第九十話 敗戦、その後は
ダッダッダッ……
勇者軍は、ただひたすらに走っていた。
「急げっ!!」
「止まるな!!」
「負傷者を優先しろ!!」
戦場から離れるため。
一刻でも早く、安全な場所へ辿り着くため。
兵士たちの怒号が飛び交う。
それは――
敗走だった。
誰もが、その事実を理解していた。
そして……
戦場には、まだ一人の勇者が残っていた。
「……」
ノエルは、何度も後ろを振り返る。
しかし――
そこに、セリーナの姿はない。
「セリーナ……」
小さく名前を呟く。
返事は返ってこない。
「だ、大丈夫……だよ……」
隣を走るミーナが、震える声で言う。
「セリーナなら……きっと……」
励ますような言葉。
しかし――
その声には、不安が滲んでいた。
ミーナには分かっていた。
あの三つの影が、普通の存在ではないことを。
あれは、ただ強い魔獣ではない。
人の姿をした、別の何かだった。
「信じる……しかない……」
ノエルは、強く拳を握り締める。
「……うん」
二人は、再び前を向いた。
ダッダッダッ……
走る。
ただ、走る。
背後から追撃の気配はない。
それでも――
誰も速度を緩めなかった。
兵士たちは必死だった。
仲間の肩を支えながら。
傷ついた者を抱えながら。
倒れそうになる足を動かしながら。
ただ前へ。
生き残るために。
進み続ける。
「もう少しだ!!」
「駐屯地が見えるぞ!!」
先頭を走る兵士が叫ぶ。
その声に――
僅かな希望が生まれた。
しかし……
誰も歓声を上げなかった。
いつものような勝利の雄叫びはない。
仲間と喜び合う声もない。
遠くに――
人間領の旗が見えてきた。
「勇者軍が戻ったぞ!!」
その声と共に、駐屯地が一気に慌ただしくなる。
ダッダッダッ……
次々と兵士たちが駆け込んでくる。
「負傷者を運べ!!」
「治療班、急げ!!」
傷ついた仲間を支えながら。
疲れ切った身体を引きずりながら。
勇者軍は、ようやく帰還した。
しかし――
戻ってきた人数を確認していた兵士の表情が、徐々に固まっていく。
「……あれ?」
周囲を見渡す。
「勇者セリーナ様は……?」
「……」
誰も答えられなかった。
ノエルはいる。
ミーナもいる。
だが――
もう一人。
そこにいるはずの仲間がいなかった。
セリーナが……いない。
ノエルは、手にしていた調理器具を強く握り締める。
「……」
ミーナは、静かに弓を下ろした。
「……ぜ、絶対……帰ってくるよね……」
震える声。
二人は、逃げてきた方角へと視線を向ける。
そこには、まだ何も見えない。
外では兵士たちが慌ただしく動き続けていた。
魔王軍への警戒。
負傷者の治療。
次の戦いへの備え。
日常に戻ろうとする駐屯地の中で――
ただ二人だけは、動けずにいた。
しばらくして……
「……っ」
ミーナが、突然顔を上げる。
「こ、これは……」
感じ取った気配。
間違えるはずがなかった。
「ノエル……!」
ミーナがノエルの手を掴む。
二人は、同時に駆け出した。
駐屯地の入り口へ。
ダッダッダッ……
そして――
そこに。
一つの影が立っていた。
汚れた衣装。
疲れ切った身体。
それでも――
確かに、そこにいた。
勇者セリーナ。
「……ただいま……」
一瞬の沈黙。
そして――
「「おかえり!!」」
二人の声が、駐屯地に響き渡った。
天幕の中――
三人の勇者は、互いの顔を見合わせていた。
議題は一つ。
あの“黒い影”。
正確には――
“瘴気に汚染された冒険者”への対応だった。
魔王のように自我があり、不利になれば撤退する判断もする相手ならば、まだ戦い方はある。
しかし……
「止めるには……」
セリーナが静かに口を開く。
「……殺すしかない……」
「……それは……ダメ」
ノエルが即座に否定する。
「そ、そういえば……セラ様が言ってた……」
ミーナが、天界からの通信を思い出す。
『エリシアちゃんがいれば……あるいは、ってところっすけどね〜』
あの時の言葉。
しかし――
今、エリシアはロックのボディ修理に付き合い、街へ戻っている。
「エリシア……迎えに行く……?」
「そ、それが……いいと思う」
二人の意見を聞き、ノエルは少し考え込む。
戦闘になる可能性。
そして、相手の危険性。
それを考えれば――
「なら……私……行く」
ノエルが決断する。
セリーナとミーナを残した方が、戦力的には正しい。
そう判断したのだった。
「敵が来たら……撤退……絶対……」
そう言い残し――
ノエルは少数の護衛を連れ、街へ向かって出発した。
……
……
……
時間は遡って――
リベットの工房では。
「なぁロック、おつかいを頼まれてくれないか?」
リベットが、一つの箱を持ってくる。
ドスンッ……
「あ?」
ロックは箱を見る。
「嫌だよ……なんで俺がお前のおつかいなんか……」
「ちょっと……ロックさん……」
エリシアが慌てて二人の間に入ろうとする。
しかし――
「いいのか?」
リベットは、一枚の紙を取り出した。
そこに書かれていたものを見て――
「……」
ロックの顔が固まる。
「そんな態度を取って……」
リベットは淡々と言う。
「報酬は……修理代だ」
「やる!!」
即答だった。
「やるに決まってるだろ、リベット!!」
先ほどまでの態度が嘘のように変わる。
エリシアは呆れたように見つめる。
「ロックさん……」
リベットは箱を軽く叩く。
ポン、ポンッ……
「こいつを――」
一呼吸置いて。
「ドワーフの里に運んでくれ」
「……ドワーフの里?」
ロックとエリシアは、顔を見合わせる。
突然告げられた行き先。
そして――
その箱の中身が何なのか。
二人には、まだ分からなかった。




