第106話 待つ理由がない
神殿の白い列が東水路の向こうへ消えた後も、灰標団ベルディア支部の前には重い空気が残っていた。
折れた聖杖。
白鎖の残骸。
灰境商の魔導獣が漏らした黒い油。
そして、扉の上に打ちつけられたばかりの看板。
灰標団
ベルディア支部
黒鞭の荷板を削り、命令を焼き、所有線を抜き、灰で名を書いた板。
ただの看板ではない。
ここは、もう誰かの荷置き場ではない。
白倉の隠し口でもない。
神殿が勝手に踏み込む場所でもない。
そのことを示す、最初の板だった。
だが、透は看板を見上げて終わりにはしなかった。
シェラが仮境目房から戻ってくる。
「灰境商捕縛者の耳後ろ刻み、三本線一点欠け。ゼグラ証言と照合。ベルディア側の荷道管理補助者、または帳場番下位と推定」
レオナが眉をひそめる。
「下位であれだけ知っているなら、上はもっと深いな」
「はい。追加情報。亜人街古井戸、現時点で封鎖中との証言。ただし、封鎖解除札を別働が保持している可能性あり」
ロウ老人の顔が険しくなった。
「亜人街の古井戸は、もう使っておらん。昔の疫病の後に石蓋で塞いだ井戸だ。子どもが近づかんように、柵もある」
ルカが道番の板を見つめる。
「でも、道は死んでない。細いけど、残ってる」
その言葉で、透は動いた。
灰骸刀の柄に手を置く。
「行く」
マリウス査察官が即座に顔を上げた。
「今からですか?」
「ああ」
「神殿との衝突直後です。捕縛者の管理、証拠記録、中央への緊急報告もあります。古井戸の確認は、明朝にベルディアギルド、中央ギルド、亜人街自治会の合同調査として――」
「遅い」
透の一言で、マリウスの言葉は止まった。
透はロウ老人、レオナ、マリウス、オルガを順に見た。
「理由を並べる」
誰も口を挟まなかった。
「一つ。灰境商は捕まった。相手は、道が吐かれたと考える」
透の指が一本立つ。
「二つ。神殿がここへ来た。支部と捕縛者が表に出た。動きはもう隠せない」
二本目。
「三つ。古井戸は亜人街にある。消されるなら、証拠だけじゃない。道の上に住んでいる人間が巻き込まれる」
三本目。
「四つ。白花では、遅れた分だけ名前が消えた。橋では箱に火が仕込まれていた。倉庫では魔導獣が出た。相手は、待てば待つほど消す」
四本目。
「五つ。今なら、捕縛者の証言、ゼグラの情報、ルカの道、シェラの刻み照合がある。道が熱いうちに押さえられる」
五本目。
透は手を下ろした。
「明朝まで待つ理由がない」
マリウスは反論しようとした。
だが、言葉が出なかった。
理屈として、正しい。
それも、嫌なほどに。
相手は証拠を燃やす。
道を潰す。
捕縛者を殺しに来る。
そして、古井戸は亜人街の内側にある。
待つという選択肢は、手続きとしては整っている。
だが、守るための選択肢ではない。
レオナが短く息を吐く。
「行くなら、少数だ。支部を空にするな」
透は頷く。
「バルザ、リィン、シェラ、ネイラ、ルカ。来い」
バルザが牙を見せる。
「待ってた」
リィンは青い針を袖に戻す。
「井戸なら、封じる線がある」
シェラは記録板を腰へ固定した。
「古井戸調査、緊急対応。証拠回収袋、封印札、灰布縄、携行」
ネイラは黒炎皿を指で弾く。
「燃やすなと言われる前に言っておく。燃やすべきものは燃やす」
「命令と敵だけだ」
「わかっている」
ルカは道番の板を抱え直した。
「古井戸、たぶん下が怖い」
透は頷いた。
「だから一人で行くな」
「うん」
オルガが槍筒を背負う。
「私も行く」
レオナが眉を上げた。
「支部護衛は?」
ガレンがへこんだ盾を地面に置いた。
「私が残る。壁なら必要だろう」
バルザがガレンを見る。
「壁、頼む」
「ガレンだ」
「覚えてる」
「なら呼べ」
「壁」
ガレンは低く笑った。
「まあいい」
マリウスは査察帳を抱えたまま、迷っていた。
透が言う。
「来るなら来い。邪魔なら置いていく」
有無を言わせない言い方だった。
マリウスは一瞬だけ目を閉じ、それから頷いた。
「同行します。中央ギルド査察官として、現場を記録します」
「走れるか」
「……努力します」
オルガが言った。
