第六十六話 勇者ノエル
私は孤児院で育った。
親のいない子どもたちと一緒に暮らしていた。
親に捨てられた子。
親を亡くした子。
親から引き離された子。
様々な境遇を抱えた子どもたちが、ここでは家族のように暮らしていた。
部屋にいると、毎日のように庭から賑やかな声が聞こえてくる。
「ノエル! こっち来て一緒に遊ぼうぜ!」
「ノエルちゃん、行こうよ!」
いつも声をかけてくれる子たち。
仲間……?
友達……?
う~ん……
(これが家族……なのかな?)
「これ……終わったら……」
私は部屋の中で料理の練習をしていた。
包丁やナイフの扱い方。
食材の切り方。
何度も何度も繰り返して覚えていく。
(……私の……役割……)
そう思うようになったのには理由があった。
◇ ◇ ◇
孤児院へ来る前――
私は父と母、三人で暮らしていた。
父は家にいることが多く、いつも酒を飲んでいた。
本当は外で遊びたかった。
でも――
「おいっ! どこに行くんだよっ!」
「そ、外に……」
「家の事をするのが先だろうがっ!!」
ビュンッ!
ガシャーンッ!!
「きゃっ!」
物が飛んでくる。
それは一度や二度ではなかった。
「ご、ごめんなさい……」
「謝ってる暇があったら、さっさとやれっ!!」
「……はい」
言葉を返せば怒鳴られる。
反論すればもっと怒鳴られる。
だから私は、少しずつ言葉を話さなくなった。
母は夜の仕事をしていた。
昼間は家にいても寝ていることが多い。
父はそんな母に腹を立てていた。
だが――
その怒りが向かう先は、いつも私だった。
ガチャーンッ!
「うっ……」
私は反射的に身を縮める。
一度機嫌が悪くなれば終わりだった。
どんな些細なことでも怒鳴られる。
どんな理由でも責められる。
ガタッ。
部屋の扉が開いた。
そこには母が立っていた。
昨日着ていた服のまま。
しわくちゃの姿で。
「……うるさいわねっ! 眠れないじゃない!」
「いつまでも寝てんじゃねーっ! テメーのせいでこうなってんだろうが!」
「アンタが働かないからだろ?」
「ふざけんなよ……!!」
ガチャーンッ!!
怒鳴り声と物の壊れる音。
その光景は、今でも忘れられない。
そして――
ある日、母は私を置いて家を出て行った。
当時の私は幼かった。
怖くて。
震えることしかできなかった。
今になって思えば、あれは虐待だったのだろう。
私が「躾」だと思っていたものの多くは、世間では許されないことだった。
逃げることもできなかった。
頼れる人もいなかった。
やがて私は――
何もしなくても怒られるようになった。
黙っていても怒られるようになった。
だから。
私は母の代わりに料理をするようになった。
少しでも機嫌が良くなるように。
少しでも怒鳴られないように。
必死だった。
だけど――
何度も料理を捨てられた。
何度も皿をひっくり返された。
せっかく作った料理が床に散らばるたびに、胸が苦しくなった。
その頃の私は――
自分に何の価値があるのか、分からなくなっていた。
それから私は保護され、孤児院で暮らすことになった。
だけど――
それまでの経験は簡単には消えなかった。
父に怒鳴られ続けた記憶。
怯えながら過ごした毎日。
その全てが心の奥に残っていた。
だから孤児院へ来ても、私はほとんど言葉を話さなかった。
一緒に暮らすみんなが嫌いなわけじゃない。
だけど――
(余計なことは……言わない)
それだけを心に決めていた。
心を閉ざしたまま、孤児院での日々は過ぎていく。
◇ ◇ ◇
「ノエル……これを運ぶの手伝ってくれないか?」
院長先生は何かにつけて私に声をかけてきた。
「…………うん」
頼まれたことは断らない。
言われたことはやる。
でも――
自分から何かをしようとは思わなかった。
(余計なことをしたら……怒られる……)
その考えがいつも頭の中にあった。
トラウマは、どこまでも私についてきた。
◇ ◇ ◇
「ノエル……ご飯できたぞ……」
「…………うん」
孤児院へ来てから、私はいつも自分の部屋で一人で食事をしていた。
父と二人で暮らしていた頃。
食事の時間は落ち着ける時間ではなかった。
いつ怒鳴られるか分からない。
いつ皿が飛んでくるか分からない。
そんな時間だった。
だから――
(一人のご飯……落ち着いて食べられる……)
一人で食べる食事は安心できた。
誰にも怒鳴られない。
誰にも邪魔されない。
静かで安全な時間だった。
そんなある日。
院長先生が少しだけ困ったような顔で言った。
「ノエル……今日は……みんなで食べないか?」
院長先生は私の生い立ちを知っていた。
だから最初に何度か誘った後は、無理に誘うことをしなくなった。
断られることを知っていたからだ。
「…………」
私は答えられなかった。
みんなと一緒に食べたいのか。
それとも、一人で食べたいのか。
自分でも分からなかった。
ただ――
扉の向こうから聞こえてくる笑い声だけが、少しだけ気になった。
私はもう、自分の本当の気持ちが分からなくなっていた。




