95.結婚
結婚式は滞りなく進んだ。
リュシアにとっては公の式典の一種という認識だった。
王太子府からは名代が来ていた。宮廷の要人も、軍の高官もいる。
リュシアは定められた場所で礼をし、定められた言葉を返し、必要な時にヴァレリオの隣に立った。
ヴァレリオは、式の間もずっと整っていた。
王太子府の名代、宮廷の要人、軍の高官、両家の親族。誰が見ても、カラディン侯爵家の嫡男として申し分のない振る舞いだった。
指輪の受け渡しの時、ヴァレリオの指先が僅かに震えた。
リュシアは少しだけ視線を上げた。
ヴァレリオの表情は崩れていない。だが目元だけが微かに緩んだ。
ヴァレリオが緊張しているのだとリュシアにも分かった。
前を向き直る。指輪がリュシアの指にはめられた。
指の付け根に、わずかな重さがあった。
その日の夜、湯浴みのあと侍女が丁寧に寝衣を整えた。
脱いで待つべきか確認すると、旦那様がお越しになるまではそのままでお待ちくださいませ、と返された。
部屋の火は落とされすぎていなかった。リュシアは寝台の脇に立ち、扉の方を見ていた。
扉を叩く音がした。
「どうぞ」
入ってきたヴァレリオも、湯を使った後だったのだろう、寝衣を着ていた。
「待たせたか」
「いえ」
ヴァレリオは扉を閉め、リュシアの前まで来た。
近い。
昼間は、式次第と視線と礼装が二人の間にあった。今はそれがない。湯上がりの髪がまだ少し湿っていて、寝衣の襟元からは昼間のカラディン家嫡男としての硬さが抜けている。
ヴァレリオが何かを言いかけた。
その時には、リュシアの指はもう寝衣の留め紐にかかってい
「待った」
ヴァレリオの声が、少しだけ低くなった。
リュシアは手を止めた。
「はい」
「俺がやる」
「自分でできます」
「知ってる」
ヴァレリオは、そこで少し笑った。
昼間の式で見せた笑みとは違った。困ったようで、少しだけ嬉しそうにも見えた。
「こういう夜でも、君は君なんだな」
「不適切でしたか」
「違う」
ヴァレリオは近づいたまま、すぐには紐に触れなかった。
「ただ、今夜は俺にさせて」
リュシアは少し考えた。
今夜は自分で出来ることを夫にやってもらう夜なのだろうと思った。
「はい」
リュシアは手を下ろす。
「先に、口づけてもいい?」
「はい」
答えた時には、まだ分かっているつもりだった。
けれど、ヴァレリオの顔が近づくと、息の仕方が少し分からなくなった。
口づけは短かった。
唇が離れたあと、リュシアは自分の手が寝衣の布を握っていることに気づいた。
「嫌か」
「いえ」
リュシアは、布を握ったまま答えた。
「嫌ではありません。ですが、少し分かりません」
「なら、いい」
ヴァレリオの声は低かった。
「分からないなら、急がない」
そう言って、彼は寝衣の紐ではなく、リュシアの髪に触れた。
湯浴みのあとに乾かされた髪を、指先がゆっくり梳く。戦場で髪を結う時とも、侍女に整えられる時とも違った。
それだけなのに、リュシアの肩がわずかに動いた。
「驚いた?」
「はい。ですが、不快ではありません」
「分かった」
ヴァレリオは笑わなかった。
額に短く唇が当てられた。リュシアの身体がまた小さく跳ねた。
なぜ額に触れられただけで身体が動くのか分からなかった。止めようと思えば止められるはずだったが、頭で思った時にはもう動いていた。
ヴァレリオはそのたびに止まった。息が昼間より深かった。目の奥にいつもとは違う色がある。
それでも、ヴァレリオは急がなかった。
次に、頬に口づけられた。
リュシアは息を吸った。吸ってから、さっきまで息を止めていたことに気づいた。
「息、止めなくていい」
「止めていましたか」
「うん」
「分かりませんでした」
「いい。今は俺に合わせて」
「分かりました」
何をどう合わせるのかは分かっていなかった。
ヴァレリオがもう一度唇に触れた。
今度は、先ほどより長かった。
リュシアは息の仕方が分からなくなった。触れられているが逃げたいわけではない。身体はヴァレリオの動きに合わせようとしている。けれど、頭はそれを追いかけられなかった。
ヴァレリオの手が留め紐にかかる。
瞬間、思わず手が動いた。
脱衣が必要だと把握していた筈だった。それなのにヴァレリオに見られると分かった途端に、手が勝手に動いていた。
ヴァレリオの唇が離れた。
「隠したい?」
リュシアは、自分の手を見た。
「分かりません」
「なら、そのままでいい」
ヴァレリオは短く言った。
その声に、少しだけ苦笑のようなものが混じった。
「俺も、少し待った方がいい」
「あなたもですか」
「ああ」
リュシアはヴァレリオを見た。
息がわずかに乱れている。目の奥に、昼間とは違う色がある。
リュシアは、布を握る手に力が入っていることを知った。
隠したかった。でも離れてほしいわけではない。止めたいのでもない。
全て同時にあることが、分からなかった。
「嫌ではないですし、止めたいのでもありません」
「うん」
「ですが身体が先に動きます。頭が追いつきません」
ヴァレリオは、そこで少しだけ目を伏せた。
「分かった」
それだけ言って彼はリュシアの手に触れた。
布を握る手を、無理には離さなかった。ただ、上から包むように触れた。
リュシアは、自分の手の力が少しだけ抜けるのを感じた。
その夜は分からないことが多すぎた。
だが、どれも嫌ではなかったことだけは分かった。
翌朝、リュシアは目を覚ましてから、しばらく動かなかった。
部屋は明るくなっていた。体のあちこちに、昨夜の名残があった。痛みもあるがそれだけでもなかった。
昨夜の自分がどう呼吸したか、どう手を動かしたか、何度ヴァレリオの名前を呼んだかを、頭が遅れて思い出していた。
見苦しかったのではないか、と思った。
戦場で身体を使っても、あそこまで制御を失ったことはなかった。
隣で、ヴァレリオが身じろぎした。
「起きた?」
「はい」
リュシアは布を少し引き上げた。
それが必要な動作なのかどうかは分からなかった。だが、今は隠したかった。
ヴァレリオはそれを見て、すぐには何も言わなかった。
「痛いところは?」
「あります」
「悪い」
「ヴァレリオのせいではありません」
リュシアの顔に熱が集まり始めた。
「昨夜の私は、見苦しかったと思います」
ヴァレリオは、すぐには返さなかった。
「見苦しくはなかった」
「そうですか」
「君を見苦しいかどうかで見たことはない」
「自分を上手く制御できませんでした」
「俺も上手く出来たわけじゃない」
リュシアは一度瞬きをした。
「余裕があるように見えました」
「君の前ではいつもそう見えるようにしてるからな」
リュシアは少し考えてから言った。
「安心しました」
「何が」
「ヴァレリオも私と同じだったので」
ヴァレリオが低い声で笑った。
「そうだな」
リュシアは、まだ布を握っていた。
ヴァレリオは、その手を無理にほどかなかった。
そのままでいられることに、少しだけ安心した。




