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第104話 値札を砕く者

 灰境商の男は、東水路の石畳に押さえつけられていた。


 両腕はバルザが折った黒鞭縄で縛られ、足首にはシェラの保守糸が絡んでいる。

 首元にはリィンの青い封印針が一本。


 自害札。

 転移札。

 舌の裏に仕込まれた毒針。


 逃げるための線は、すべて止められていた。


 だが、男はまだ笑おうとしていた。


 唇の端を吊り上げ、泥と黒い油に汚れた顔で透を見る。


「灰喰い……いい値がつくぞ、お前は」


 透は答えなかった。


 石畳の上には、斬り裂かれた魔導獣の残骸が転がっている。

 鉄爪は根元から折れ、背の白倉小型印はネイラの黒炎に焼き抜かれていた。

 黒い油が水路へ流れ込む前に、ダンの指示通り用意していた汚れ水桶へ移されている。


 旧水車倉庫の入口では、ガレンが巨大な盾を構えて救出者たちの前に立っていた。

 オルガは槍を回収しながら、周囲の屋根と水路の影を見ている。

 マリウス査察官は震えを抑えた手で、査察帳に記録を続けていた。


 灰標団。


 その名を書いたばかりの仮登録クランが、中央ギルドの査察前で魔導獣三体と灰境商を叩き潰した。


 しかも、壊すべきものと残すべきものを分けたまま。


 透は灰境商の男の前にしゃがんだ。


「値がつく?」


 男は歯の間から血を吐き、笑った。


「ああ。奈落帰りの灰喰い。古代機兵。黒炎持ち。封印鍵の娘。道を見る子ども。獣人の前衛。全部、値がつく」


 その言葉に、空気が冷えた。


 サリカが小さく身を縮める。

 リザは骨札を握りしめた。

 ノイは半白の札を胸に押し当てる。


 灰境商。


 人族にも魔族にも荷を売る境界商人。

 命も、血も、角も、職能も、名前も、すべて値札に変える者たち。


 透の目が静かに沈んだ。


「誰に売る」


「買い手は多い。白倉、黒炎炉、血角院、王核派。王都の貴族にも、珍品を欲しがる者はいる。お前たちはいい商品だ」


 バルザの牙が剥き出しになる。


「商品、ねえ」


 ネイラの黒炎皿が熱を帯びた。


「黒炎炉の名を出したな」


 灰境商の男は、ネイラを見て笑った。


「黒角の生き残り。しかも火が安定している。炉に戻せば、婆様も喜ぶかもな」


 その瞬間、ネイラが動いた。


 黒炎ではない。


 拳だった。


 小柄な体からは想像できない踏み込み。

 石畳を蹴り、灰境商の男の顔面を真正面から殴り抜く。


 鈍い音。


 男の体が縄ごと跳ね、石畳に後頭部を打ちつけた。


 リィンの封印針が首元の自壊線を押さえていなければ、衝撃で何かが起動していたかもしれない。


 ネイラは男を見下ろした。


「婆様を、お前の口で呼ぶな」


 声は低い。

 黒炎より熱い怒りがあった。


 男は血を吐き、笑えなくなった。


 透はネイラを止めなかった。


 ただ、言った。


「殺すな。まだ吐いていない」


「わかっている」


 ネイラは拳を振り、血を払った。


 マリウス査察官が、筆を止めたまま固まっている。


 オルガが横から言った。


「査察官。今のも記録しておけ」


「……暴行としてですか」


「違う。捕縛者が保護対象を商品扱いし、黒炎炉関連の挑発を行った。灰標団側が殺害せず制圧を維持した、と」


 マリウスは眼鏡を押し上げ、慌てて書き始めた。


 レオナが低く息を吐く。


「本当に査察帳が厚くなるな」


 透は男の胸元を掴み、上体を起こした。


 灰境商の男は、鼻血と口の血で顔を濡らしている。


「お前たちは、旧水車倉庫の地下道を知っていた」


 男は黙る。


 透の手に力が入る。


 布ではなく、胸骨の上から服ごと握る。

 男の顔が歪んだ。


「言え」


「ぐ……っ」


 骨が鳴る手前で止める。


 透は、壊す場所を選んでいた。


 線を切る必要はない。

 今は、手で足りる。


 男の呼吸が詰まる。


「白倉の残り札を拾った。黒鞭の荷道も見た。灰標団がここを使うと知って、測りに来た。誰の指示だ」


 男は笑おうとした。


 笑えなかった。


 透の指が、さらに沈む。


「答えろ」


「……白倉じゃない」


「続けろ」