「遅れたら担ぐ」
マリウスの顔が少し青くなった。
支部にはガレン、ダグラス、アルマ、久世、相良たちが残ることになった。
レオナも残り、中央への報告と支部防衛を続ける。
久世は一歩前に出かけた。
だが、透が先に言った。
「久世、お前はここだ」
「なぜだ」
「神殿が戻る可能性がある。支部に剣が要る。証拠箱へ近づく奴を斬るな。止めろ」
久世は一瞬だけ歯を食いしばった。
だが、以前のように反発しなかった。
「……わかった」
「任せる」
その言葉に、久世の肩がわずかに動いた。
透はもう見ていなかった。
灰標団は、夕暮れの東水路沿いを走った。
先頭はルカ。
そのすぐ後ろに透。
左右をバルザとネイラ。
リィンは透の斜め後ろ。
シェラは走りながら記録板に道を書き込む。
オルガは槍筒を揺らさずついてくる。
マリウスは必死に走っていた。
亜人街へ近づくにつれ、通りの匂いが変わる。
薬草。
獣脂。
焼いた穀物。
湿った石。
古い井戸水。
ロウ老人が先導の一人を出してくれたため、亜人街の者たちは道を開けた。
だが、不安そうな視線が集まる。
灰標団が走ってくる。
Aランクのオルガもいる。
中央査察官までいる。
何かが起きていると、誰でもわかる。
古井戸は、亜人街の奥にあった。
古い石壁に囲まれた小さな広場。
中央に、厚い石蓋で塞がれた井戸。
周囲には木柵。
柵には、子ども除けの古い札がぶら下がっている。
だが、ルカは広場へ入った瞬間、顔をしかめた。
「開いてる」
石蓋は閉じている。
柵も壊れていない。
だが、ルカは首を振った。
「上は閉じてる。でも下が開いてる」
リィンが青い針を一本飛ばす。
井戸の石蓋に触れた針が、細かく震えた。
「内側から削ってる。封鎖じゃない。蓋の下に、薄い穴」
シェラの右目が光る。
「石蓋下、振動あり。生体反応、複数。金属摩擦音。小型魔導具」
透は灰骸刀を抜いた。
マリウスが慌てて言う。
「待ってください、蓋を無理に壊すと井戸全体が――」
「壊さない」
透は石蓋の縁に立つ。
灰装を足に巡らせる。
灰骸刀を逆手に持ち、刃ではなく峰を石蓋の中央へ当てた。
次の瞬間、透は踏み込んだ。
石蓋が悲鳴を上げる。
斬ったのではない。
押した。
上から、力で。
古い石蓋の中央に亀裂が走る。
だが、砕け散らない。
透は左手で石蓋の縁を掴む。
指が石に食い込む。
マリウスが声を失った。
人間の指が、石に食い込んでいる。
透は亀裂の入った石蓋を、力任せに持ち上げた。
重い。
大人四人でも動かせないような厚みの石蓋。
それが、灰を纏った少年の腕で持ち上がる。
筋肉が軋む。
肩が沈む。
足元の石畳が割れる。
だが、透は持ち上げた。
そして横へ投げるのではなく、静かにずらした。
落とせば音で下に知らせる。
砕けば井戸が崩れる。
だから、力で持ち上げ、制御して置く。
オルガが低く言った。
「膂力だけではない。重さを殺している」
バルザが笑う。
「主は雑に見えて、雑じゃない」
「主じゃない」
透は短く返した。
井戸の中から、冷たい風が上がった。
腐った水の匂いではない。
油。
鉄。
灰。
それから、微かな血の匂い。
ルカが井戸の中を指す。
「下に横道。今、人がいる」
その瞬間、井戸の奥から黒い筒が突き出た。
吹き矢。
透が反応するより先に、リィンの青い針が飛んだ。
筒の先端を叩き、矢を逸らす。
矢は横の石壁に刺さった。
じゅ、と音を立てて石を焦がす。
ネイラの顔が険しくなる。
「毒じゃない。溶かす粉だ」
バルザが井戸の縁を掴む。
「下か」
透が言う。
「俺が先に落ちる」
「狭いぞ」
「狭いからだ」
透は井戸の中へ飛び込んだ。
足場はない。
だが、灰瞬壁を足元に薄く置き、壁を蹴り、落下速度を殺す。
下から二本目の吹き矢が来る。
透は空中で灰骸刀を振った。
矢が斬れる。
さらに、井戸の底から槍が突き上げられた。
透は避けなかった。
灰骸刀の峰で槍を叩き折る。
そのまま落ち、槍を持っていた男の肩へ膝を叩き込んだ。
水のない井戸底に、骨が軋む音が響く。
男が崩れた。
透は立ち上がる。
井戸底から横へ続く狭い搬送路。
