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91.未定

 砦が見えてきた時には、すでに日は暮れていた。


 砦の輪郭は、闇の中に沈んでいた。石壁の上に、夜警の灯りが点々と並んでいる。門の脇の篝火が風に揺れ、鉄具の音が短く鳴った。


 出発してから七日しか経っていないはずだが、なぜか懐かしいような気がした。


 翌朝、第三中隊の班長室へ向かった。

 ハワード・ベイル大尉は、机の上に書類を置いていた。リュシアが敬礼すると、短く頷く。


「戻ったか」


「はい。帰着しました」


「体調は」


「異常ありません」


「そうか」


「報告があります」


 ハワードが顔を上げた。


「何だ」


「王都滞在中、カラディン大尉との婚約が成立しました」


 ハワードは一拍置いた。


「……そうか」


「勤務に影響する事項として報告します。即時離任ではありませんが、北方砦勤務を長期前提で続けることは難しくなります」


「分かっているならいい」


「はい。引き継ぎ前提で、聞き取りと判断根拠の資料化を進めます」


「そうしろ」


「ただし、時期はまだ確定していません」


「王太子府からもそう来ている。急に抜く話ではない。だが、抜ける前提では組む」


「はい」


「帰京中の記録は要点だけ読め。全記録は読むな」


「了解しました」


「戻ってきたからといって、穴埋めに戻す気はない」


「はい」


 リュシアは椅子に座り、要点報告を受け取った。


 帰京中、砦は維持されていた。


 小型群の接近が三回。中型混じりが一回。東区画では壁上処理に時間がかかり、補修箇所が増えた。西区画では撤退線を一段早めた。軽傷者が二名。重傷者はなし。


 フォルティス中尉への臨時確認は、なし。リュシアはその一行で手を止めた。

 今すぐ外れるわけではない。まだ北方にいるし仕事も残っている。

 だが、ずっといる前提ではない。


「私は、まだ北方にいます」


「いる」


「では、勤務は続けます」


「ああ。だがいなくなった後のことを考えて勤務しろ」


 リュシアは、手元の報告書を見た。


「判断根拠の資料化を進めます」


「そうしろ。聞き取りも、出撃判断の再現も、全部その前提で組み直す」


「はい」


「それと、婚約の件は私事だが、勤務上の影響は私事では済まない。聞かれた時の答えは揃えろ」


「婚約は事実です」


「それでいい」


 ハワードは少しだけ眉間を押さえた。


「まったく、お前は来る前も面倒で、いる間も面倒で、外す時も面倒だな」


 リュシアは顔を上げた。


「私は、北方では問題は起こさなかったという認識です」


「問題を起こしかねないと思っているのは賢明だな」


「それは評価ですか」


「苦情だ」


「はい」


「半分は評価だ」


「意図がわかりかねます」


「だろうな」


 ハワードは勤務表を閉じた。


「今日はここまでだ。ファルク准尉が連絡があるそうだ。後で顔を出せ」


「はい」


 リュシアは報告書を持って立ち上がった。


 廊下へ出ると、北方の音がした。足音、伝令の声、遠くの壁上で金具が鳴る音。


 ここは、何をすればよいか分かる場所だった。


 だが、今は、何をしないべきかも決められていた。


  午後、リュシアは戦略情報室へ向かった。


 扉を開けると、紙の匂いがした。机は相変わらず埋まっている。新しい分類棚には、引き継ぎ用の札が増えていた。


 ミラ・コルベール伍長が、紙束を抱えたまま顔を上げた。


「フォルティス中尉。お帰りなさい」


「はい。戻りました」


 ミラはすぐに次の紙束へ視線を落としたが、手は動かなかった。言うべきか、言わないべきかを測っている顔だった。


 リュシアは、その沈黙を確認事項と判断した。


「何かありますか」


「その、婚約の件ですが」


「はい」


 ミラは周囲を一度見た。声は自然に小さくなった。


「おめでとうございます、でいいんですよね?」


 リュシアは返答できなかった。


 婚約は事実だった。外向きにもそのように扱うことになった。

 だが、祝われる話なのかと聞かれると、分類が少し遅れた。


「確認の意図が分かりません」


 ミラは、リュシアの困惑に気づいたようで言葉を足した。


「ほら、貴族の方の婚約は、ご本人の気持ちだけで決まるものではないと聞きますから」


「なるほど」


 それなら答えられる。


「婚約は私本人の意思です」


 ミラの表情が、少しだけ緩んだ。


「それなら、おめでとうございます」


「ありがとうございます」


 そこで終わるはずだった。

 だが、ミラはまだ紙束を抱えたまま立っていた。


「あの、もう一つ聞いてもいいですか」


「答えられる範囲なら答えます」


