第105話 渡す理由がない
灰標団ベルディア支部の扉に、まだ看板はなかった。
だが、その前にはすでに人が集まり始めている。
旧水車倉庫の中では、捕縛された灰境商の男が仮境目房に入れられていた。
地下貯蔵室の四隅にはリィンの青い封印針。
床にはシェラの保守糸。
入口にはバルザ。
水路側にはネイラ。
灰信板の前にはルカが座り、道番の板に古井戸と水路の線を書き足している。
外では、中央ギルド査察官マリウスが、レオナと書類を確認していた。
S級審査対象。
A級依頼参加資格仮付与。
灰標団ベルディア支部、機能開始。
灰境商捕縛。
それらの文字が査察帳に書かれた時点で、この場所はただの倉庫ではなくなっていた。
そして、ただの倉庫ではなくなった場所には、必ず手が伸びる。
夕暮れが近づく頃、東水路の向こうから白い列が来た。
神殿の白衣。
王都騎士の銀甲。
武装神官の聖杖。
先頭には、王都神殿監督官エルド・カッサ。
その横に、ベリオがいた。
白花修道院で沈黙していた武装神官は、今度は最初から聖杖を握っている。
バルザが扉の横で牙を見せた。
「来たな」
透は倉庫の入口に立っていた。
灰骸刀は鞘に収めている。
だが、右手は柄から遠くない。
エルドは穏やかな笑みを浮かべたまま、一礼した。
「篠宮透。ベルディアギルド長。中央ギルド査察官殿。白花修道院事案について、王都神殿より正式な申し入れがあります」
レオナが腕を組む。
「今度は何だ」
エルドは白い封筒を取り出した。
封蝋には神殿の聖印。
「灰境商の捕縛者、および白倉関連証拠の一部を、王都神殿監査保管へ移送していただきたい」
空気が冷えた。
マリウスが眼鏡を押し上げる。
「理由を伺えますか」
「灰境商は人族領と魔族領を跨ぐ危険な境界犯罪者です。魔族、黒炎炉、王核派に関わる情報を有する可能性がある。神殿は境界封印と異種魔力管理を担う機関として、これを監査する責務があります」
エルドの言葉は整っていた。
責務。
監査。
保管。
境界封印。
いかにも正しい顔をした言葉。
ベリオが一歩前へ出る。
「このような危険人物を、仮登録クランの地下に置くなど認められない。灰喰いと魔族を抱える集団なら、なおさらだ」
ネイラの目が細くなる。
黒炎皿が微かに熱を持った。
透は片手を上げた。
ネイラは舌打ちしたが、火は出さない。
透はエルドを見た。
「質問する」
「どうぞ」
「白倉は神殿の機関か」
エルドの笑みが、ほんの少し固まった。
「白倉という名称については、現在確認中です」
「答えろ。神殿の機関か」
「正式な神殿機関として、私がここで断定することはできません」
「なら、白倉関連証拠を神殿が保管する理由がない」
エルドの目が細くなる。
透は続ける。
「次。白花修道院は神殿管轄か」
「白花修道院は神殿の認可を受けた救護施設です」
「管轄だな」
「認可施設です」
「逃げるな。神殿が監督していた施設だな」
エルドは一瞬沈黙した。
マリウスの筆が動く。
レオナの視線が鋭くなる。
エルドは答えざるを得なかった。
「監督権限はあります」
「なら、白花の地下で子どもが番号化されていた責任を、神殿は完全には避けられない」
エルドの表情から、笑みが少し薄れた。
ベリオが怒鳴る。
「貴様、神殿を侮辱する気か!」
透の視線がベリオへ向いた。
それだけで、ベリオの声が止まる。
透は淡々と言った。
「事実を並べている」
そして、指を一本立てた。
「一つ。白花修道院は神殿の監督権限下にあった」
二本目。
「二つ。その地下で、サリカ、ミド、リザ、ノイたちが番号化されていた」
三本目。
「三つ。地下には白倉印、声止め札、焼却命令、認識阻害線、搬送記録があった」
四本目。
「四つ。証拠焼却命令には、神殿式の外枠が使われていた」
エルドの目がわずかに動いた。