そこに、灰境商の下働きが五人。
小柄な亜人を運ぶために使われたであろう低い通路。
奥には、鉄の小型荷車。
さらにその上に、布をかけられた箱。
箱から、小さな息遣いが聞こえた。
透の目が沈む。
「まだ使ってない、だったな」
灰境商の男は嘘をついていた。
いや、半分だけ本当だったのかもしれない。
古井戸は「封じている」のではない。
封じたふりをして、必要な時に開けていた。
下働きの一人が叫ぶ。
「灰喰いだ! 箱を落とせ!」
奥の男が荷車を蹴ろうとする。
透は地面を蹴った。
狭い通路の中で、体ごと突っ込む。
肩が壁を削る。
灰骸刀が低い天井をかすめる。
下働き二人が斧を振る。
透は一人目の斧を左腕で弾いた。
骨ではなく、武器の柄が砕ける。
二人目の腹に、灰骸刀の柄頭を叩き込む。
男が通路の壁へめり込む。
奥の荷車へ手を伸ばした男の手首を、透は掴んだ。
握る。
手首の骨が鳴った。
男が絶叫する。
透はそのまま男を引き寄せ、膝で胸を打った。
空気が抜ける音。
男は崩れた。
箱は落ちない。
上からバルザが降りてくる音がした。
井戸の壁を爪で削りながら、獣人がほとんど落下の勢いで降りてくる。
底に着地した瞬間、地面が揺れた。
「狭いな」
バルザはそう言いながら、横道へ体をねじ込んだ。
逃げようとした下働き二人を、左右の壁ごと押し潰すように捕まえる。
一人は肩を掴まれ、壁に叩きつけられる。
もう一人は足首を掴まれ、逆さに吊られた。
「おい、主。こいつら生かすのか」
「吐かせる」
「了解」
バルザは逆さの男を軽く揺らした。
「聞いたか。死ねないぞ」
男は悲鳴を上げた。
リィンとネイラ、シェラも順に降りてくる。
リィンは横道の奥へ青い針を飛ばした。
「落とし穴。あと、声消し」
針が通路の床と天井に刺さる。
声を消す札は残す。
起動だけ止める。
ネイラは荷車の下へ黒炎を伸ばした。
「焼却粉。箱を落とすと火がつく」
「止めろ」
「もう止めてる」
黒炎が荷車の車軸を舐める。
粉は燃えない。
火を出す命令だけが黒く縮んで死ぬ。
シェラは箱の布をめくった。
中にいたのは、二人の子どもだった。
一人は鼠耳の少年。
もう一人は角の小さい少女。
どちらも口に声止め布を噛まされ、手首に細い荷札をつけられている。
生きている。
透の手に力が入る。
リィンがすぐに針を伸ばす。
「外す。声は戻る」
シェラが記録する。
「救出対象二名。亜人街古井戸下搬送路。荷札あり。番号化前、または別帳簿扱い」
ルカが井戸上から声を落とした。
「戻る道、上! 奥は危ない!」
透は奥を見た。
搬送路はさらに続いている。
だが、今追えば子ども二人を置くことになる。
透は即断した。
「子どもを上げる。奥は塞ぐ」
バルザが男たちを床へ転がす。
「奥の奴は?」
通路の奥で、足音が逃げている。
灰境商の別働だ。
オルガの声が井戸上から響いた。
「外側へ抜けるなら、私が縫う」
次の瞬間、遠くで悲鳴が上がった。
オルガの槍がどこかの出口を押さえたのだ。
透は子どもの箱を抱えた。
箱ごとでは重い。
だが、持てない重さではない。
バルザが捕縛者二人を片手ずつで担ぐ。
シェラが荷札と焼却粉の残骸を回収する。
ネイラが黒炎で床の火命令を焼き潰す。
リィンが声止め布を外し、子どもたちの喉を青い針で軽く撫でる。
鼠耳の少年が、かすれた声で言った。
「……帰れる?」
透は箱を持ち上げたまま答えた。
「帰す」
その声に、少年は泣き出した。
井戸上へ戻る時、透は箱を片腕で抱え、もう片方の手で井戸壁を掴んだ。
石に指が食い込む。
足をかけ、腕力で体を引き上げる。
子ども二人を入れた箱を揺らさないように。
一歩、また一歩。
人間の登り方ではない。
マリウスは井戸の上でそれを見下ろし、言葉を失っていた。
透が井戸から上がる。
腕の中の箱を、リィンとルカが受け取る。
亜人街の者たちが駆け寄った。
ロウ老人が震える声で言う。
「その子らは……」
シェラが荷札を確認する。
「鼠耳少年、荷札名なし。角持ち少女、記号のみ。名簿照合必要」
ルカが子どもたちの前にしゃがむ。
「名前、言える?」
