第八十九話 舞い
セリーナの目の前に、その存在はいた。
ゆっくりと。
しかし、確実に。
黒い影が歩いてくる。
(自我がなくても……私の舞いは……)
ユラ……
ユラ……
三つの影が迫る。
盾を構えた影。
短剣を握る影。
杖を掲げた影。
その姿は、どれも人間と変わらない。
しかし――
その動きには、人間らしい迷いや恐怖が存在しなかった。
「……」
セリーナは、静かに短剣を構える。
逃げない。
倒すこともしない。
ただ――
時間を稼ぐ。
そのためだけに。
ザッ……
一歩、踏み出す。
「……行くよ」
セリーナは攻撃しない。
ただ、その場に立っていた。
そして――
カッ!!
地面を踏み鳴らす。
乾いた音が、戦場に響き渡る。
ドンッ!!
もう一度。
先ほどよりも強く。
ドンッ!!
まるで大地そのものを叩くような足音。
その瞬間――
三つの黒い影の動きが止まった。
(私の舞いは……無視させない!)
攻撃ではない。
魔法でもない。
ただ――
踊っている。
セリーナは腕を広げる。
ゆっくりと。
大きく。
まるで舞台の中央に立つ、ただ一人の踊り子のように――
戦場で舞い始めた。
その瞬間――
彼女の存在感が変わった。
「私を……見なさいっ!!」
セリーナの声が、戦場に響き渡る。
その瞬間。
三つの黒い影の赤い瞳が、セリーナへと向いた。
今まで、気にも留めていなかった存在。
しかし――
もう、目を離すことが出来ない。
足音。
手の動き。
視線。
全てが一つの流れとなり、見る者の意識を奪っていく。
(これが……)
(私の踊り……)
現世では、誰にも見てもらえなかった。
異世界に来ても、最初は誰からも期待されなかった。
でも――
この瞬間だけは。
この戦場だけは。
誰もが、自分を見ている。
セリーナは、静かに微笑んだ。
「……来なさい」
カッ!!
地面を踏み鳴らす。
その瞬間――
短剣を持った影が消えた。
シャッ!!
黒い残像だけを残し、一瞬で距離を詰める。
ザンッ……
刃がセリーナの身体を斬り裂いた。
身体が真っ二つになる。
しかし――
真っ二つになった身体は、霧のように消えていく。
そこにセリーナの姿はなかった。
「どこを見ているの……こっちよ」
避けたのではない。
“セリーナは、そこに存在していなかった”
舞いによって作り出された圧倒的な存在感。
それが、セリーナの残像となり、敵の意識を引きつけていた。
そして――
再び、舞う。
ゆらり。
身体を動かすたびに、その輪郭がハッキリとしてくる。
次の瞬間――
突然、影の背後から強烈な存在感が現れた。
バッ!!
三つの影が、一斉に振り返る。
そこには、すでに動き出したセリーナがいた。
クルッ……
身体を大きく回転させる。
翻る衣装。
流れる髪。
舞台の上で踊るような優雅な動き。
その一瞬――
再び敵の視界と意識を奪う。
戦場の中で。
セリーナだけが、誰よりも輝いていた。
杖を持った影が、魔力を溜め始める。
ブォォォォン……
不気味な音が、戦場に響く。
まるで――
周囲に漂う瘴気そのものを吸い上げるように。
杖の先に、黒い渦が生まれていく。
しかし……
遅い。
セリーナは、その動きを見逃さなかった。
シュッ……
短剣を握った腕が閃く。
狙いは――
杖。
カッ!!
刃が杖を斬り裂く。
カランコロン……
地面に落ちる杖。
武器を失った影。
しかし――
それでも魔力を集め、セリーナへと放つ。
ドンッ……
黒い魔力が直撃する。
だが――
フワッ……
そこにいたセリーナの姿が、揺らぐ。
それはまた……
“残像”
だった。
次の瞬間。
離れた場所から――
タタンッ!
軽やかな足音が響く。
敵の意識が、一瞬だけそちらへ向く。
その視線の先には――
セリーナがいた。
フラメンコのように。
力強く。
優雅に。
戦場の中心で舞っていた。
攻撃しない。
倒さない。
ただ――
誘導する。
まるで舞台の中央に立つ、踊り子のように。
「あなたたちは……」
セリーナは、黒い影を見つめる。
「きっと……本当は、こんな戦いなんて……したくなかったよね」
返事はない。
意思もない。
ただ――
影は、迫り続ける。
それでも。
セリーナの足は止まらない。
ドンッ。
ドンッ。
ドンッ。
戦場に響き渡る足音。
それは、敵を威圧するための音ではない。
恐怖を与えるための音でもない。
仲間へ届けるための――
合図。
だから。
「私は……ここにいる」
もう、誰にも気付かれない存在じゃない。
もう、誰の記憶にも残らない人間じゃない。
今だけは。
この戦場だけは。
この舞台の主役は――
勇者セリーナだった。
影は、セリーナの動きから目を離せなかった。
足音。
腕の動き。
舞う姿。
その全てが、敵の意識を縛り付けていた。
その隙に――
勇者軍は、全軍撤退を開始する。
ダッダッダッ……
「引けーっ!!」
「撤退だっ!!」
「急げっ!!」
決して、統率の取れた美しい撤退ではなかった。
突然の挟撃。
未知の敵。
混乱する戦場。
それでも――
二人の勇者は、必死に声を張り上げ続けた。
(セリーナ……もう少し……)
セリーナが作ってくれた時間を無駄にはしない。
その想いだけで、足を動かす。
(は、早く……逃げなきゃ……)
(セリーナさんが……)
ダッダッダッ……
一人。
また一人。
兵士たちが戦場から離れていく。
そして――
ついに。
勇者軍の姿が、完全に消えた。
それを確認したセリーナは――
(私も……撤退しよう……)
静かに息を吐く。
最後の一歩。
最後の足音。
黒い影を三つ、その場に残して――
セリーナの姿もまた、戦場から消えていた。




