94.場所を作る
婚約が正式なものとして動き始めてから、数か月が経っていた。
その間に、リュシアはヴァレリオと何度か手紙を交わした。
最初はヴァレリオ様、と書いた。
何通目かの返事で、彼は、二人だけの手紙なら様は要らない、と書いてきた。
次の手紙で、リュシアは初めてヴァレリオ、と書いた。
その文字を書く時に少しだけ筆が止まったが、書き直したいとは思わなかった。
婚礼支度が本格的に始まったのは、それからしばらく経った後だった。
フォルティス家の屋敷の一室に、布地の見本と古い礼装の記録が並べられていた。カタリナは目録を眺め、針子と侍女は採寸の道具を整えている。
「婚礼用の礼装は、新しく仕立てます」
カタリナが言った。
リュシアは少しだけ首を傾げた。
「新しく、ですか」
「当然よ」
「礼装と形は同じです。それを直せば使えるのではありませんか」
カタリナが即座に返事をした。
「使えるわけがないでしょう」
「寸法の問題ですか」
「寸法だけではありません。婚礼衣装は生地から違います」
カタリナは針子を見やった。
「婚礼用は、同色の柄を細かく入れた布を最初から取ります。後から飾りを足せばよいものではございません」
「柄、ですか」
「はい。襟、肩、背中、袖、裾まで、柄の流れを合わせます。礼装をほどいて作り替えれば、線が切れます」
リュシアは布を見た。
遠目には地味だった。
近くで見ると、同じ色の模様が、光の角度でかすかに浮かぶ。
「つまり、普通の礼装に婚礼用の飾りを足すことはできないのですね」
「できません。少なくとも、フォルティスの婚礼衣装としては」
カタリナが静かに言った。
「あなたの婚礼のための衣装よ、リュシア。似た形に直して間に合わせるものではないの」
リュシアは頷く。
「承知しました。お願いします」
針子が一歩前に出た。
「フォルティスは婚礼衣装も礼服と同じく詰襟で、手首まで覆います。肌を見せるものではございませんがごまかしの利く服でもございません」
針子は布地の見本を広げた。
遠目には、ほとんど無地に見えた。けれど近づくと、同じ色の細かな柄が織り込まれている。光の角度で、模様だけが静かに浮いた。
「この布は伸びません。肩が合わなければ背中の柄が流れますし、首の位置が違えば詰襟が浮きます。腰の位置が悪ければ姿勢が乱れます」
「姿勢ですか」
「はい。立っているだけで分かります」
リュシアは布を見た。
色も柄も控えめで特別に目を引く華やかさはない。若い令嬢が好むような軽さや甘さもない。露出もないし装飾も少なかった。
着る人間の身体に合っていなければ、すぐに分かる服だった。
「今の私の体は以前と違います。礼装としておかしくはありませんか」
「いいえ。大丈夫よ」
カタリナは落ち着いた声で言い、針子も頷いた。
「今のお嬢様は、肩と背中の線が以前よりはっきりしておいでです。そこを細く見せようとしますと布がひきつれます。今のお身体に合わせてしっかり布を取る方が、かえって美しく見えます」
リュシアは、少しだけ黙った。
「分かりました」
リュシアは顔を上げた。
「お願いします」
カタリナは小さく頷いた。針子が広げた新しい紙の前にリュシアは立つ。婚礼衣装のための採寸が始まった。
試着が終わった後、リュシアはカタリナと私室に戻った。
新居に持っていくもの、残すもの、捨てるものを分けていくと、小さめの箱が出てきた。
王子の婚約者時代の装身具や、宮廷儀礼の写しや資料、ノートが数冊入っている。
リュシアの手が止まったのを見て、カタリナが近づいてきた。箱の中から、薄いノートを一冊取り出す。
表紙には当時の字で短く書かれていた。
婚約者対応記録。
カタリナの手が、そこで止まった。
そのノートを、母は知っている。婚約破棄の後、家族がノートを読んだと話した時の沈黙を、リュシアは覚えている。
「これは持っていくの?」
「迷っています。後でヴァレリオに相談して決めます」
カタリナは少しだけ目を見開いてから頷いた。
「それがいいわね」
夕方、ヴァレリオが来た。
婚礼の日取りと、カラディン家側の準備について確認するためだった。
最初は応接室に通した。カタリナが同席し、家同士の手順を確認したあと、私室に向かった。カラディン邸に運ぶ荷物について確認するためだ。
