第103話 Aの先にあるもの
中央ギルドの査察団は、昼前に旧水車倉庫へ到着した。
先頭に立っていたのは、痩せた男だった。
年は四十前後。
灰茶の髪を後ろで束ね、細い銀縁の眼鏡をかけている。
腰には剣ではなく、分厚い革表紙の査察帳。
胸には中央ギルドの銀章。
男の名は、マリウス・ヴェイン。
中央ギルド査察官。
その後ろには、二人のBランク冒険者と、鑑定官らしき小柄な女が続いていた。
さらに、最後尾にもう一人。
巨大な盾を背負った男がいた。
背はバルザほどではないが、肩幅が広い。
板金鎧の上からでもわかる分厚い筋肉。
左腕には、体の半分ほどもある角盾。
首元にはAランク冒険者の赤銀章。
オルガがその男を見て、片眉を上げた。
「ガレンまで来たのか」
巨盾の男は低く笑った。
「鉄雨が珍しく推薦状を飛ばしたと聞いてな。見ないわけにはいかん」
「暇なのか」
「暇ではない。だが、A級の物差しが壊れるかどうかは見ておきたい」
マリウス査察官が眼鏡を押し上げた。
「本日は、白花修道院事案の証拠確認、灰標団の仮登録査定、ならびに旧水車倉庫支部機能の実地確認を行います」
声は淡々としていた。
レオナが腕を組む。
「ずいぶん早かったな」
「中央への灰信写しが届いた時点で、通常案件ではないと判断されました。白倉、複数救護施設、番号化、灰番関連候補。さらに新規クランが関与。遅らせる理由がありません」
マリウスの視線が透へ向く。
「あなたが篠宮透ですね」
「ああ」
「職能《灰喰い》。奈落帰還者。灰標団代表責任者。白花修道院事案における救出および証拠保全の中心人物」
「中心じゃない」
透は短く返した。
マリウスは筆を止める。
「では、何と?」
「灰標団でやった」
ルカが灰標の横で頷く。
「みんなで」
マリウスの目がルカへ動き、次にリィン、シェラ、バルザ、ネイラへ移る。
彼は一人ずつ見た。
銀髪の封印使い。
古代灰殻機兵。
獣人前衛。
灰布で角を隠した黒炎使い。
道番の子ども。
普通のクランではない。
それは、見ただけでわかる。
鑑定官の女が、小さな水晶板を取り出した。
「戦闘痕の鑑定から始めます」
彼女は倉庫の床、壁、梁、盾痕、槍痕を順に見ていった。
透が体当たりで止めた盾列の床。
バルザがダグラスを盾ごと押し込んだ壁。
シェラの骨杭が刺さった梁。
ネイラの黒炎が火札の命令だけを焼いた跡。
ルカの導線で敵役が踏んだ警報床。
鑑定官の表情は、進むほど険しくなった。
「……これ、本当に訓練試験ですか?」
レオナが答える。
「試験だ。死人は出ていない」
「死人が出ていないだけで、床板の沈み方が破城槌の試験場に近いです」
バルザが笑う。
「破城槌とは失礼だな」
鑑定官は真面目に返す。
「褒めています」
ガレンが壁の痕へ手を当てた。
ダグラスが盾ごと叩き込まれた場所だ。
「この押し込み、重盾を持ったBランクを受け止めて、そのまま壁まで運んだのか」
バルザが肩をすくめる。
「証拠箱から離しただけだ」
「離しただけで壁が泣いている」
ガレンは少し笑った。
「いい腕だ」
「腕だけじゃない。足もだ」
「なるほど」
巨盾のAランクは、その返しを気に入ったようだった。
マリウスは記録を取りながら言う。
「昨日の試験内容は確認しました。ですが、中央ギルドとしてはもう一段、基準を合わせる必要があります」
レオナの目が細くなる。
「どういう意味だ」
「Aランク冒険者オルガの報告には、こうあります」
マリウスは査察帳を開いた。
「灰標団は通常パーティ査定に適さない。代表篠宮透の個人戦闘力はA級上位基準を超過する可能性あり。灰標団全体としても、救出・防衛・証拠保全を含む複合依頼への投入能力は高い。ただし、正式等級を付与するには、組織規約および責任処理が未成熟」
オルガは黙っている。
自分の報告がそのまま読まれても、表情を変えない。
マリウスは続けた。
