第三十一話 魔王撤退戦
魔王領、その南東側――
人間領との境界に近い、魔王軍の駐屯基地。
その天幕で――
一人の大柄な男が、苛立ちを爆発させていた。
「何で押される!!」
ドゴンッ――!!
振り下ろされた拳が、机を真っ二つに叩き割る。
「維持すら出来ない……だと!」
怒りに震える拳が、再び振り上がる。
「魔王マルコ様! 前線の軍が壊滅状態です……! 駐屯基地へ撤退してきますが……」
「何だとぉ!! 増援を送ったばかりだろうが!!」
ドォォンッ!!
今度は地面へと拳を叩きつける。
巻き上がる砂埃。
「うぉっ……」
報告役の魔族は、とっさに目を押さえた。
「急報! 急報!」
さらに、別の魔族が駆け込んでくる。
「ハァハァ……失礼する!」
ガバッ――!!
天幕の入口を荒々しく開け放ち、中へ飛び込んだ。
「急報です! 中央の魔王アルベルト様より――一領土分の撤退命令が出ました!」
「な、何だと……アルベルトが……?」
マルコの表情が歪む。
その命令を――すぐには信じられなかった。
(……何があった……アルベルト?)
ドタドタドタッ――!!
さらに、もう一人の魔族がなだれ込む。
「ハァハァ……マルコ様! 勇者軍が……ここに、押し寄せて来ます……!」
全身傷だらけの伝令。
そのまま――
ドサッ……
力尽きるように倒れ込む。
荒い呼吸が、やがて静まっていく――。
「くっ……」
一瞬の沈黙。
そして――
「全軍……撤退だ!!」
マルコは叫び、天幕を飛び出した。
――数刻後。
その地はすでに、魔王軍のものではなかった。
勇者軍によって――
完全に占拠されていた。
魔王領、その北東側――
人間領との境界に近い魔王軍の駐屯基地は、険しい山々に囲まれていた。
その一角に――
一人の男が立っている。
刀を携えた、和服姿の男。
初老。
しかし、その佇まいは達人そのものだった。
「……流れは、完全に勇者側に移ったか……」
静かに空を見上げる。
オードンの命に従い、前線の維持を続けてきた。
だが――押されている。
その現実を、冷静に受け止めていた。
「魔王ゲン様。時期にこの基地へ勇者軍が押し寄せます」
「……分かった」
判断を下そうとした、その時――
ダッダッダッ――!!
「急報! 中央の魔王アルベルト様より、一領土分の撤退命令です!」
伝令の魔族は、報告を終えると岩陰に腰を下ろし、荒い呼吸を整えていた。
(ここだけではなく……全体が……?)
ゲンは即座に決断する。
「全軍撤退!! 急ぎ西の森まで退くぞ!!」
号令を発した直後――
その姿が、ふっと消える。
(何が起きているのか……この目で確認せねば……)
統率された軍は、主を欠いても乱れない。
命令通りに動き出す魔王軍。
その中、ゲンは単身――前線へと向かった。
――戦場。
轟音が、すぐそこまで迫っている。
「撤退命令だ!! 退けー!!」
「うわぁー!」
「グオォォ……!」
崩れるように退く魔王軍。
対する勇者軍は――
「攻め時だ!! 一気に行くぞー!!」
「領土を取り戻せー!!」
「魔法隊、撃てー!!」
パァァァ――
ドドドッ――!!
(これ程の……? 何があれば……)
ゲンの目に映るのは――
かつて劣勢だった軍とは思えない、圧倒的な活力。
まるで別物の軍勢だった。
(マズイな……)
ゲンは距離を取り、刀を構える。
狙いは――
魔王軍と勇者軍、その“間”。
「フンッ」
振り下ろされた一閃。
――斬撃が、地を裂く。
「うわぁー!」
「ど、どこからだ!」
「こ……これは……!」
大地が抉れ、深い溝となる。
勇者軍は足を止めざるを得なかった。
(ふぅ……これで撤退までの足止めには十分だろう……)
刀を軽く下ろす。
(今日はもう……戦えないな……)
魔王ゲン――
“ソードマスター”。
初老ゆえ連撃は望めない。
だが――
その一撃は、戦場そのものを断ち切るほどに重かった。
魔王領、東側――中央軍。
前線は、大きく後退していた。
その最前線に――
一人の小柄な少女が立っている。
杖を掲げ、魔法を放ち続けていた。
「魔王イリヤ様! ここはもうダメです……撤退しましょう!」
「分かってるわよ!……でも、足止めくらいしないと……」
魔王イリヤは、手にした杖へと魔力を込めていく。
“魔導士”。
その役職を与えられた彼女は――残り僅かな魔力を解き放つ。
パァァァ――
ピシッ……ピシピシピシッ――!!
放たれたのは、氷の魔法。
戦場一帯を冷気が包み込み、巨大な氷の壁が形成される。
勇者軍の進行を、強制的に止める。
「前はこれで……くたばってたじゃない……何で……」
かつては敵を討ち倒していた魔法。
だが今は――
“足止め”が精一杯だった。
氷の壁に阻まれた勇者軍は、突破に時間を要する。
その間に――魔王軍は後退を進めていく。
・・・
・・・
・・・
魔王軍、駐屯基地。
すでに撤退準備が進められていた。
「魔王アルベルト様、もうすぐ魔王イリヤ様が戻ってまいります」
アルベルトと呼ばれた男は、前線の方へ視線を向ける。
「分かった……お前たちは先に行け。俺はイリヤを待つ」
冷静な判断。
だが、その内心では――
(オードンは“前線の維持”と指示を出した……)
それでも、維持すら出来ず撤退。
その事実が、重くのしかかる。
ふと、空を見上げる。
(相手は……オードン……神をも上回るのか?)
・・・
・・・
・・・
――その頃。
戦場とは、まるで無縁の場所で。
トンットンットンッ
カンッカンッカンッ――
ロックは、家の修理をしていた。
木材を打ち付ける音が、のどかに響く。
トンットンットンッ
カンッカンッカンッ――
トンッ
ガンッ
「いってぇ〜!!」
自分の指を打ち、悶絶するロック。
――元神にして、勇者。
その“戦い”は。
戦場から遠く離れた場所で――
今日も孤独に続いていた。