透は五本目を立てる。
「五つ。灰境商の捕縛者は、白倉、黒炎炉、灰境商の道、廃棄昇降路、亜人街古井戸について証言している」
六本目。
「六つ。白花でも、白花橋でも、旧水車倉庫でも、証拠と証人は何度も消されかけた」
七本目。
「七つ。神殿側には、白花事案を監督できなかった実績がある」
透は手を下ろした。
「以上だ。灰境商を神殿に渡す理由がない」
倉庫前が静まり返った。
言葉は荒くない。
怒鳴ってもいない。
だが、逃げ道がない。
エルドはしばらく沈黙した。
やがて、穏やかな声を取り戻す。
「篠宮透。あなたの懸念は理解できます。ですが、神殿の監督に不備があったとしても、危険な境界犯罪者を民間クランが保持することは――」
「民間クランじゃない」
レオナが割り込んだ。
エルドがレオナを見る。
レオナは中央ギルド査察官を指した。
「中央ギルド査察官立ち会いのもと、灰標団ベルディア支部は捕縛者の一次管理を認められている。白花事案の証人保全として、ベルディアギルド、中央ギルド、薬師組合、亜人街自治会が記録に入っている」
マリウスも頷いた。
「現時点で、灰境商捕縛者の移送は証拠保全上の危険が高いと判断しています。一次管理は灰標団支部、ただし中央ギルド査察官立ち会い。尋問記録は複数写しを作成。これが現在の暫定処置です」
エルドは静かに言った。
「中央ギルドが、神殿の監査権限を妨げると?」
マリウスの顔が少し強張る。
透が言った。
「監査したいなら、ここで見ろ」
エルドの目が透へ戻る。
「ここで?」
「ああ。質問もここで出せ。シェラが記録する。マリウスが記録する。レオナが記録する。亜人街と薬師組合にも写しを渡す」
透は一歩前へ出た。
「触るな。連れ出すな。消すな」
短い三つの言葉。
それで十分だった。
エルドは笑みを消しきらないまま、声を低くした。
「あなたは、自分たちの力を過信しているのではありませんか。灰標団は仮登録にすぎない。神殿の監査を拒むほどの権限はありません」
透は首を横に振る。
「拒んでいない」
「では――」
「ここで監査しろと言っている」
エルドの言葉が止まる。
透は淡々と続けた。
「白倉が神殿と無関係なら、神殿が証拠を持ち帰る理由はない。関係があるなら、神殿は当事者だ。当事者に証拠は渡さない」
レオナが低く笑った。
オルガの口元も少しだけ動く。
マリウスは筆を止め、透を見ていた。
理屈として、逃げ道がない。
白倉と無関係なら、神殿に優先保管権はない。
関係があるなら、神殿は疑われる側になる。
どちらを選んでも、証拠を渡す理由にはならない。
エルドの目が冷えた。
「ずいぶんと、言葉を覚えましたね」
「言葉じゃない」
透は灰骸刀の柄に触れた。
「順番だ」
その時、ベリオが聖杖を強く握った。
「これ以上、灰喰いの詭弁に付き合う必要はありません。危険人物の拘束は神殿の責務。退け!」
ベリオの背後にいた武装神官二人が前へ出る。
白い拘束鎖を持っていた。
それは捕縛者用ではない。
灰標団の入口を封じ、地下へ踏み込むための鎖だ。
リィンの青い目が細くなる。
「白鎖。前のより粗い」
透は短く言った。
「リィン」
「うん」
リィンの青い封印針が三本飛んだ。
白鎖の先端に触れる。
鎖はまだ起動していない。
だが、神官が一歩でも踏み込めば、倉庫の入口を縛るつもりだった。
リィンは鎖の命令を浮かせるだけに留めた。
処理は透がしなかった。
透は前へ出た。
物理で足りる。
武装神官の一人が鎖を振る。
透は避けずに左手で掴んだ。
白鎖が手首へ絡もうとする。
だが、透の握力がそれより早かった。
鎖の金具が、みしりと鳴る。
神官が目を見開いた。
透は鎖を引いた。
神官の体が前へ飛ぶ。
白衣ごと引きずられた神官は、透の膝に腹を打ち、息を吐いて崩れた。
もう一人が聖杖を突き出す。