「したがって、中央ギルドとしては二つの確認を行います。一つ、灰標団が団として防衛任務を維持できるか。二つ、篠宮透個人がA級上位の物理基準をどの程度超えているか」
透は目を細める。
「物理基準?」
ガレンが一歩前に出た。
背中の巨大な盾を下ろす。
鉄と魔獣骨を重ねた角盾。
表面にはいくつもの傷がある。
魔物の牙。
盗賊の斧。
戦場で受けた槍。
それらが刻まれた、本物の盾だ。
「私が見る」
ガレンは盾を構えた。
「Aランク冒険者ガレン・ロウズ。役割は壁だ。魔物の突進、騎兵の押し込み、破城斧。受けて、止めるのが仕事だ」
バルザが楽しそうに牙を見せる。
「俺向きの相手だな」
ガレンはバルザを見て頷いた。
「お前とも後でやりたい。だが、まずは灰喰いだ」
透はレオナを見る。
レオナは肩をすくめた。
「やるなら外でやれ。倉庫を壊すな」
マリウスが真面目に言う。
「倉庫の保全も査定対象です」
「なら外だ」
透は歩き出した。
旧水車倉庫の外、東水路沿いの空き地へ移動する。
街の外壁近くにある荷降ろし場で、地面は固く踏み締められている。
見物人は距離を取らされた。
救出された子どもたちは、倉庫の入口近くでリィンとルカの後ろにいる。
オルガは槍を持たず、腕を組んで立った。
「ガレンはA級でも受けに関しては上位だ。正面から押すなら、私より重い」
バルザが問う。
「勝ったことは?」
「引き分けが多い」
「面白いな」
ガレンは盾を地面に立てた。
どん、と重い音が鳴る。
「条件は単純だ。刃は潰し、殺傷なし。私を三歩下げればA級上位の膂力基準超過。盾を弾けば測定不能。私が受けきれば、A級上位相当で報告する」
透は灰骸刀を抜いた。
刃に灰が灯る。
ガレンが言う。
「命令線や術式切断はなしだ。純粋な押し込みと斬撃で来い」
透の目が少しだけ鋭くなった。
「それでいい」
リィンが静かに言う。
「封印、不要」
ネイラが腕を組む。
「力比べか」
シェラが記録板を構える。
「物理査定、開始準備」
マリウスが片手を上げた。
「開始」
ガレンが盾を構える。
正面から見ると、鉄の壁だった。
足は広く、膝は沈み、肩は盾に密着している。
体重、鎧、盾、地面。
全部が一つの壁になっている。
普通の剣士なら、斬っても止まる。
斧でも割れない。
突撃でも押せない。
Aランクの壁。
透は灰装を薄く巡らせた。
大きく構えない。
ただ一歩、踏み込む。
地面が沈んだ。
誰かが息を呑む。
次の瞬間、透は灰骸刀を振り下ろした。
術式を斬る刃ではない。
重さを乗せた斬撃。
灰骸刀の刃が、ガレンの盾に叩きつけられた。
音が爆ぜた。
金属音ではない。
鐘を割るような、重い衝撃音。
ガレンの盾が一瞬沈む。
彼の足が地面を抉った。
一歩。
後ろへ下がる。
見物人の間にざわめきが走る。
ガレンは歯を食いしばった。
「重いな……!」
透は止まらない。
二撃目。
今度は横薙ぎ。
盾の面を叩くのではなく、縁を狙った。
ガレンが盾を傾けて受ける。
だが、刃圧が盾ごと腕を持っていく。
二歩目。
ガレンの足がさらに下がる。
地面に深い跡が刻まれた。
オルガの目が細くなる。
バルザが低く笑う。
「主、まだ軽いな」
「主じゃない」
透はそう言わなかった。
三撃目。
ガレンは受けるだけではなく、前へ出た。
盾で押し返す。
Aランクの膂力が、真正面から透を潰しに来る。
人間一人なら弾き飛ばされる。
荷馬車の車輪すら止める盾押し。
透は左手を伸ばした。
灰骸刀ではなく、素手で盾の縁を掴む。
ガレンの目が見開かれた。
透の指が、盾の縁に食い込む。
鉄がきしむ。
ガレンが全身で押す。
透は下がらない。
足元の地面だけが割れる。
透の右腕が引かれる。
灰骸刀が横へ構えられる。
盾を掴んだまま、至近距離で振る。
刃の背。
殺さないための打撃。
だが、重さは消えていない。
灰骸刀の背が盾の中央へめり込んだ。
ガレンの盾が、音を立ててたわんだ。
三歩目。
いや、三歩では済まなかった。
ガレンの巨体が、盾ごと後方へ滑る。
四歩、五歩。
最後に、足を踏ん張った地面が耐えきれず、土が爆ぜた。
