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90.仮の形

 扉が静かに叩かれた。

 カタリナが入ってきた。表情は穏やかだったが、普段より少しだけ硬い。


「リュシア」


「はい」


「おかえりなさい」


 カタリナはそう言って、リュシアの手を取った。北方から戻った娘を迎える母の声だった。 

 だが、手の温度を確かめたあと、すぐに表情が変わった。


「今、カラディン大尉がいらしています」


「王弟家筋の件ですね」


 カタリナはリュシアの前に立った。


「リュシア、私たちはあなたの好きなようにしてほしいと思っています」


 リュシアは返答を止めた。


「好きなように、ですか」


「ええ。これから聞く話には、家の都合も、王太子府の都合も、政治的な事情もあると思うけれど、あなたの意思を飛ばしてまで進める話ではないわ」


 カタリナはリュシアの手を取った。


「分かりました」


 カタリナは、少しだけ表情を緩めた。


「では、行きましょう」


 応接室の前には、アルバートがいた。


「リュシア」


「兄様」


「カラディン大尉から、お前に直接説明したいという申し出があった」


「はい」


「俺たちは隣室にいる。話が終わったら呼べ」


 アルバートはそれだけ言って隣室へ入った。


 カタリナが扉を開ける。


 応接室には、ヴァレリオ・カラディン大尉が立っていた。


 いつものような、場を和らげる軽さはなかった。姿勢は崩れていない。声も乱れていない。ただ、卓上の茶には手をつけていなかった。


 リュシアが入ると、ヴァレリオは一礼した。


「フォルティス中尉」


「カラディン大尉」


 カタリナは二人を見た。


「私は隣室におります」


「はい」


 扉が閉まった。


 部屋にはリュシアとヴァレリオだけが残った。完全な二人きりではない。隣室には両親と兄がいる。廊下には使用人もいる。

 それでも、会話をするのは二人だった。


「座ってくれ」


「はい」


 二人は向かい合って座った。


 ヴァレリオは、まず卓上の書面を整えた。けれど、それをすぐにはリュシアへ渡さなかった。


「北方から戻ったばかりのところ、時間を取らせてすまない」


「必要な用件と聞いています」


「必要な用件だ。だが、君にとって軽い話ではない」


「はい」


「アルバート殿から、概要は聞いていると思う」


 ヴァレリオは一度だけ隣室へ続く扉を見た。


「王太子府とフォルティス家で、いくつか手を検討した。結論から言う。正式な申し入れになる前に止めるには、俺との婚約を立てるのが一番早い」


 リュシアはヴァレリオを見た。


「カラディン大尉との婚約ですか」


「ああ」


「王太子府の処理として」


「そういう側面がある」


 ヴァレリオは否定しなかった。


「相手はまだ正式に申し入れていない。だから、断ることもできない。だが放置すれば外堀が固まる。正式になってから断れば、君にもフォルティス家にも余計な傷がつく」


「はい」


「別の婚約を先に立てれば、申し入れそのものを止められる。カラディン侯爵家嫡男との婚約なら、相手も引ける」


「とりあえずの婚約、ということですね」


「時間を稼ぐ手でもある。フォルティス家が飲めないと判断した場合、あるいは他に適切な選択肢ができた場合、その時点でこの婚約を終わりにすることもできる」


「婚約を解消した場合、弊害はありますか」


「最善は尽くす」


 ヴァレリオはそこで、言葉を切った。


「だが、傷がゼロになるとは言わない。一度婚約した事実は残る。噂も立つ。可能な限り抑えるが、消せるとは言わない」


「はい」


「これは、君に気持ちよく頷かせるための話じゃない。君が考えるための材料を話している」


 リュシアは黙って聞いた。


 ヴァレリオの声は低かった。説明は簡潔だったが簡単ではなかった。都合のよい部分だけを切り取るつもりはないのだろう。


「ただ、俺は解消前提で婚約する気はない」


 そこで、情報が一つ増えた。

 王弟家筋を止めるため、時間を稼ぐための婚約。解消可能な婚約。

 だが、ヴァレリオ本人は解消前提ではない。


「質問があります」


「ああ」


「表彰式の時、大尉は言いました。王太子府の最善と私個人の最善は常に一致するとは限らない、と」


「ああ」


「これは王太子府の最善ですが、大尉個人の最善とは一致していないのでは」


 ヴァレリオは、そこで少しだけ息を吐いた。


「完全に一致しているとは言わない」


「では」


「ただ、俺は王太子府のためだけに君と結婚したいわけじゃない」


 ヴァレリオはリュシアを見た。


 その時だけ、ヴァレリオの顔は、リュシアの知っているどの顔とも違っていた。


