」


 バルザが拳を胸に当てる。


「任せろ」


 リィンは静かに言った。


「私は止める役を続ける」


 ルカが骨棒を握る。


「ぼくは道を覚える」


 セイルが震えながらも石板を持つ。


「術式を見ます」


 シェラが右目を光らせる。


「防衛段階二への移行準備を記録」


 透は、ほんの少しだけ息を詰めた。


 言葉を出せば、誰かが動く。


 それは怖い。


 だが、動かなければ何も変わらない。


 灰置き場はもう、ただ震えているだけの場所ではなくなり始めている。


 灰印が、バルザの右腕で静かに揺れた。


 外へ出て、戻ってきた印。


 その小さな骨札が、灰置き場の未来を一歩だけ外へ伸ばした。


 透は脇腹の痛みに耐えながら、地図の上に指を置く。


 浄水室へ向かう道。


 そこに、最初の灰標を置く場所を決めた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