ガレンは片膝をついた。
盾は割れていない。
だが、中央に深いへこみができていた。
静寂。
誰もすぐには声を出せなかった。
ガレンは息を吐き、盾のへこみを見た。
「……弾かれたな」
透は灰骸刀を下げる。
「折ってない」
「折られなかっただけだ」
ガレンは低く笑った。
悔しさより先に、納得があった。
「Aの壁を、力で押し潰した。小細工なしで」
マリウス査察官の筆が止まっていた。
鑑定官の女が水晶板を見て、顔を青くしている。
「衝撃値、記録上のA級基準を超過。盾面損傷、魔獣骨層まで到達。術式干渉反応、ほぼなし。純粋な打撃と斬撃圧です」
オルガが静かに言った。
「これでわかっただろう」
マリウスが眼鏡を押し上げる。
「……A級上位では、測れませんね」
相良が喉を鳴らす。
久世は、剣の柄を握りしめていた。
線を斬ったのではない。
封印を外したのでもない。
ただ、斬って、押した。
Aランクの壁が、正面から崩れた。
久世は自分の中の剣聖という職能が、ひどく軽く感じた。
ガレンが立ち上がる。
盾を担ぎ直し、透へ向かって言った。
「もう一つ、確認していいか」
「何だ」
「今のは、本気か」
透は少しだけ考えた。
灰骸刀の柄を握る手に、まだ力は残っている。
灰杭は使っていない。
灰域も広げていない。
灰牙閃も放っていない。
灰装も抑えた。
証拠も子どもも背後にいる。
街の近くだ。
本気で壊す場所ではない。
透は答えた。
「違う」
ガレンは目を閉じ、短く笑った。
「そうか」
マリウスはその一言を聞いて、筆を握り直した。
「篠宮透個人については、A級査定を保留。S級審査対象として中央本部へ報告します」
ざわめきが起きた。
S級。
その言葉は、空気の重さを変えた。
レオナが低く言う。
「正式認定ではないな」
「もちろんです」
マリウスは即答した。
「Sランク認定は中央本部の審議、複数の高位推薦、国家級依頼または災害級案件の実績確認を要します。ですが、少なくともA級上位という枠に収めるのは危険です」
オルガが付け加えた。
「Aは街を守る。Sは戦場を変える。今の一撃は、後者の入り口だ」
透は黙っていた。
Sランクに興味があるわけではない。
だが、その肩書きが盾になるなら使う。
灰標団を、灰の砦を、名を戻した者たちを守るために。
マリウスは続ける。
「ただし、灰標団としての正式等級は別です。団体としては、現時点でB級クラン扱いは過小評価。A級依頼参加資格の仮付与を検討します。しかし、裁きの規定、捕縛者管理、支部責任者、救出者保護の仕組みを整える必要があります」
レオナが頷く。
「そこは進めている」
シェラが記録板を掲げる。
「灰標団規約草案、境目房規定草案、名簿分類、支部導線、灰信線記録、提出可能」
マリウスはシェラを見る。
「あなたが記録責任者ですね」
「はい」
「戦闘能力も確認済みとの報告があります」
「記録妨害を排除しました」
マリウスは少しだけ筆を止めた。
「……そうですか」
オルガが淡々と補足する。
「その機兵も通常後衛枠に入れるな。近接制圧力がある」
マリウスの筆がさらに重くなる。
「灰標団は、分類欄を増やす必要がありそうですね」
レオナが小さく笑った。
「ようこそ、私の胃痛へ」
場が少しだけ緩んだ。
だが、その緩みは長く続かなかった。
空き地の端で、鑑定官の水晶板が赤く光った。
彼女の顔が変わる。
「東水路下、魔力反応!」
ルカが弾かれたように水路を見る。
「下の道、開いた!」
次の瞬間、水路の石蓋が吹き飛んだ。
中から、鉄の爪を持つ魔導獣が三体、這い出してくる。
黒鞭の荷運び獣を改造したものか。
背には白倉の小型印。
口元には金属の噛み具。
体は魔導具で膨れ、目は赤く濁っている。
さらに奥から、黒い外套の男が一人、姿を見せた。
白倉回収人ではない。
灰境商の印。
ゼグラが話していた、境界商人の印に似ている。
男は笑った。
「査定中とは運がいい。灰標団の値を、こちらでも測らせてもらう」