「灰境商の帳場だ。白倉の連中が白花で失敗したから、こちらで価値を見ろと……灰喰いが本当に使えるか、魔族娘が回収可能か、機兵が売れる状態か……」


 シェラの右目が冷たく光る。


「機兵、売買対象として発言確認」


 灰境商の男は、シェラを見て歪んだ笑みを浮かべる。


「古代灰殻機兵は高い。壊れていても、部品だけで――」


 次の瞬間、男の顔のすぐ横に骨杭が刺さった。


 石畳が砕ける。


 シェラは記録板を持ったまま、灰殻腕を開いていた。


「警告。次に部品扱いした場合、発話能力を一時破壊します」


 男の顔から血の気が引いた。


 オルガが小さく呟く。


「やはり記録役ではないな」


「記録役です」


 シェラは即答した。


「記録対象の破損を防止しています」


「自分の破損も記録対象か」


「はい。私は仲間ですので」


 透は男を離さない。


「帳場はどこだ」


「知らない……!」


 透の手が、男の胸元から肩へ移った。


 肩関節を掴む。


 男が目を見開いた。


「待て、知らない! 本当に知らない! 帳場は移動する。灰境商は固定の店を持たない。水路、巡礼路、廃棄昇降路、魔族領の裂け目……荷に合わせて場所を変える!」


 ルカが道番の板を抱えたまま、顔を上げた。


「廃棄昇降路」


 透の目が細くなる。


 灰の砦でゼグラが話していた。

 廃棄昇降路下部。

 大型機構残骸。

 灰境商の裏道候補。


 線が繋がる。


 透は男を見据えた。


「奈落にも道があるな」


 男は口を閉ざした。


 透の手が肩を握る。


 骨が、みしりと鳴った。


「あるな」


「……ある」


「誰が知っている」


「帳場番と、道買いだけだ。俺は下まで知らない。ベルディア側の入り口を一つ預かっただけだ」


「入り口は」


 男は震えながら、水路の方を見る。


「旧水車倉庫の下。だが、昨日ので潰された。別の口は白花橋、北巡礼宿、あと……亜人街の古井戸」


 ロウ老人の顔が変わった。


「亜人街の古井戸だと」


 男は慌てて言う。


「使っていない! 今は封じている! 昔、黒鞭が小荷を動かすのに使っただけだ!」


 バルザが一歩近づく。


「小荷?」


 男は顔をそらす。


 透が肩を握り直す。


「小荷って何だ」


「子どもだ! 小柄な亜人、借金奴隷、孤児……今は使ってない!」


 ロウ老人の拳が震えた。


 サリカが口元を押さえる。


 リザはニーナの袖を掴んだ。


 その場にいた亜人街の者たちの目が、怒りに染まっていく。


 マリウス査察官の筆が止まらない。


 中央ギルドの査察帳に、灰境商の証言が刻まれていく。


 透は男を地面へ戻した。


「生きて吐き続けろ」


 男は荒い息を吐く。


「言っただろ……殺すなよ……」


「殺さない」


 透は立ち上がる。


「今は」


 男の顔が引きつった。


 オルガがレオナへ言った。


「境目房に送るのか」


 透が答える。


「送る」


 マリウスがすぐに口を挟んだ。


「待ってください。中央ギルドとしては、捕縛者をギルド地下拘束室へ――」


「ギルドに置けば神殿と白倉が取りに来る」


 透の返答は早かった。


 マリウスは言葉に詰まる。


 レオナが重く頷いた。


「否定できん。白花の証拠でさえ狙われた。灰境商の生き証人なら、なおさらだ」


「しかし、私の立場上、中央ギルドへ移送する手続きが……」


 シェラが記録板を見ながら言う。


「提案。捕縛者の一次管理を灰標団ベルディア支部。中央ギルド査察官立ち会いで拘束記録作成。尋問記録の写しを三部作成。移送可否は翌日再協議」


 レオナがすぐに頷く。


「妥当だ」


 オルガも言う。


「私とガレンが一晩護衛につけば、中央側の面子も立つ」


 ガレンがへこんだ盾を担ぎながら頷いた。


「構わん。借りもある」


「借り?」


 透が問う。


 ガレンは盾のへこみを見せた。


「Aの壁が潰された。次に使う盾を作る理由ができた」


「それは借りか」


「冒険者にとってはな」


 バルザが笑う。


「いい奴だな、壁」


「ガレンだ」


「覚えた」


 マリウスはしばらく考えた後、深く息を吐いた。


「……灰標団支部での一次管理を認めます。ただし、私も記録に立ち会います」


 透は短く頷いた。