少年は泣きながら首を振る。
少女も震えている。
ルカは頷いた。
「じゃあ、あとでいい。今は水」
その言葉に、サリカが動いた。
支部から持ってきていた水筒を差し出す。
「ゆっくり」
リザも灰布を持ってくる。
救われた子どもが、次の子どもへ水と布を渡す。
透はそれを見て、少しだけ目を伏せた。
だが、すぐに奥の通路へ視線を戻す。
オルガが戻ってきた。
外套の袖に血はない。
槍の先にも、深い血はついていない。
「逃げた二人、足と外套を縫った。生きている」
「どこだ」
「東の古壁下。ガレンを呼べば運べる」
マリウスが震える声で言った。
「古井戸が、まだ使われていた……」
透は彼を見た。
「だから待たなかった」
マリウスは答えられなかった。
透は井戸の縁へ立ち、奥の搬送路を見下ろす。
「シェラ、記録」
「はい」
「古井戸下搬送路、現役。救出対象二名。灰境商別働捕縛。焼却粉、声止め布、荷札、搬送箱、確保。亜人街側の封鎖は不十分」
「記録完了」
「レオナへ灰信」
「送信します」
シェラが携帯灰信片を起動する。
――亜人街古井戸、現役搬送路確認。救出対象二名。捕縛者追加。証拠確保。支部へ移送準備。
灰信片が淡く光る。
すぐに返事が来た。
――レオナより。支部受け入れ準備。薬師組合へ連絡済み。ガレン、搬送支援に向かう。中央記録継続。
透は頷いた。
その時、捕まった下働きの一人が震えながら叫んだ。
「俺たちは運んだだけだ! 名前なんか知らない! 帳場の命令で――」
透は歩み寄った。
男の胸倉を掴む。
持ち上げる。
足が地面から離れる。
「運んだだけ?」
男は喉を鳴らす。
透の腕に力が入る。
首ではない。
胸倉。
だが、全身が吊られて息が苦しくなる。
「箱の中に何がいるか、知らなかったのか」
「……っ」
「声止め布を噛ませたのは誰だ」
「俺じゃ――」
「荷札をつけた腕を見なかったのか」
男の顔が歪む。
「俺は、命令で……」
透は男を広場の石壁へ叩きつけた。
背中が石に打ちつけられ、男が呻く。
透は離さない。
「命令で運んだなら、命令した奴の名前を言え」
「知らな――」
透の拳が、男の顔の横の石壁に叩き込まれた。
石が砕けた。
破片が男の頬をかすめる。
男は悲鳴を上げた。
透の声は静かだった。
「次は壁じゃない」
有無を言わせない。
男は震えながら吐いた。
「帳場番の名は、ジグ・ラウ! 顔は知らない! 札だけだ! 三本線に欠け点! 北巡礼宿で荷を渡せと……古井戸は今日で潰せと言われた!」
シェラが即座に記録する。
「帳場番名、ジグ・ラウ。北巡礼宿接続。古井戸本日破棄予定」
透は男を地面へ落とした。
「やっぱり、待つ理由はなかった」
マリウスはその言葉を、ただ聞いていた。
夜が近づいていた。
亜人街の古井戸は、もう秘密の荷道ではなくなった。
灰標団が踏み込み、石蓋を上げ、子どもを取り戻し、捕縛者を引きずり出した。
理屈で急ぐ理由を並べ、力で道を開けた。
その結果、二人の名前が消える前に間に合った。
透は灰骸刀を鞘に納める。
鞘の白い骨玉が、暮れかけた光の中で揺れた。
まだ名のない二人の子どもが、水を飲んでいる。
その姿を見て、透は短く言った。
「支部へ戻る」
ルカが頷く。
「戻る道、こっち」
灰標団は、捕縛者と証拠と救出者を連れて、灰標の灯る支部へ戻った。
背後では、亜人街の者たちが古井戸を囲み始めている。
もう、そこを誰かの荷道にはしないために。
その夜、灰標団ベルディア支部の名簿棚には、新しい骨札が二枚置かれた。
名前はまだない。
だが、番号でも荷札でもなかった。
ルカがそこに、炭筆で小さく書いた。
――戻った子。
仮の言葉。
けれど、その二文字だけで、荷は人に戻り始める。
透はそれを見て、灰信板の前に立った。
北巡礼宿。
帳場番ジグ・ラウ。
灰境商の道は、まだ続いている。
なら、次も同じだ。
待つ理由がなければ、待たない。
奪われる前に踏み込み、消される前に掴み、逃げ道ごと力で潰す。
灰標団の支部に、夜の灰灯がともった。
その灯は、もう小さな避難所の灯ではない。
道を奪った者たちを追うための、狼煙でもあった。




