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第108話 その三呼吸だけ

 北巡礼宿へ向かう準備は、早かった。


 灰標団ベルディア支部の一階には、まだ壊れた荷車騎兵の鉄片が転がっている。

 石畳には透が踏み込んだ跡。

 壁にはバルザが荷車を叩きつけた衝撃の亀裂。

 床にはシェラの保守糸で縫われた捕縛者たち。


 だが、誰もそこで足を止めていない。


 片目の女は仮境目房へ運ばれた。

 黒い鐘の破片は証拠袋へ。

 荷車騎兵の車軸、灰標破壊槌、毒煙筒、黒鞭縄、すべてシェラが分類している。


 レオナはギルド職員へ指示を飛ばし、ガレンは正面扉の前に盾を置いた。

 久世は証拠棚の横へ立ち、剣を下げたまま呼吸を整えている。

 相良たちは救出者の保護部屋を固めた。


 透は裏口へ向かう。


 北巡礼宿。


 帳場番ジグ・ラウ。

 鐘が戻らなければ帳場を燃やす。

 なら、燃える前に踏み込む。


 それだけだ。


 透が一歩踏み出した時、袖を掴まれた。


 強くはない。

 だが、離れない。


 透は振り返った。


 リィンが、透の右腕を見ていた。


「血」


 透は自分の腕を見る。


 荷車騎兵の鉄板を斬り割った時、破片が腕を裂いていた。

 深くはない。

 だが、灰装で塞ぎきれず、黒い袖の下から血が滲んでいる。


「後でいい」


「今」


 短い言葉。


 透は一瞬、北巡礼宿の方へ視線を向けた。


「時間がない」


「三呼吸」


 リィンは袖を掴んだまま、動かなかった。


 その場にいた者たちが、少しだけ静かになる。


 バルザがにやりとした。


「主、止まったな」


「主じゃない」


 透はそう返したが、足は止まっている。


 ネイラが腕を組んで鼻を鳴らす。


「灰喰いにも、引き綱はあるんだな」


「ない」


「なら糸か」


 リィンは少し首を傾げた。


「糸なら、切らない」


 透は返事に困ったように眉を寄せた。


 シェラが記録板を開く。


「透、リィンの制止により行動停止。再現性あり」


「記録するな」


「重要です」


 ルカは灰標の横からじっと見ていた。


「リィンが呼ぶと、トオル戻る」


 美琴が小さく呟く。


「……本当に、止まるんだ」


 真由は何も言わなかった。

 ただ、透とリィンの間に流れる空気を、静かに見ている。


 リィンは透の腕に青い針を一本だけ刺した。


 傷を縫う針ではない。

 灰装の乱れを押さえ、血の流れを止めるための封印針。


 透の腕の内側で暴れていた灰が、すっと静まる。


 一呼吸。


 リィンの指が血を拭う。


 二呼吸。


 青い針が小さく震え、傷の端を固定する。


 三呼吸。


 リィンが袖を離した。


「動ける」


 透は右手を握った。


 痛みは残っている。

 だが、腕はぶれない。


「助かった」


 リィンは頷いた。


「隣にいるから」


 それだけ言って、リィンは透の斜め後ろへ立つ。


 透は一拍だけ黙り、それから歩き出した。

 今度は、ほんの少しだけリィンの歩幅に合っていた。


 ルカがそれを見て、小さく笑った。


 灰標団は夜のベルディアを走った。


 北巡礼宿は、王都へ向かう巡礼路の手前にある古い宿だった。

 旅人、巡礼者、荷運び、行商人が使う場所。

 王都へ向かうには便利で、亜人街や東水路からも遠すぎない。


 つまり、荷を隠すには都合がいい。


 透は走りながら言った。


「整理する」


 隣を走るオルガが短く頷く。


「聞こう」


「鐘が戻らなければ帳場を燃やす。なら、燃やす役がいる。帳簿を持ち出す役もいる。追っ手を足止めする役もいる」


 シェラが記録板へ走り書きする。


「最低三班」


「そうだ。燃やす役は奥。持ち出す役は裏。足止めは表か屋根」


 ルカが前方を指す。


「宿の裏に、荷の道。表は人が多い道。燃える匂い、もう少し」


 ネイラの目が細くなる。


「火の準備はしてるな」


 透は頷く。