「好きにしろ」


 灰境商の男は、シェラとバルザによって倉庫内へ運ばれた。


 運ぶと言っても、丁寧ではない。


 バルザが縄を掴み、半分引きずる。

 シェラが保守糸で関節の動きを制限し、逃げられない姿勢を保つ。

 男は何度か呻いたが、誰も同情しなかった。


 旧水車倉庫の地下貯蔵室。


 そこはまだ整理途中だったが、境目房の仮設場所に使うには十分だった。


 石壁。

 水路から離れた奥。

 出入口は一つ。

 リィンの封印線を張れば、逃走は難しい。


 シェラが床に灰標の小片を置いた。


「仮境目房、設置」


 リィンが青い針を四隅へ刺す。


「自害、転移、叫び札、封じる」


 ネイラが黒炎皿を床へ近づける。


「焼却札があれば焼く」


 ルカは入口で道番の板を見ていた。


「ここ、道が少ない。逃げにくい」


 バルザが男を床へ転がす。


「ちょうどいいな」


 灰境商の男は顔を歪めた。


「お前たち、冒険者クランじゃないのか……」


 透は地下室の入口から見下ろした。


「そうだ」


「こんなの、牢だろうが」


「境目房だ」


 男は笑えない顔で言う。


「同じだろ」


「違う」


 透は短く言った。


「敵か、証人か、荷を売るだけの屑か。ここで決める」


 男の喉が鳴った。


 マリウスはその言葉を、黙って記録した。


 地上へ戻ると、倉庫の空気は変わっていた。


 さっきまで査定の場だった場所が、今は本当に支部として動き始めている。


 水路下から出た魔導獣の残骸は、シェラと鑑定官が調べている。

 ネイラは白倉小型印の焼け残りを分けている。

 バルザとガレンは石蓋を運び、地下水路の口を一時封鎖している。

 オルガは屋根の上へ槍を打ち、見張り位置を作っていた。

 ルカは古井戸と水路の道を地図に足している。

 リィンは灰境商の男から抜いた札を青い針で板へ固定している。


 レオナはそれを見て、低く言った。


「もう動いているな」


 マリウスは査察帳を閉じられずにいた。


「これは……クラン支部というより、前線拠点です」


「だから言っただろう。普通の査定欄では足りない」


 オルガが屋根から降りてきた。


 その動きは重さを感じさせない。


「中央へ送る報告は、はっきり書け。灰標団はA級依頼参加資格を持つ。篠宮透はS級審査対象。支部は救出・証拠保全・捕縛者管理の機能を持つ」


 マリウスは眼鏡を押さえた。


「書きます。ただ、S級審査対象という文言は重い。中央本部が必ず反応します」


 レオナが笑わずに言う。


「反応させるために書くんだ」


 透は灰信板の前に立った。


 灰の砦へ送る報告を、シェラがまとめる。


 ――灰標団ベルディア支部、実戦防衛成功。

 ――中央ギルド査察、A級依頼参加資格仮付与見込み。

 ――透個人、S級審査対象として報告予定。

 ――灰境商捕縛。廃棄昇降路下部、白花橋、北巡礼宿、亜人街古井戸の道情報あり。

 ――仮境目房、設置。

 ――水路防衛強化必要。


 灰信線が鳴る。


 少しして、灰の砦から返事が来た。


 ――ガルドより。S級でも何でも構わん。名が盾になるなら持て。ただし盾の内側を空にするな。


 透はその文字を見た。


 盾の内側。


 守るべきもの。


 名を戻した者たち。

 水。

 道。

 灰の砦。

 灰標団。


 次の文字が浮かぶ。


 ――イーシャより。灰境商に消された名前を探す棚を作ります。亜人街古井戸の記録も欲しいです。


 さらに。


 ――ケイルより。支部の荷札形式を決めろ。地上物資と奈落物資を混ぜるな。混ぜると後で泣く。


 バルザが笑った。


「ケイルは本当に荷のことになると厳しいな」


 ――ダンより。汚れ水桶を増やせ。黒い油を水路へ流すな。絶対に。


 ネイラが顔をしかめる。


「水番が一番怖いな」


 ルカは真剣に頷いた。


「水は大事」


 最後に、少し間があって文字が出た。


 ――ゼグラより。灰境商を捕まえたなら、角の裏を見ろ。帳場番の印を焼き潰している奴ほど、耳の後ろに荷道の刻みを残す。


 ネイラの目が細くなる。


「ゼグラが口を出した」


 透は灰信板を見る。


 ゼグラも境目房の中にいる。

 だが、情報を出すなら使う。


「シェラ」