「カラディン大尉って、うちにも来ていた、あのカラディン大尉ですよね」


「はい」


「その時から、そういうお話はあったんですか」


「私の知る限りではありません」


「でも、知り合いではありましたよね。ファルク准尉に、フォルティス中尉のことを聞いているのを見ました」


 リュシアは顔を上げた。


「カラディン大尉がですか」


「はい。いつもこんなにオペ室に出入りしているのか、とか、紙質問のこととか。私は横で聞いていただけなので全部は分かりません」


「そうですか」


 リュシアは、その場面を想像した。


 自分がいない場所で、カラディン大尉が自分の動き方を確認している。

 王太子府の人間としての火種管理であり、北方の運用確認だったのだろう。


 だが、知らなかった事実ではあった。


「知り合いというより、正確には私が彼の業務の対象でした」


 ミラは、小さく「ふうん」と言った。

 納得ではなさそうだった。


「……実際のところ、フォルティス中尉はカラディン大尉についてどう思っているんですか」


「信頼できる仕事をする方だと思っています」


「仕事以外では」


「分かりません」


「ですよね」


 ミラはそこで息を吐いた。

 リュシアはヴァレリオのことを思い浮かべる時に、少しだけ引っ掛かりがあったことを思い出した。


「ただ、婚約の話をする時に見たことのない顔をしていて、それが気になりました」


 ミラが瞬きした。


「……それ、本当に私に話して良いやつですか」


「あなたが聞きました」


「そうなんですが」


 ミラは小さく息を吐いた。


「まあ、分かりました」


「何がですか」


「おめでとうございますでいい、ということです」


「そうですか」


 ミラは紙束を抱え直し、姿勢を正した。


「おめでとうございます、フォルティス中尉」


「ありがとうございます」


 祝われることに、まだ慣れてはいなかった嫌ではないと思った。


 その後、リュシアはレナード・ファルク准尉の机へ向かった。

 レナードは既に新しい聞き取り表を作っていた。表の上部には、転属前提引き継ぎ用と書かれている。


「フォルティス中尉。聞き取りの順番を組み替えています」


「転属前提ですか」


「はい」


「私は、まだ北方にいます」


「はい。ですから、今のうちに取れるものを取ります」


 レナードは淡々と言った。


「これまでは、フォルティス中尉が判断するための聞き取りでした。今後は、フォルティス中尉以外が判断するための聞き取りに寄せます」


「私以外が判断するため」


「はい。反応の見方、壁上処理で足りる条件、戦略情報室へ上げる基準、遊撃要請の線。全部、できるだけ言葉にします」


「分かりました」


 リュシアは、机の上の表を見た。

 自分がいない時に、誰かが遅れても判断できるようにする資料。

 適切なやり方だった。


 聞き取りが終わり戦略情報室を出る頃には、窓の外が薄く暗くなっていた。


 食堂に向かう途中の廊下で、ダグラスに声をかけられた。


「聞いたぞ、婚約したってな」


「耳が早いですね」


「馬鹿言え、砦中が知ってる」


「それは冗談ですか」


「ああ、そうだ」


 ダグラスはそう言ってくっと笑った。


「カラディン大尉も大変だな」


 リュシアが意図を測りかねて黙っているとダグラスは続けた。


「今のも冗談だ」


「了解しました」


「まあ、おめでとうございます、だな。俺は本当に良かったと思ってる。魔法騎士班は大変だろうがな」


「はい。ありがとうございます」


 リュシアが礼を言うと、ダグラスはニヤリと笑って去っていった。


 食事を終えた後、リュシアは許可された範囲で不在中の要点記録を確認した。

 グレンは少しずつ通常勤務に近い体制になってきている。

 他にも四月に配属された新任の士官や下士官の名前も見てとれた。

 第三中隊に来る十月人事の新任の魔法騎士も、近いうちにこのように活躍するようになるのだろう。

 


 リュシアはその夜、兵舎の部屋で手帳を開いた。


 今日の確認項目は多い。


 帰着。

 帰京中の要点確認。

 臨時確認なし。

 北方勤務は継続だが転属前提。

 聞き取りは引き継ぎ用に組み替え。


 それらは、順に書けた。


 書き終えたあと、手帳を閉じる。


 北方は、戻ってきた場所だった。


 風も、壁も、任務表も、紙の匂いも、リュシアの知っているものだった。


 だが、戻ってきたからといって、元の場所へ戻るわけではなかった。


 自分がいない間も、砦は回った。

 綺麗には回らなかった。壁も傷んだ。処理も遅れた。

 それでも、回った。


 そのことを、喜ぶべきだとは分かってはいた。

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