「リィン、火を広げる封印や命令があれば止めろ」


「うん。火そのものは?」


「ネイラ」


「焼く火なら焼く。燃やす奴は殴る」


 バルザが笑った。


「俺は?」


「裏の荷車。出すな」


「いいな」


 オルガが言う。


「私は屋根を見る。逃げる奴は上を使う」


「シェラは帳簿と刻み。荷札を逃がすな」


「了解」


「ルカは道。奥へ行くか戻るか、迷ったら言え」


「わかった」


 マリウスは後方で息を荒げながらも、必死についてきている。


「……この速度で、会議をしながら走るのですか……」


 オルガが言った。


「現場は待たん」


 やがて、北巡礼宿が見えた。


 石造りの一階。

 木造の二階。

 表には巡礼者用の白い小旗。

 馬小屋。

 荷置き場。

 裏手には背の高い塀。


 表向きは静かだった。


 だが、ネイラが鼻を鳴らす。


「油の匂い」


 リィンが青い針を一本飛ばす。


 宿の屋根上で、針が震えた。


「火を広げる札。屋根、三つ」


 ルカが言う。


「裏に荷車。もう動く」


 透は迷わなかった。


「表は囮。裏から入る」


 バルザが塀を見上げた。


 普通なら門を探す高さだ。

 だが、バルザは塀の前に立ち、両手を石の隙間へ差し込んだ。


「壊していいか」


「証拠になるところは残せ」


「じゃあ、端だけだな」


 バルザの腕に力が入る。


 石塀が軋む。


 人が通るための門ではない。

 獣がこじ開けるような力だった。


 石が砕け、木枠が弾ける。


 バルザは塀の端をまるごと外側へ折った。


 轟音。


 宿の裏手にいた男たちが振り向く。


 荷車が二台。

 一台には樽と布袋。

 もう一台には帳簿箱らしき鉄箱。


 その周りに、灰境商の護衛が六人。


 そして、赤茶の外套を着た痩せた男がいた。


 耳の後ろに、三本線と欠け点の刻み。


 ジグ・ラウ。


 男は一瞬だけ目を見開いた。


「早すぎる……!」


 透は崩れた塀を踏み越えた。


「鐘は戻らない」


 ジグ・ラウは即座に手を振る。


「燃やせ!」


 屋根上の火札が起動する。


 だが、リィンの針がすでに刺さっていた。


 青い光が屋根を走る。

 火を広げる命令だけが縫い止められる。


 同時に、ネイラの黒炎が屋根へ伸びた。


 黒い火が三つの札を舐める。


 紙は残る。

 命令だけが死ぬ。


「遅い」


 ネイラは吐き捨てた。


 ジグ・ラウの顔が歪む。


「荷を出せ!」


 護衛たちが荷車を押す。

 魔導車輪が唸る。

 裏の細い道へ抜ければ、北巡礼路へ逃げられる。


 バルザが前に出た。


 一台目の荷車が動く。


 バルザは横から車輪を掴んだ。


 止める。


 車輪は回ろうとする。

 魔導具が悲鳴を上げる。

 だが、獣人の腕は動かない。


 バルザは車輪を片手で押さえ、もう片方の手で車軸を掴んだ。


「荷車ってのはな」


 車軸が軋む。


「折る場所が決まってる」


 ばきん、と音がした。


 車軸が折れた。


 荷車が片側へ傾き、樽が転がる。

 護衛が悲鳴を上げて逃げようとしたところを、バルザが襟首を掴み、二人まとめて地面へ叩き伏せた。


 二台目は鉄箱を積んでいる。


 ジグ・ラウがそちらへ走る。


 透が前へ出た。


 護衛三人が立ち塞がる。


 一人は大盾。

 一人は斧。

 一人は鎖分銅。


 透は止まらない。


 大盾の男が前へ出る。


 透は灰骸刀を振った。


 斬撃は盾の中央へ入った。


 命令線などではない。

 ただの、重い斬撃。


 盾が割れた。


 その奥の男ごと、後方へ吹き飛ぶ。


 斧使いが横から振り下ろす。


 透は左手で斧柄を掴んだ。


 握る。


 木柄が砕けた。


 そのまま男の胸へ肩を入れ、体ごと弾き飛ばす。

 男は荷置き棚へ突っ込み、棚が崩れた。


 鎖分銅が透の首を狙う。


 リィンの針が鎖の軌道を一瞬だけ止めた。


 透は振り返りもせず、灰骸刀の峰で分銅を叩いた。


