89.帰京
グレン・フォスター軍曹が、班内確認に顔を出すようになっていた。
復帰ではない。
医務室から許可されたのは、短時間勤務と装備確認、壁上待機の一部だけだった。機動火力としての即応、壁外対応、区画外支援はまだ禁じられている
ハワードは、その視線を見ていた。
「フォスター。今日はそこまでだ」
「まだ動けます」
「動けるかどうかは関係ない。今日はここまでだ」
「了解しました」
グレンは引き下がった。
空いていた席に人がいるだけで、班内の空気は少し変わった。だが、穴が埋まったわけではなかった。
その日の午後、十月人事の内示が届いた。第三中隊に、魔法騎士が一名入る。
リュシアは班長室でその通達を読んだ。若手の少尉。火力はある。実戦経験は浅い。南方からの配属。記録上の能力は充分。
「一名来る」
「はい」
「第三中隊の穴を埋めるための補充だ」
「了解しました」
リュシアは通達を机に戻した。
火力が足りないなら火力を入れる。記録が足りないなら記録を増やす。判断が戻るなら基準を直す。
穴は、穴として扱う。
その結果として、補充が来る。
ただし、十月人事はまだ先だった。グレンも完全に復帰できたわけではないし、第三中隊も楽になったわけではなかった。
午後、リュシアが聞き取り用の表を整理していると、扉の外で足音が止まった。
「フォルティス中尉」
東区画の下士官だった。正式な伝令札は持っていない。手には折りたたんだ紙だけがある。
「用件は」
「東第三哨戒線の外側です。小型が散っています。書類は上げましたが、戻されました」
「戻された」
「ベイル大尉の許可が必要だと」
「その通りです」
リュシアは答えた。
下士官は一度、唇を結んだ。
「ですが、中尉が見ればすぐ分かると思いまして」
その言葉で、リュシアは立ち上がりかけた。
見れば分かる。
おそらく、分かる。
自分が見れば、壁上処理で足りるか、戦略情報室へ上げるべきか、すぐに返せる。
その感覚は不快ではなかった。
だが、リュシアは手を止めた。
「私は、直接確認を受けられないことになっています」
「承知しています」
「では、なぜ来ましたか」
「中尉がいらっしゃるので」
答えは正直だった。
リュシアは返答できなかった。
その時、廊下の向こうからハワードが来た。
「何をしている」
下士官が姿勢を正す。
「確認を」
「確認は俺を通せ」
「申し訳ありません」
「謝る相手はフォルティス中尉じゃない。自分の区画へ戻れ。基準通り処理しろ。必要なら正式に上げろ」
「了解しました」
下士官は頭を下げ、足早に去っていった。
ハワードは、リュシアを見た。
「行きたかったか」
「はい」
リュシアは否定しなかった。
「私が見れば、判断は早くなります」
「そうだな」
「ですが、直接確認は受けない運用です」
「そうだ」
ハワードは短く息を吐いた。
「これが続く。お前が砦にいる限り、現場はお前を見る」
リュシアは、閉じかけた手帳を見た。
それでも、状況は少しだけ変わっていた。
その日の夕方、リュシアはケンプ監督官に呼ばれた。
机の上には、休養消化表と、ここ数日の臨時確認記録が置かれていた。
「フォルティス中尉。確認します」
「はい」
ケンプは紙面を指した。
「冬に入れば、また例外と臨時が増えます。今のうちに、まとまった休養を取ってください。できれば砦外で」
「砦外ですか」
「はい。理由はお分かりかと思います。ベイル大尉を通せば断られるので、フォルティス中尉に直接接触しようとするものがいます」
リュシアは否定できなかった。
「私からは、休養日を休養日として成立させる必要がある、とだけ上げます」
ケンプはそこで、少しだけ声を落とした。
「フォルティス中尉。対応可能であることは、休まなくてよい理由にはなりません」
「はい」
リュシアは頷いた。
その後、リュシアは第三中隊長室へ向かった。
ギデオン・マークス中隊長とハワードがいた。机の上には、ケンプの上申書と、フォルティス家からの書状の写しが置かれている。
「フォルティス家から帰京の打診が来ている。休養消化と家門対応を兼ねる。王都へ戻れ」
「はい」
ギデオンは短く言った。
「期間は」
「七日。移動を含める。必要があれば延長は別途申請しろ」
「了解しました」
リュシアは答えたが、すぐに続けた。
「私が抜ければ、第三中隊の即応範囲は狭くなります」
「狭くなる」
ハワードが言った。
「フォスター軍曹は短時間勤務です。新任もまだ着任していません」
「分かっている」
「では」
「だから、今外す」
リュシアは黙った。
ハワードは机上の勤務表を指で押さえた。
「お前が砦にいる限り、現場はお前を見る。呼べば早いし結果も出る。そう分かっている奴を出すなと言うのは、現場に悪影響だ」
ギデオンが続けた。
「いるから現場は期待する。出なければ反感が出る」
「私は、現場から反感を買っていますか」
「今は、はっきりとは出ていない」
ハワードは答えた。
「だが、出てもおかしくない。お前が悪いわけじゃないが、そういう話じゃない」