透は灰骸刀を抜かない。
右手で聖杖の先を掴んだ。
聖杖の先端に光が集まる。
強制拘束の術式。
リィンの針が横から刺さり、術式の起点を止める。
その一瞬で、透の指が杖を握り潰した。
聖銀の装飾が砕ける。
木芯が折れる。
武装神官の顔が恐怖に歪む。
透は折れた杖を放り捨て、神官の胸倉を掴んだ。
そして、地面へ叩きつける。
石畳が鈍く鳴った。
骨は折らない。
だが、動けない程度には落とす。
ベリオが吠えた。
「貴様!」
彼自身が聖杖を振り上げる。
今度の杖は本物だった。
白い光が刃のように伸びる。
透は灰骸刀を抜いた。
金属の音はない。
灰の刃が、夕暮れの空気を裂く。
ベリオの白刃が振り下ろされる。
透は正面から受けた。
灰骸刀と聖光の刃がぶつかる。
光が弾ける。
ベリオは両手で押し込もうとした。
透は片手だった。
それでも、押し返す。
ベリオの腕が震えた。
「な……」
透は一歩踏み込んだ。
肩でベリオの胸を押す。
ただの体の力。
ベリオの足が浮く。
次の瞬間、透の左拳がベリオの腹へ入った。
鎧越しに、重い衝撃が抜ける。
ベリオの体がくの字に曲がり、息が詰まる。
透はそのまま聖杖を持つ手首を掴んだ。
「前に言った」
低い声。
「証拠に触るな。救出者に触るな。俺の道に触るな」
手首を捻る。
骨は折らない。
だが、関節が悲鳴を上げる角度まで曲げる。
ベリオの膝が落ちた。
透はさらに言った。
「今は、支部も追加だ」
ベリオの手から聖杖が落ちる。
透は蹴り上げるようにその杖を弾き、バルザの足元へ飛ばした。
バルザが踏む。
ばき、と聖杖が折れた。
ベリオの目が見開かれる。
バルザは牙を見せた。
「悪いな。足が滑った」
「嘘をつくな」
レオナが低く言うが、止めはしなかった。
王都騎士たちが剣に手をかける。
そこで、ガレンが前へ出た。
巨大な盾を地面へ置く。
どん、と空気が揺れた。
「動くな」
Aランクの壁の一言で、騎士たちの動きが止まった。
オルガは屋根の上にいた。
いつの間に登ったのか、槍を三本構えている。
「剣を抜けば、袖を縫う。次に足。次に肩だ」
騎士たちは剣を抜けなかった。
エルドは、その光景を見ていた。
神殿の武装神官が、灰標団の支部前で膝をつき、聖杖を砕かれた。
王都騎士は、Aランク二人に押さえられている。
中央ギルド査察官は、すべてを記録している。
透はベリオの手首を離した。
ベリオは地面に片膝をつき、苦しげに息をしている。
透はエルドへ向き直った。
「続きを話すか」
エルドの顔から、笑みが消えた。
透は灰骸刀を下げたまま言う。
「理屈で駄目なら力で取るつもりだったんだろ」
答えはない。
「力でも駄目だった」
静かな一言。
有無を言わせない。
エルドは何も言えなかった。
マリウスが震える筆で記録を続ける。
「神殿側、白鎖および聖杖による強制進入を試行。灰標団側、殺傷を避け制圧。Aランク冒険者二名、王都騎士の介入を抑止……」
レオナが冷たく言った。
「エルド。これでもまだ、神殿監査保管を主張するか?」
エルドはゆっくりと息を吐いた。
「……本日は、申し入れを保留します」
「保留?」
透が聞き返す。
エルドは視線を逸らさない。
「王都へ確認を取ります」
透は頷いた。
「そうしろ」
そして、短く続ける。
「その間、証拠と捕縛者はここだ」
エルドは答えない。
透はさらに言った。
「質問があるなら紙で出せ。ここで聞く。記録を残す。写しは渡す。だが、触るな」
レオナが横で付け加える。
「中央ギルド査察官立ち会いのもとでな」
マリウスは少し青い顔で頷いた。
「その条件であれば、監査協力として記録可能です」
エルドは、折られた聖杖と膝をつくベリオを見た。
それから透を見た。
「あなたは、本当に危険だ」
透は答えた。
「危険なものに手を伸ばしたのは、そっちだ」
沈黙。