「確認します」


 シェラはすぐに地下へ向かった。


 しばらくして戻ってくる。


「灰境商の耳後ろに刻みあり。三本線、一点欠け。ゼグラ情報と一致する可能性」


 マリウスが目を見開く。


「奈落側の捕縛者からも情報を取っているのですか」


「はい」


「……本当に、これはクランなのでしょうか」


 レオナが肩をすくめる。


「今はクランだ」


 オルガが続ける。


「今はな」


 透は二人を睨んだ。


 だが、否定の言葉は少し遅れた。


「国じゃない」


 ルカが灰標の横から言う。


「でも、場所は増えた」


 リィンも静かに言う。


「水と名前と道がある」


 シェラが記録する。


「灰標団ベルディア支部、機能開始。国ではない。現時点では」


「余計な記録をするな」


「重要です」


 レオナが笑いを堪えるように顔をそらした。


 マリウスは困惑しながらも、査察帳へ書き込んだ。


 その筆の動きは、もう最初の冷静さだけではなかった。


 彼は見たのだ。


 Aランクの壁が、透の斬撃で押し潰されるところを。

 灰境商の魔導獣が、灰標団の仲間たちに物理的に制圧されるところを。

 廃倉庫が、半日で支部として動き始めるところを。

 奈落の砦から、水番や名簿番や捕縛者の情報が返ってくるところを。


 これは、危険な少年一人の話ではない。


 これは、形を持ち始めた勢力だった。


 夕方、中央査察団はギルドへ戻る準備に入った。


 マリウスは透へ向き直る。


「篠宮透。正式決定は中央本部になります。ですが、私の査察報告としては、あなたをS級審査対象、灰標団をA級依頼参加可能な特殊クランとして上申します」


「ああ」


「興味がなさそうですね」


「ランクが欲しいわけじゃない」


「では、なぜ受けるのです」


 透は少しだけ黙った。


 そして、灰標の灯を見る。


「盾になるなら使う」


 マリウスは目を細める。


「誰の盾ですか」


 透は答えた。


「名前を戻した奴らの」


 それ以上の説明はなかった。


 だが、十分だった。


 マリウスは静かに頭を下げた。


「中央へ、そう報告します」


 オルガは槍筒を背負い直した。


「中央がどう出るかは知らん。S級審査対象となれば、王都も神殿も黙っていない」


 ガレンが盾を担ぎながら言う。


「Aランクも何人か見に来るだろうな。面倒な奴も来る」


 バルザが笑う。


「強いのか?」


「強い」


 ガレンは即答した。


「だが、今日見た限りでは、問題はそこではない」


「何だ」


「お前たちは、強いだけじゃない。強いくせに、場所を作っている」


 その言葉に、透は黙った。


 場所。


 灰の砦。

 灰標団ベルディア支部。

 境目房。

 名簿棚。

 水瓶。

 戻る道。


 強いだけなら、まだ簡単だったかもしれない。


 斬って終わる。

 潰して終わる。

 蹂躙して終わる。


 だが、透たちは拾ってしまう。


 拾ったものを置く場所が要る。


 守る壁が要る。


 名を残す棚が要る。


 水が要る。


 だから、場所が増える。


 だから、勢力になる。


 透は灰骸刀の鞘に触れた。


 白い骨玉が、夕陽を受けて小さく光る。


 灰標団ベルディア支部の扉には、まだ看板がない。


 だが、灰標は灯っている。


 その光を見て、サリカが小さく言った。


「ここも、戻っていい場所?」


 透は振り返った。


 サリカの喉はまだ弱い。

 それでも、問いかける声は届いた。


 透は短く答えた。


「ああ」


 サリカは安心したように頷いた。


 リザも、ノイも、倉庫の奥を見た。


 まだ古い。

 まだ埃っぽい。

 まだ傷だらけ。


 けれど、戻っていい場所。


 その言葉だけで、廃倉庫は別のものになった。


 透は扉の前に立つ。


 バルザが横に。

 リィンが灰標のそばに。

 シェラが記録板を持ち。

 ネイラが水路側を見張り。

 ルカが道番の板を抱える。


 灰標団は、そこにいた。


 Aの先にあるものとして。


 ただ強いだけではない。


 戻る場所を、力で守るものとして。


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