92.残るもの
冬は、大きく崩れずに終わった。
魔獣の数が少なかったからだ。
昨年の冬とは明確に違った。壁を叩く群れは薄く、ブラインドフォグも長くは続かなかった。魔獣の接近は何度もあったが、壁を揺らすほどではない。
何もなかったわけではない。
壁は傷んだ。補修材は減った。軽傷者も出た。警戒表は何度も書き換えられた。
それでも深刻な損耗は出なかった。
その朝、第三中隊は通常勤務に入っていた。
エドガー・ミルズ中尉が壁上確認の札を取り、ベン・ハドソン曹長が補強班との連絡時刻を読み上げる。リュシアは午後の聞き取り予定を手帳に写していた。
イアン・メルロー准尉が十月配属の新任魔法騎士に配置を確認している。ダリル・ケイン曹長は反応表を見て、グレン・フォスター軍曹は装備点検の記録に目を落としていた。
リンクが繋がる。
『こちら戦略情報室。第三中隊、感度確認』
聞き慣れてきた若い声だった。
「第三中隊、ベイル。感度問題なし」
『了解。通常視界、東寄り小型反応あり。密度は基準内。壁上処理で足ります』
昨年の冬はずっと聞こえていたエリアスの声ではないことに、皆慣れてきていた。
「フォルティス中尉は午後、戦略情報室だな」
エドガーが確認した。
「はい。第三中隊分の聞き取りです」
「ではこちらで回す」
「必要なら呼んでください」
ベンが表から顔を上げずに言った。
「必要なら呼ぶが、このままなら足りそうだ」
「はい」
リュシアは頷いた。
昨年の冬はリュシアの火力を最大限に使わなければ砦線そのものが危うい場面があった。
今は違った。
今年の群れは薄い。時間はかかったとしても、リュシアがいなければ処理できないことはない。ハワードは、必要がなければリュシアを出さなかった。ずっとそうだった。
リュシアが戦略情報室に入ると、エリアスは奥の机で書類を揃えていた。
机の上には、いつもの壁外反応記録があった。だが、記入欄の筆跡は一つではない。レナード、ミラ、サラ。いくつもの手が、同じ表の上に残っている。
エリアスはリュシアに気づいて顔を上げた。
「フォルティス中尉。来ていただいてありがとうございます」
「はい」
「第三中隊分の聞き取りから始めます」
聞き取りは、戦闘報告の確認ではなかった。
必要なのは、リュシアが何を見て、どこで壁上処理で足りると判断したかだった。
聞き取りが終わると、エリアスは書類を二つに分けた。一つはレナードへ回す分。もう一つは、伏せたまま手元に残した。
「以上です。第三中隊分は、これで一度ファルク准尉へ回します」
「はい」
リュシアが立ち上がろうとすると、エリアスは伏せていた一枚の書類に手を置いた。
「フォルティス中尉。もう一つ、私からお伝えしておくことがあります」
「はい」
「私に内示が出ました。中央に転属になります。正式な発令はまだ先ですが、準備は始まっています」
リュシアは、すぐには返答できなかった。
北方から、エリアス・ハーウッドがいなくなる。
その事実は、自分の転属前提よりも大きいものに見えた。
「驚いています」
「はい」
「ですが、納得もしています」
エリアスは静かにリュシアを見た。
「ハーウッド中尉は、北方砦で最も大きく戦力に貢献している方だと思っています」
「戦力、ですか」
「はい。壁全体の判断を変えました。私が見てきた北方は、最初からハーウッド中尉の判断の上にありました」
エリアスは、少しだけ動きを止めた。
「高く評価してくださっているのですね」
「はい」
「光栄です」
短い返答だったが、軽い声ではなかった。
リュシアは机の上の索敵記録を見た。
同じ欄に、違う筆跡が残っている。
「今年になって、ハーウッド中尉がメイン卓から外れる時間が増えていました」
「はい」
「制度のためだとは思っていました。ハーウッド中尉がいずれ北方を離れても、残るようにするためだと」
「そうです」
「ですが、もう内示が出ているとは思っていませんでした」
「早くはありません」
エリアスは静かに言った。
「私にとっては、予定通りです」
リュシアは返答を止めた。
予定通り。
ハーウッド中尉は、リュシアよりずっと前から、自分がいなくなった後の北方を見ていた。
「あの時」
リュシアは言った。
「私の索敵を止めた時のことです」
「はい」
「ハーウッド中尉は言いました。私が見れば早い。損耗も減る。ですが、それを続ければ、運用は私に戻る、と」
「言いました」
「あれは、私だけに向けられた言葉ではなかったのですね」
エリアスは少し黙った。
「はい。使う側にいる限り、同じ線を自分にも引く必要があります」
リュシアは、机の上の索敵記録へ視線を落とした。
自分が出れば、減らせる損耗がある。
ハーウッド中尉が座れば、減らせる迷いがある。
それでも、出ない方が正しい時がある。
座らない方が、残るものがある。
「下がりたくなかったのですか」
「はい」
エリアスは否定しなかった。
「私が座れば、今でも早くなります。判断の迷いも減ります。ですが、それを続ければ制度として続けることはできません」
「それで、席を空けたのですね」
「はい」
リュシアは息を吸った。
「尊敬します」
エリアスは目を伏せた。
「ありがとうございます」
「こういう結果の出し方もあるのだと、分かりました」
エリアスは何も言わなかった。一拍置いてから続けた。
「では、第三中隊の聞き取りは次回からもこの形で行います」
「はい」
エリアスは、いつものように紙を整えた。
机の上には、もうエリアスだけではない筆跡が並んでいた。
その夜、リュシアは兵舎の部屋で、ヴァレリオへの手紙を書いた。
これまでにも手紙は交わしていた。
北方勤務の扱い。引き継ぎ期間。カラディン家で自分が担えること。婚約を解消する場合の手順。どれも確認事項だ。
だが、今夜書く手紙は、それだけではなかった。
この婚約を仮の婚約として受けましたが、私はこの婚約を、仮のまま終えることを望みません。
北方での引き継ぎは続けます。
今後の勤務や、カラディン家で自分が何を担えるのかについても、引き続き確認させてください。
それでも、確認がすべて終わるまで、この返答を保留にする必要はないと判断しました。
リュシアは筆を置いた。
軍人であり続けるかどうか。
北方に残るかどうか。
どこで役に立てるのか。
まだすべての答えはない。
それでも選びたい道がもうあった。
リュシアは封をした。
北方の夜は、静かだった。