夕暮れの東水路に、風が吹いた。
白い神官服が揺れる。
灰標団の支部の中で、灰標の灯が淡く光る。
リィンの青い針が、白鎖の命令を封じたまま静かに浮いている。
エルドは武装神官たちへ撤収を命じた。
ベリオは立ち上がれず、王都騎士二人に支えられて下がる。
折れた聖杖は、その場に残された。
シェラが回収し、証拠袋へ入れる。
「神殿側強制進入証拠、確保」
ベリオが振り返って睨む。
シェラは無表情で記録した。
「敵意視線、確認」
「それは記録しなくていい」
レオナが言った。
「重要度低ですが、補助記録として保存します」
「消せ」
「検討します」
バルザが笑った。
神殿の列が東水路の向こうへ消えていく。
その背中を見送りながら、オルガが屋根から降りた。
「理屈で詰め、力で閉じたな」
透は灰骸刀を鞘へ納める。
「渡す理由がなかっただけだ」
ガレンが盾を担ぐ。
「それをあの場で順に言える奴は少ない。普通は怒鳴るか、殴るか、譲る」
バルザが楽しそうに言う。
「主は全部やったな。言って、殴って、譲らなかった」
「主じゃない」
透は短く返した。
だが、否定する声は少しだけ疲れていた。
ルカが灰標の横から走ってくる。
「トオル、道、守った?」
「ああ」
「証拠も?」
「守った」
「名前も?」
「守る」
ルカは頷いた。
「じゃあ、よかった」
単純な確認。
だが、透にはそれで十分だった。
マリウスが近づいてきた。
「篠宮透。今の件も中央へ報告します」
「好きにしろ」
「報告内容によっては、あなたの危険度評価も上がります」
「そうか」
「同時に、神殿による強制的な証拠移送への抑止にもなります」
透はマリウスを見る。
マリウスは眼鏡の奥で、まっすぐ透を見返した。
「肩書きは盾になる。あなたが先ほど言った通りです」
透は少しだけ黙った。
「なら書け」
「はい」
マリウスは査察帳を開いた。
筆が走る。
灰標団ベルディア支部。
中央ギルド査察中。
神殿による証拠移送申し入れ。
透による論理的拒否。
神殿側の強制進入試行。
灰標団による非殺傷制圧。
Aランク二名の立ち会い。
証拠保全継続。
文字が残る。
紙の上に。
消されないように。
レオナは灰標団支部の扉を見る。
「看板がいるな」
バルザが首を傾げる。
「今か?」
「今だ。ここが何か、また勝手に呼ばれる前に書いておく」
透は何も言わなかった。
ルカが倉庫の奥から木板を持ってきた。
古い荷棚の板だ。
黒鞭の荷札痕が残っている。
ネイラが黒炎で、荷札の命令だけを焼く。
リィンが残った所有線を針で止める。
透が灰を指先に集める。
黒鞭の荷板だったものに、灰で文字を書く。
灰標団
ベルディア支部
ただ、それだけ。
だが、板に刻まれた瞬間、旧水車倉庫の前に立つ者たちの目が変わった。
ここは、もう空き倉庫ではない。
黒鞭の荷道でもない。
白倉の隠し口でもない。
神殿が勝手に踏み込める場所でもない。
灰標団の支部。
戻る場所の一部。
透は看板を扉の上に打ちつけた。
釘がなかったため、バルザが古い鉄杭を指で曲げ、壁へ押し込む。
力任せだったが、しっかり固定された。
オルガがそれを見て言う。
「荒い看板だ」
レオナが答える。
「今の灰標団には似合ってる」
シェラが記録する。
「灰標団ベルディア支部、看板設置。黒鞭荷板を転用。所有命令除去済み」
ルカが見上げる。
「名前、取られない?」
透は看板を見た。
「取らせない」
その声に、迷いはなかった。
理屈で塞ぐ。
証拠を残す。
それでも手を伸ばすなら、力で折る。
灰標団の最初の看板は、夕暮れの東水路に掲げられた。
それを見上げる者たちは、理解した。
ここに触れるなら、言葉だけでは足りない。
力だけでも足りない。
理も、力も、灰標団は返してくる。
そして中心にいる少年は、もう有無を言わせない。




