第百十九話 勇者アリエス?
――封印の空間。
静まり返った岩場で、ロックは横たわるイリヤをじっと見つめていた。
(余計なことまで思い出しちまったぜ……)
二百年前の記憶。
アリエスの笑顔。
そして、自らの手で勇者たちへ《神の雷》を落とした、あの日。
「……ったく」
ロックは小さく頭を掻きながら立ち上がる。
ザッ……
ザッ……
ゆっくりとイリヤの傍まで歩み寄った。
「寝かせとくわけにもいかねぇか」
そっと掌をかざす。
フワァァ……
柔らかな光がイリヤの身体を包み込み、傷や疲労を静かに癒やしていく。
やがて――
「……ん」
イリヤの瞼がゆっくりと開いた。
「……ここは?」
ぼんやりと周囲を見回し、やがて視線がロックを捉える。
「……!」
反射的に身体を起こし、素早く距離を取った。
「何をした?」
杖はない。
それでも鋭い眼差しだけは失わず、ロックを睨みつける。
ロックは呆れたように肩をすくめた。
「ん?」
「何かしたのは、お前の仲間だろ?」
そう言って首を横へ振る。
「何……?」
イリヤは眉をひそめ、記憶を辿る。
ルディオン。
背中へ押し当てられた魔道具。
身体へ流し込まれた魔力。
そして――
「……くっ」
悔しそうに歯を食いしばる。
「そうか……ルディオンのやつ……」
ようやく状況を理解したらしい。
ロックは苦笑を浮かべる。
「利用されたな……」
その言葉に、イリヤは何も返さない。
ただ、苦々しい表情のまま俯く。
静寂だけが、封印の空間を包み込んでいた。
やがて、イリヤが小さく口を開いた。
「……なぜ、殺さなかったの?」
真っ直ぐロックを見つめる。
「知ってるんでしょ? ここから出る方法」
ロックは鼻で笑った。
「お前も知ってるんだろ?」
一拍置き、静かに続ける。
「――俺の弱点」
「……!」
イリヤの瞳が大きく見開かれた。
「……本当だったんだ」
その反応だけで十分だった。
ロックは深くため息を吐く。
「なぁ」
「この作戦のことは、何も聞いてねぇのか?」
イリヤは静かに首を横へ振った。
「私は……」
少し申し訳なさそうに目を伏せる。
「アンタをルディオンが封印さえしたら終わりって……それしか聞いてないよ……」
「あ〜ぁ……」
ロックは頭の後ろで手を組んだ。
「やっぱ、お前も知らないか」
空を見上げながら苦笑する。
「八方塞がりだな」
ドサッ――
近くの岩へ背中から寝転がる。
両手を枕代わりにし、青空をぼんやりと眺めた。
「さて……どうしたもんかね」
独り言のような呟きが、静かな封印の空間へ溶けていく。
イリヤは、そんなロックを黙って見つめていた。
目の前にいるのは敵。
本来なら命を奪い合う相手だ。
それなのに――
自分を助け。
傷を癒やし。
何事もなかったかのように寝転がっている。
(……変な男)
胸の奥で、複雑な感情が静かに渦を巻く。
イリヤは何も言えないまま、その場に立ち尽くしていた。
――天界。
「オードンせんぱい! 卑怯っすよ!」
セラの声が、部屋中に響き渡る。
しかし、オードンは振り返りもしなかった。
「……褒め言葉と受け取っておく」
それだけを静かに告げる。
ガチャ……
扉を開き、そのまま部屋を出ていく。
バタン――
静かに扉が閉まった。
廊下を歩きながら、オードンは苦しげに目を伏せる。
カッ…… カッ……
規則正しい足音だけが、静かな廊下へ響いていた。
(……相手のトラウマすら利用してまで……)
脳裏に浮かぶのは、魔法を撃てず立ち尽くしていたロックの姿だった。
(俺は……そこまでして勝ちたいのか?)
一瞬だけ、足が止まる。
だが――
(違う)
ギリッ……
拳を強く握り締める。
(俺は……)
視線を真っ直ぐ前へ向けた。
(早くアイツに戻ってきてほしいだけだ)
神だった頃のロック。
誰よりも真っ直ぐで、誰よりも輝いていた男。
あの頃のロックを取り戻すためなら――
(そのためには……勝たなければ……)
オードンは迷いを振り払うように、再び歩き出した。
◇
「うぅぅぅ……」
一人部屋へ残されたセラは、机いっぱいに資料を広げていた。
パラ…… パラ……
「何か方法はないっすか……」
封印師。
封印魔法。
解除条件。
過去の事例。
次々と資料へ目を通していく。
パラ…… パラ……
「ダメっす……」
肩を落とし、大きくため息を吐く。
「こうなったら……」
勢いよく立ち上がった。
「パパに聞くっす!」
ダッ!!
セラは社長室を目指して、一目散に駆け出していった。
――その頃、社長室。
ゼスは静まり返った部屋で、一人机へ向かっていた。
(オードン……)
ゆっくりと目を閉じる。
(そこまでして、ロックを神へ戻したいのか……)
机の上には、一つの札束が置かれていた。
しばらくそれを見つめた後、小さくため息を吐く。
「はぁ……」
札束を手に取り、静かに首を横へ振った。
「受け取るわけにはいかんだろ……」
カチャ……
金庫の扉を開け、その札束を中へしまい込む。
再び机へ戻ると、腕を組んだ。
(オードンは……)
静かに思考を巡らせる。
(ロックの過去を詳しく知っているはずはない)
それなのに――
イリヤという少女は、偶然とは思えないほどロックの心を揺さぶっていた。
(あの魔王は……本当に偶然なのか?)
ゼスは机の引き出しを開ける。
ゴソ……
一冊の古びた書類を取り出した。
そこには、古い文字で一人の名前が記されている。
「……アリエス」
その名を静かに呟いた――
その瞬間だった。
ガチャッ!!
「パパ!!」
勢いよく扉が開き、セラが息を切らしながら飛び込んできた。
そして、ゼスの手元にある書類へ目を向けると、大きく目を見開く。
「今……」
一歩。
また一歩とゼスへ歩み寄る。
「今、パパもアリエスって言ったっすか?」
ゼスは静かに娘を見つめ返した。
セラは真剣な表情のまま言葉を続ける。
「前に……ロックせんぱいも、その名前を言ってたっす」
一瞬、部屋が静まり返る。
セラは机へ両手をつき、父を真っ直ぐ見つめた。
「教えてほしいっす」
その瞳に、迷いはない。
「その……アリエスって人のことを」