 鉄球が逆に跳ね返り、持ち主の腹へめり込む。


 男が膝をつく。


 透はその横を通り過ぎた。


 ジグ・ラウは鉄箱へ手をかけていた。


 箱の蓋には焼却札。

 開けると燃える。

 持ち出しても燃える。

 追いつかれても燃える。


 ジグは叫ぶ。


「近づくな! 証拠ごと燃えるぞ!」


 透は止まった。


 ジグの顔に、わずかに余裕が戻る。


 だが、それは一呼吸だけだった。


 透は言った。


「シェラ」


「箱の底部、火薬粉。側面、記録水晶。蓋裏、焼却札。ジグ・ラウの右手親指に起動環」


 リィンが青い針を飛ばす。


「親指、止めた」


 ジグの右手が動かなくなる。


「なっ……!」


 ネイラの黒炎が箱の蓋を舐める。


「燃える命令、焼いた」


 透は歩き出した。


 ジグの顔から余裕が消える。


「待て! 取引だ! 白倉の本庫の道を――」


「遅い」


 透の左手が、ジグの胸倉を掴んだ。


 持ち上げる。


 足が地面から離れた。


 ジグは両手で透の手を剥がそうとする。

 だが、指一本動かない。


「お前が選べるのは、今吐くか、折られて吐くかだけだ」


 ジグの顔が引きつる。


「中央ギルドの前で、そんなことが――」


 マリウスが崩れた塀の向こうから、息を切らしながら入ってきた。


 透はジグを持ち上げたまま、マリウスを見る。


「記録しろ」


「……はい」


 マリウスは震える手で査察帳を開く。


 透はジグへ視線を戻す。


「質問は三つ。白倉本庫への道。灰境商の次の帳場。古井戸の子どもの名簿」


 ジグは唇を震わせる。


「知らない」


 透はジグを、荷車の鉄枠へ叩きつけた。


 鉄枠が歪む。


 ジグの背中から空気が抜ける。


 透は離さない。


「一つ目」


「……北巡礼路の三番祠から、王都東倉庫区へ繋がる荷道がある!」


「二つ目」


「帳場は移る! 次は聖灯孤児舎の裏じゃない、違う、使うふりだけだ! 本当は北の廃石橋!」


「三つ目」


「名簿は箱の底だ! 二重底! 燃やす札の下に、骨札写しがある!」


 シェラが即座に鉄箱へ膝をついた。


 灰殻の指が箱の底を探る。


 リィンが青い針で残った命令を押さえる。

 ネイラが燃焼命令だけを焼く。


 シェラの指が底板を外した。


 中から、薄い骨札の束が出てくる。


 小さな文字が刻まれている。


 番号。

 特徴。

 種族。

 搬送元。

 搬送先。

 そして、いくつかの名前。


 ルカがそれを見て、息を呑んだ。


「名前、残ってる」


 透の手に力が入った。


 ジグが悲鳴を上げる。


 透はすぐに力を緩めた。


 殺すには早い。


 名前を戻すために、まだ吐かせることがある。


 オルガの槍が屋根から降った。


 逃げようとしていた二人の外套が、地面へ縫われる。


「奥の連中も止めた。宿の表は空だ。客はすでに逃がされている」


 シェラが記録板を確認する。


「宿内部、生体反応四。うち二名、地下。小型。拘束可能性」


 透はジグを地面へ投げた。


「バルザ、見張れ。動いたら膝」


「了解」


 バルザがジグの横に立つ。


 ジグは動けない。


 透は宿の裏口へ向かった。


 扉には鉄錠がかかっている。


 鍵を探す時間はない。


 透は足を上げ、扉の中央を蹴った。


 蝶番が吹き飛ぶ。


 扉が内側へ倒れ、廊下の床を叩いた。


 宿の中は暗い。


 巡礼宿らしい白布の飾り。

 壁にかかった聖印。

 だが、その奥に血と油と古い荷縄の匂いがある。


 ルカが透の袖を少しだけ引いた。


「下。左」


 透は頷く。


「リィン」


「うん」


 リィンが青い針を前方へ飛ばす。


 廊下の床に、細い封印線が浮かぶ。


 踏めば足を縛る罠。

 声を消す札。

 地下への隠し戸。


 リィンが必要なところだけ止める。


 透は止まらない。


 床板に灰骸刀の柄を叩き込む。


 隠し戸が跳ね上がった。


 地下から男が飛び出そうとする。


 透の拳がその顔面を打った。