「はい」
「だから一度離す。冬前の休養消化、家門対応、軽い補充の見込み。理由は揃っている」
ギデオンは書状を閉じた。
「帰京中、北方からの直接確認は入れない。聞き取り予定も一時停止する。戻ってから再開だ」
「了解しました」
「休め」
「はい」
「家の用件も済ませろ」
「はい」
リュシアは敬礼し、部屋を出た。
廊下に出ると、壁の外から風の音が聞こえた。強い風ではない。冬の音でもない。だが、北方の風だった。
ここにいれば役に立つ。それだけでは足りない。
理屈は理解できた。
出発は二日後になった。
リュシアは最低限の引き継ぎを済ませた。聞き取り資料はレナードに預け、東区画通常視界の表には追記を入れた。第三中隊の勤務表から、自分の区画外確認枠が消えていることも確認した。
グレンは、装備点検の途中でリュシアを見た。
「王都か」
「はい。休養消化と家門対応です」
「そうか」
「フォスター軍曹は、短時間勤務と聞いています」
「そうだな」
「無理をしないでください」
「それ、俺が言う側だった気がするな」
グレンは少しだけ笑った。リュシアは返答に迷った。
「私は、今は無理をするほど出撃できません」
「知ってる」
「なら、同じです」
「同じじゃねえよ」
グレンは装備紐を締め直した。
「でも、出たいのに出られないって意味では、少し似てるかもな」
リュシアは頷いた。空いていた席にグレンがいることで、少しだけ班内の空気が変わっていた。
出発の朝、砦の門前には薄い霧が出ていた。
冬のブラインドフォグではない。視界は通る。だが、白い膜のように壁の先を薄く隠している。
ハワードが見送りに来ていた。
「帰京中、北方の記録は読むな」
「必要なものがあれば」
「読むな」
「はい」
「休養消化だ。家門対応だ。北方の待機じゃない」
「了解しました」
ハワードは少しだけ間を置いた。
「戻ってきた時、全部が綺麗に回ってるとは限らん」
「はい」
「だが、お前で埋める運用には戻さない」
リュシアは息を吸った。
「了解しました」
馬車が動き出した。
リュシアは一度だけ振り返った。北方主砦の壁は、朝霧の中に立っていた。傷はある。補修跡もある。だが、壁は残っている。
自分がいなくても、砦は回る。
そうでなければならない。
それでも、その事実をそのまま安心とは呼べなかった。
王都に着いたのは、二日目の夕方だった。
フォルティス邸では、いつもより人の動きが静かだった。玄関広間には明かりが入り、執事がすぐに出迎えた。
「アルバート様がお待ちです」
リュシアは廊下を進んだ。両親の姿は見えなかった。執事は応接間ではなく、執務室へ案内した。
アルバートは机に向かっていた。書類の束が机の右側に積まれ、左側には開いた書類が並んでいた。リュシアが入ると、彼は顔を上げて立ち上がった。
「リュシア」
「アルバート兄様」
アルバートはリュシアを座らせ、自分も卓を挟んで腰を下ろした。
「移動はどうだった」
「問題ありません」
「そうか」
アルバートは机から書類の束を一つ取った。
「本題から入る。時間がない」
アルバートは書類の紙を一枚めくった。
「表彰式の後、お前への縁談の問い合わせが増えている」
「私への、ですか」
「そうだ。大半は、本人確認を理由に止めている」
「本人確認の前に進むものがあるのですか」
「ある」
アルバートは書類を一枚置いた。
「王弟家筋だ。まだ正式な申し入れではない」
「正式ではないなら、断る必要もないのではありませんか」
「だから厄介なんだ。正面から来ず、周辺に話を流している。こちらが断る前に、断りにくい空気を作る動きだ」
「それは良くないのでは」
「良くない。しかも大物すぎて断るだけで角が立つ」
「動きが大きくなる前に止める必要があるのですね」
「そうだ。王太子府も同じ判断だ」
リュシアは瞬きをした。
「王太子府が関係あるのですか」
「ある。表彰式でお前を表に出したこともあるが、根本には、第二王子殿下の婚約破棄の後始末がある」
「はい」
「ただし、王太子府の都合だけで進める話ではない。父上も母上も、俺も、お前の意思を確認するつもりでいる」
リュシアは頷いた。
「分かりました」
「まだ分からなくていい」
アルバートは立ち上がった。
「先に着替えろ。北方から戻ったばかりの格好で、王太子府の客に会わせるわけにはいかない」
「分かりました。着替えます」
リュシアは執務室を出た。
自室に戻ると、侍女がすでに王都用の室内着を用意していた。北方の外套を外し、軍務用の汚れを落とす。鏡の中のリュシアは、北方の魔法騎士ではなく、フォルティス家の娘として整えられていった。
着替えが終わる頃、屋敷の前で馬車の音が止まった。
使用人の動きが変わる。玄関広間へ向かう足音が、普段より速い。
侍女が扉の外へ出て、すぐに戻ってきた。
「王太子府の馬車でございます」
リュシアは鏡の中の自分を見た。北方の軍服ではない。ひどく心許なく感じられた。