レオナが叫ぶ。
「全員下がれ!」
マリウスが査察帳を閉じる。
「これは試験ではありませんね」
オルガが槍筒を鳴らす。
「実戦だ」
透は灰骸刀を握り直した。
さっきより、灰が重く灯る。
ガレンが盾を構える。
「手伝うか」
透は前へ出る。
「子どもと証拠を守れ」
ガレンは一瞬だけ笑った。
「なるほど。私は壁か」
「そうだ」
「任された」
Aランクの壁が、救出者たちの前へ立つ。
オルガは槍を三本抜いた。
バルザが獣のように低く構える。
ネイラの黒炎が、今度ははっきりと燃えた。
リィンの青い針が水路の封印線を押さえる。
シェラは記録板を腰へ固定し、灰殻腕を開いた。
ルカは叫ぶ。
「水路からまだ来る! でも右は行き止まり! 左だけ止めて!」
透は魔導獣へ向かって走った。
もう査定ではない。
もう寸止めでもない。
一体目が鉄爪を振る。
透は避けない。
灰骸刀を振り上げる。
鉄爪と灰刃がぶつかった。
火花が散る。
透はそのまま力で押し切った。
鉄爪が根元から折れる。
魔導獣が咆哮する前に、透の左拳がその顎を打ち上げた。
骨と金属が砕ける音。
巨体が宙に浮く。
透は一歩踏み込み、灰骸刀を横薙ぎに振った。
魔導獣の胴が、鎧板ごと裂けた。
命令線ではない。
肉。
骨。
鉄。
魔導具。
まとめて斬った。
血ではなく、黒い油が地面に飛ぶ。
二体目が横から突進する。
バルザが受けた。
肩からぶつかる。
魔導獣の巨体と獣人の体が衝突し、空気が震えた。
バルザは後退しない。
両腕で魔導獣の首を抱え、捻る。
「こっち見るな」
骨と金属の頸部が軋む。
バルザは力任せに魔導獣を地面へ叩きつけた。
その衝撃で、石畳が割れる。
ネイラの黒炎が三体目の背へ走った。
今回は命令だけではない。
背中の白倉小型印と魔導具の接合部を焼き抜く。
黒い火が金属を舐め、赤熱させ、砕いた。
魔導獣が体勢を崩す。
そこへシェラの骨杭が膝関節へ三発入った。
機械じみた正確さで、支える部位だけを撃ち抜く。
魔導獣が膝から落ちる。
オルガの槍が雨のように降り、逃げようとした灰境商の男の外套を地面へ縫った。
男が笑みを消す。
透は一体目の残骸を踏み越え、男へ向かう。
灰境商の男が懐から黒い札を出す。
リィンの針が飛ぶ。
「起爆札」
針が札の起点を止める。
透の手が男の顔面を掴んだ。
そのまま、地面へ叩きつける。
石畳が割れた。
男の悲鳴が途切れる。
透は首を掴んだまま、低く言った。
「測れたか」
灰境商の男の目に、初めて恐怖が浮かぶ。
透の指に力が入る。
殺さない程度に。
だが、逃げられない程度に。
「次は、値札をつける手を折る」
周囲は静まり返っていた。
中央査察官も、Aランク二人も、王都組も、ギルド職員も。
彼らは見た。
Aランクの盾を押し潰した少年が、直後の実戦で魔導獣を力で叩き斬ったところを。
灰標団の仲間たちが、それぞれの力で同時に戦場を制圧したところを。
マリウスはゆっくりと査察帳を開いた。
筆先がわずかに震えていた。
「追記します」
誰も口を挟まない。
「篠宮透個人、S級審査対象。灰標団、A級依頼参加資格を仮付与する方向で中央本部へ上申。加えて、灰標団は単独戦闘力だけでなく、救出・防衛・拠点運用・証拠保全を兼ねる特殊クランとして分類再検討」
オルガが静かに言った。
「それでいい」
ガレンはへこんだ盾を見下ろし、苦笑した。
「Aの壁が、紙みたいに思えてきたな」
透は灰境商の男を縛り上げ、灰骸刀を鞘へ戻した。
白い骨玉が揺れる。
灰標の灯は消えていない。
むしろ、先ほどより強く灯っていた。
東水路の水が流れる。
その横で、魔導獣の残骸が黒い油を漏らしている。
透は仲間たちを見た。
誰も膝をついていない。
誰も役を失っていない。
灰標団は、立っている。
Aの物差しを越えた場所で。
まだ正式な名はついていない。
だが、そこにいる者たちはもう知っていた。
灰標団は、測り直される側になったのだ。