 男は何も言えず、階段下へ落ちる。


 透は階段を駆け下りた。


 地下室には、二人の子どもがいた。


 手足を縛られ、口に布。

 一人は鳥の羽を持つ少女。

 もう一人は犬耳の少年。


 部屋の奥には、小さな火鉢。

 火鉢の中で、札が燃えかけている。


 ネイラが踏み込む。


 黒炎が火鉢を包む。


 火を消すのではない。


 札を燃やし尽くす命令だけを焼き殺す。


 火鉢の火は小さくなり、札は半分残った。


 シェラがすぐに回収する。


「地下救出対象二名。焼却未完了札、確保」


 リィンが子どもたちの声止め布を外す。


 鳥羽の少女が震えながら透を見る。


「殺さないで……」


 透は灰骸刀を鞘に戻した。


「殺さない」


 犬耳の少年が泣きながら言う。


「名前、言ったら、売られるって……」


 ルカが前に出た。


 彼女は膝をつき、二人と目線を合わせる。


「ここでは、言っていい。言えないなら、あとでいい」


 鳥羽の少女の目から涙が落ちる。


「……ミア」


 シェラが記録する。


「ミア。鳥羽あり。姓不明」


 犬耳の少年は震えながら言った。


「ロク。たぶん、ロク」


 ルカが小さく頷いた。


「たぶんでも、書く」


 透は地下室の入口に立ち、周囲を見た。


 また二人。


 間に合った。


 だが、これは終わりではない。


 ジグ・ラウは北巡礼宿の帳場番。

 その上に、まだ帳場がある。

 廃石橋。

 王都東倉庫区。

 白倉本庫。


 灰境商の道は、まだ太い。


 地上へ戻ると、ジグはバルザの足元でうずくまっていた。


 透はその前に立つ。


「名簿は残った。子どもも見つけた。お前の取引材料は減った」


 ジグは血の混じった唾を吐く。


「お前、何なんだ……灰喰いが、なぜそんなに……」


 透は答えた。


「荷じゃないものを、荷にしたからだ」


 ジグは黙った。


「名前があるものを、値札にしたからだ」


 透は灰骸刀の柄に手を置く。


「戻すだけだ」


 オルガが静かに言った。


「北巡礼宿、制圧。帳場番ジグ・ラウ捕縛。骨札名簿確保。救出対象二名」


 マリウスがそれを記録する。


 その手は震えていたが、文字は崩れなかった。


 リィンが透の横に来た。


 青い針を一本だけ持っている。


「腕、また開いた」


 透は右腕を見る。


 傷から、少しだけ血が滲んでいる。


「戻ってからでいい」


「今」


 透はジグを見下ろしたまま、少しだけ黙った。


 そして、右腕をリィンへ差し出した。


 バルザがまた笑う。


「主、二回目だな」


「主じゃない」


 リィンは透の腕へ針を刺す。


 夜の北巡礼宿の裏庭で、壊れた荷車と捕縛者と証拠箱のそばで、三呼吸だけ静かな時間が落ちた。


 一呼吸。


 青い針が灰を整える。


 二呼吸。


 透の肩から、ほんの少し力が抜ける。


 三呼吸。


 リィンが言う。


「まだ動ける」


「ああ」


 透は腕を下ろした。


 そのやり取りを、マリウスが思わず記録しようとして、シェラが先に言った。


「透、リィンの処置により戦闘継続可能。精神安定効果も推定」


「余計なことを書くな」


「重要です」


 リィンは少しだけ目を伏せた。


 透は何も言わず、歩き出す。


 支部へ戻るために。


 救い出したミアとロクを連れて。

 ジグ・ラウと骨札名簿を連れて。

 黒鞭でも白倉でも灰境商でもない場所へ。


 ルカが道番の板を抱え、先頭に立つ。


「戻る道、こっち」


 灰標団は、夜の巡礼路を戻った。


 北巡礼宿の裏庭には、折れた荷車と潰れた帳場の跡が残る。


 荷を運ぶための場所は、力で砕かれた。


 名前を消す帳場は、記録ごと奪われた。


 そして、透の隣にはリィンがいた。


 戦場を止めるのではなく、透を戻すために。


 その三呼吸だけは、誰にも奪わせない。


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