93.確認の日
北方でヴァレリオへの手紙を書いてから、一ヶ月が経った。
リュシアは、婚約の正式な扱いを確認するため、王都への一時帰還を命じられた。
仮の婚約として始まったものを仮のままにしないなら、手続きが必要だった。
リュシアは馬車の窓から、フォルティス家の王都屋敷を見た。戻ってきたのだと思った。
玄関広間に入ると、カタリナが待っていた。
淡い色のドレスを着て、背筋を伸ばしている。屋敷の女主人として客を迎える時の姿だった。
「お帰りなさい、リュシア」
「ただいま戻りました、お母様」
応接室ではなく、居間に通される。
王都屋敷で、カタリナが家族を迎える時に使う部屋だった。大きな窓の前に花が置かれ、火鉢には柔らかい火が入っている。
リュシアは椅子に座り、手袋を外した。
「お父様は、領地ですか」
「ええ。あなたの手紙のことはすでに伝えています」
「そうですか」
「王太子府との話も、カラディン家との手順も、今はアルバートに任せています」
それなら問題はない、とリュシアは理解した。
カタリナは、リュシアの手元を見た。
「あなたは決めたのね」
「はい。そうしたいと思いました」
その答えに、カタリナは少しだけ目を細めた。
「なら、今日は直接確認する日ね」
リュシアは頷いた。
手紙は送った。言葉は書いた。
仮の婚約として受けたことは変わらない。だが、この婚約を仮のまま終えることは望まない。
書いた時には、それが自分の中で最も正確な言葉だった。今も変わらない。
ただ、その返事がヴァレリオにどう届いたのかまでは、まだ知らなかった。
午後、ヴァレリオが来た。
取り次ぎを受けたカタリナが、屋敷の主として応接室へ案内した。リュシアは少し遅れて入った。
ヴァレリオは立ち上がった。
軍服ではなく貴族家の嫡男としての装いだった。だが、立ち方も表情もいつもと変わらない。整っているのに、取り澄ましたところはなかった。
「フォルティス中尉」
「カラディン大尉」
そう呼んでから、リュシアは少しだけ迷った。
ヴァレリオは口元をわずかに動かした。
「今日は、そのままでいい。急に変える必要はない」
「はい」
カタリナは二人を見てから、穏やかに言った。
「私は、隣の部屋におります。扉は開けておきます」
「お気遣い、ありがとうございます」
ヴァレリオが礼をした。
完全な二人きりではない。だが、会話は二人でできる。婚約者としての対面には、ちょうどよい距離だった。
カタリナが部屋を出ると、応接室は静かになった。
机の上には、茶と、小さな封筒が置かれていた。
リュシアはその封筒を見た。自分が北方から送ったものだった。開封されているが、折り目は乱れていない。
ヴァレリオが先に口を開いた。
「手紙は読んだ」
「はい」
「確認させてほしい。あれは、君の意志として受け取っていい?」
予想していた質問だった。
それでも、リュシアは背筋を伸ばした。
「はい。私の意志です」
ヴァレリオはすぐには答えなかった。視線を落とし、息を一つ吐いた。長くはなかった。
「分かった。嬉しい。かなり」
リュシアは、少しだけ瞬きをした。
嬉しい。
その言葉が、自分に向けられた返事として届いた。
手紙を書いた時、リュシアは自分の望みを確認していた。婚約を続けたい。仮のまま終わることは望まない。それは自分の判断だった。
その判断が、ヴァレリオを喜ばせるものだとは、はっきり考えていなかった。
「それなら、よかったです」
口にしてから、少しだけ足りないと思った。
ヴァレリオが嬉しいならよかった。それは事実だった。ただそれだけでは今の感情が表せていない気がした。
「私も、嬉しいです」
ヴァレリオは、その言葉を急かさず待っていたように、静かに頷いた。
「うん。ありがとう」
ただ、それだけを返した。
その声に、リュシアは少し安心した。
ヴァレリオは封筒を手に取り、机の端へ寄せた。
「婚約の扱いは、これで正式に進める。フォルティス家側の調整は、アルバート殿が動いている。カラディン家側も、俺が戻ってから確認する」
「はい」
「あとは、君の勤務と、結婚後の生活の話だ。そこは日を改めて、きちんと話したい」
「はい」
「その話を本格的に始めることになる。君がどうしたいかを考えておいて欲しい」
「分かりました。整理して改めて」
リュシアは素直に頷いた。
玄関広間まで見送った。
ヴァレリオは外套を受け取り、扉の前で振り返った。
「では、また。勤務の話は、日を改めて」
「はい」
それで終わるはずだった。
リュシアは一歩だけ前に出た。
「ヴァレリオ様」
呼んでから、それが先ほどまでの呼び方と違うことに気づいた。
「今日は、来てくださってありがとうございました。直接お話しできて、よかったです」
ヴァレリオは少しだけ目元を緩めた。
「俺もだ。リュシア」
短い返事だった。
ただリュシアにはそれで十分だった。