ヴァレリオはリュシアを見て、少しだけ目を細めた。
「試着の後に悪いな。今日は早く済ませる」
「悪くはありません」
「そう言うと思った。長くならないようにする」
リュシアは顔を上げた。
「早く済ませる必要はありません」
「ん?」
「あなたと話す時間を、短くしたいとは思いません」
ヴァレリオは、少しだけ黙った。
「それは、もう少し一緒にいたいという意味?」
考えたこともなかったが、言われてみればその言葉は自然に胸の中に落ちた。
「はい。そうです」
ヴァレリオは、一拍置いて笑った。
「……そう言われると、帰りたくなくなるな」
「困りますか」
「全然。長くいる理由ができた」
そう言ってから、ヴァレリオは机の上へ視線を移した。
「なら、きちんと確認しよう。カラディン邸の部屋は整えてある。大抵のものは持ってきていい。ただ、先に入れるものと、後からでいいものは分けたい」
「はい」
「向こうで揃えられるものもある。寝具や日用品、家具の一部はこちらで用意する。君がフォルティス邸から持っていきたいものと、こちらで揃えていいものを確認したい」
ヴァレリオは、箱のひとつを見た。
「特に、文机まわりと記録類は先に決めておきたい。君が必要なものを、勝手に片付けられるのは困るだろう」
「困ります」
「だろうな」
リュシアは机の上に置いた紙束を見た。
北方から持ち帰った写し。王都の式典に関する控え。古い宮廷対応記録。
どれも、今すぐ使うとは限らない。だが、不要なものでもなかった。
ヴァレリオは、薄い記録帳の前で手を止めた。
「これは、どちらの荷に入れる?」
リュシアは、その表紙を見た。
宮廷対応記録 一。
「迷っています」
「迷う理由は?」
「王都での式典や挨拶の注意も含まれています。持っていく方が実用的です」
「なら、先に入れてよさそうだが」
「ただ、初期の記録は、第二王子殿下の婚約者だった頃のものです」
ヴァレリオの表情がわずかに変わった。
それが単なる式典の控えではないと思ったのだろう。
「読んでもいいもの?」
リュシアは、すぐには答えなかった。
ヴァレリオの判断を仰ぐなら見てもらうべきだとは分かっていた。
ただこれを読むことは、ヴァレリオにとって負担になるかもしれないと思った。
「構いません」
ヴァレリオは立ったまま読まなかった。椅子に座り、表紙をもう一度見てから、頁へ視線を落とした。
茶会。
返答までの間が長い。
殿下の視線が外れた。
原因。質問の意図を分類できなかった。
対策。話題を三種に分け、返答例を準備する。
ヴァレリオの手が止まった。
「この頃君はいくつだった?」
「記録自体は十四の時からしています。それは十五の時です」
ヴァレリオは短く息を吐き、額に手を置いた。
「悪い。うまい言葉が出ない」
「見せない方が良かったですか」
「違う」
ヴァレリオの返事は早かった。
「見なければよかったとは思っていない」
「家族も、読んだ時に似た反応でした」
「そうだろうな」
「これは、宮廷対応の記録です。必要な改善を記録しただけです」
「うん。分かる」
リュシアはその答えをすぐには処理できなかった。
分かるのになぜ困っているように見えるのか、わからなかった。だが、ヴァレリオは矛盾したことを言っているようには見えなかった。
「君に初めて会った時のことを思い出した」
「六年前ですね」
「そう。君が軍に入る前にフォルティス家へ行った時だ。君は、能力がある以上魔法騎士になるのは当然だと言っていた」
リュシアは少しだけ瞬きをした。
「私は、そんなことを言いましたか」
「言った。かなりはっきり」
「そうですか」
リュシアは言ったかもしれない、と思った。能力があり、使える場所があるなら、そこへ行くのが合理的だった。
ヴァレリオは、頁の端に指を置いた。
「その時は、強い人だと思った」
「今は違いますか」
「違わない。ただあの時よりはわかったことがある」
それきり、ヴァレリオは少し黙った。
ヴァレリオはノートを閉じた。
リュシアの手に戻しながら、短く言った。
「ありがとう」
リュシアはノートを受け取った。
「これは、どちらの荷に入れますか」
ヴァレリオは少し考えた。
「先に運ぶ荷で。君の文机の引き出しに、入れる場所を作っておく」
「承知しました」