「俺は、君を妻にしたい」


 リュシアは返答を止めた。

 業務として処理することができなかった。


 情報は揃っている。


 王弟家筋の動きは、筋が良くない。

 正式化する前に止める必要がある。

 ヴァレリオとの婚約は、その手段として有効。

 仮の婚約として時間を稼ぐこともできる。

 解消時の傷はゼロではない。

 ヴァレリオは、解消前提ではない。

 そして、王太子府のためだけにこの話をしているわけではない。


「婚約の機能は理解しました」


「ああ」


「王弟家筋の話を止める手段として有効です」


「そうだ」


「カラディン大尉が解消を前提としていないことも確認しました」


「ああ」


「では、仮の婚約として受けます」


「待て」


 ヴァレリオの声が重なった。


「フォルティス公をお呼びする。君の返事は、閣下の前で受ける」


 ヴァレリオは扉の前へ進み、控えていた使用人へ声をかけた。

 すぐに隣室の扉が開いた。


 レオンハルト、アルバート、カタリナが入ってくる。

 レオンハルトは、まずヴァレリオを見て頷いた。その後にリュシアの顔を見る。


「リュシア。どう決めた」


「仮の婚約として受けます」


「根拠は」


「王弟家筋の動きは、正式な申し入れの前に止める必要があります。カラディン大尉との婚約は、その手段として有効です。フォルティス家側にも撤退経路があります。カラディン大尉は、解消を前提としていません。傷が残る可能性も説明されました」


「正式婚約として進めるかは」


「現時点では、まだ判断しません」


 レオンハルトは黙って聞いていた。途中で誘導はしなかった。説得もしなかった。

 リュシアが言い終えると、短く頷いた。


「私も同じ判断だ」


 レオンハルトは短く言った。カタリナの表情が少しだけ緩む。

 アルバートは、ヴァレリオへ視線を向けた。


「カラディン大尉。外向きの文面は急ぐ必要がある」


「承知しています」


「王太子府へ戻る」


「はい」


 ヴァレリオはレオンハルトへ礼をした。


「フォルティス公。以後の実務は、王太子府とカラディン家で文面を整えたうえで、改めてお通しします」


「分かった」


 ヴァレリオは最後にリュシアを見た。


「フォルティス中尉」


「はい」


「君の返答は受けた。ただし、仮の婚約としてだ」


 リュシアは少しだけ目を伏せた。


「はい。仮の婚約として受けます。ですが、この婚約を続けるかどうかは、もう少し考えさせてください」


「ああ。急がなくていい。そのための仮の形だ」


「はい」


 ヴァレリオはそれ以上言わなかった。

 2人が去り、応接室にはレオンハルトとカタリナとリュシアが残った。


 王太子府の馬車が、再び動き出す音がした。


 レオンハルトが遠慮がちに口を開いた。


「リュシア。カラディン大尉とは親しくしてたのか?」


「軍務上の会話はしました」


「軍務以外で二人で個人的な話をしたりは」


 カタリナが口を挟んだ。


「いえ、二人きりになったことはありません」


 レオンハルトもカタリナも黙った。リュシアはその沈黙の意味は分からなかった。


「リュシア。お前はカラディン大尉をどう見ている」


「仕事ぶりは、信頼に値すると思っています」


 レオンハルトは黙って続きを待った。


「王太子府の方ですから確認は必要です。ですが、不利な情報を隠す方ではありません。北方でも、現場を自分で見ていました」


「去年の冬か」


「はい。私を遊撃に出すための筋を通しました。必要な判断でしたが、政治的には危険でした」


「そうか」


 カタリナが静かに聞いた。


「大尉との婚約は嫌ではなかった?」


「はい。嫌ではありませんでした」


 レオンハルトが息を吐いた。


「分かった。今日はそこまででよい」


 カタリナも困ったように微笑んだ。


「そうね、今日はもう休みなさい。そもそも休むために帰ってきたのだから」


 


 リュシアは寝台に横になっていた。


 疲れているはずだった。丸一日を移動に使い、帰ってきたら仮の婚約を受けた。


 仮の婚約は必要だった。あとは情報を並べて、婚約続行の可否を検討するだけだ。

 今夜すべきことは何もない。カタリナの言う通り、休むべきだった。


 だが瞳を閉じると瞼の裏に映る顔があった。


 カラディン大尉が、自分を見ていた顔。

 あの顔と、あの言葉だけが、頭から離れなかった。

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つ、ついに…!?どうなっちゃうの〜〜!?!?
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