88.条件
ケンプ監督官から上申が上がったのは、東第三哨戒線の件から三日後だった。
リュシアは第三中隊長室に呼ばれた。部屋にはギデオン・マークス大佐とハワード・ベイル大尉、そしてケンプ監督官がいた。
机の上には、勤務記録が並んでいた。
通常勤務。
休養日。
短時間確認。
区画外ヘルプ。
臨時索敵。
移動明けの記録確認。
ケンプ監督官が紙を一枚めくった。
「フォルティス中尉の休養日に毎回勤務が入っています」
「はい」
「短時間で済んでいるものもあります。ですが、短時間でも勤務は勤務です」
「はい」
「さらに、区画外確認が臨時として記録されていますが、同種の確認が繰り返されています。これは臨時ではありません。平常勤務です」
リュシアは紙面を見た。
自分が対応した時間は長くない。東第三哨戒線の件も実際の確認は一瞬だった。
だが、記録には残る。
「私の負荷は、現時点では許容範囲です」
ケンプ監督官の声は冷たくはなかった。
「本人の自己申告は参考にしかできません」
答えは短かった。ギデオンが低い声で続けた。
「監督官の上申は受ける。第三中隊としても勤務体制を整理する」
「はい」
ハワードが別の紙を出した。
「お前の変則シフトを切る」
リュシアは顔を上げた。
「変則シフト、ですか」
「フォスターの穴を埋めていた枠だ。今後は組まない」
「火力が足りなくなります」
「緊急時は出す。だが、最初からお前を数に入れるのはやめる」
リュシアは、紙面に視線を落とした。
「第三中隊の即応範囲は狭くなります」
「狭くなる」
「損耗が増える可能性があります」
「ある」
ハワードは否定しなかった。
「だが、お前で埋めるかぎり、穴としては見えない。第三中隊の機動火力が足りないなら、足りない数字として出す」
「はい」
「お前を最初から数に入れない。正式な出動命令がある時だけ使う」
「了解しました」
返事はできた。
だが、リュシアはその場で納得できたとは思わなかった。
その日の午後、リュシアは戦略情報室に呼ばれた。
部屋はいつも通りに見えた。ミラが記録を束ね、サラが夜間表を確認し、次から次へと誰かがひっきりなしに出入りしている。中央の卓には、リュシアがこれまで見たことのない表が置かれていた。
エリアス・ハーウッド中尉とレナード・ファルク准尉が、その表の前にいた。
「フォルティス中尉。時間を取らせます」
「はい」
エリアスは紙を一枚差し出した。
そこには、春以降の処理記録が並んでいた。
リュシアは表を見た。
「昨年の冬以降、フォルティス中尉確認済みの項目が増えています」
エリアスが言った。
「私が補助しています」
「はい。ただし、補助の範囲を越えています」
リュシアは黙って続きを待った。
「フォルティス中尉が入ると、現場から戻る情報が適正化しすぎます」
「問題がありますか」
「あります」
エリアスは即答した。リュシアは表を見た。
フォルティス中尉確認済み。
フォルティス中尉補助索敵あり。
フォルティス中尉所見により平常線維持。
自分が答えたものだった。
自分が現場で見て、判断して、返したものだった。
「私が確認すれば、処理は早くなります」
「分かっています」
「私は対応可能です」
「把握しています」
「では、止める理由が分かりません」
エリアスは少しだけ間を置いた。
「損耗が減ってしまうからです」
リュシアは返答を止めた。
レナードが口を開く。
「損耗が減れば、運用の欠点が見えません。ハーウッド中尉以外が主担当に入った時、どこで判断が遅れ、どこで入力が足りず、どこで現場へ返す基準が曖昧になるのか。本来なら見えるはずの綻びを、フォルティス中尉が先に塞いでいます」
「綻びが見えるまで待てば、その間に損耗が出ます」
「はい」
「それを許容するのですか」
「一時的には。それでもどこで損耗が出るかを、正確に見るためには必要です」
冷たい言い方だが、意味は分かった。
今回の目的は損耗がどこで出るのかを見る。その上で、手順を正す。
リュシアが先に塞いでしまえば、その場所が見えない。
「今後、フォルティス中尉への直接入力は一歩下げます」
リュシアは一瞬言葉に詰まった。
「その代わり、中尉が判断する根拠を共有していただきたい」
「私の判断を、表に移すということですか」
「はい」
「完全な再現はできません」
「完全な再現は求めません」
エリアスは紙を指した。
「フォルティス中尉を呼ぶ前に、現場とオペレーターが一段判断できるようにします。直接入力者としてではなく、教育と聞き取りに入ってください」
「はい」
リュシアは今度は返事を返せた。
「はい。東区画、西区画、中央区画。可能であれば、工兵記録と合わせた撤退線、壁際中型混入、ブラインドフォグ軽度まで分けます」
リュシアは紙を見た。
自分が行けば早い。
自分が見れば、現場の迷いは減る。
だが、それを続ければ、現場もオペ室も、自分がいない時の迷い方を学べない。
「分かりました。協力します」
エリアスは、そこで一度だけ視線を上げた。
「ありがとうございます」
「礼を言われることですか」
「はい。損耗が増える可能性を理解したうえで、受けていただく要請です。簡単なことではありません」
リュシアは返答を止めた。
「私は、納得しているとは言えません」
「はい」
「ですが、理由は理解しました」
「それで十分です」
レナードが予定表を置いた。一回目から項目が並べられていた。
リュシアは椅子に座った。
「初回は、東第三哨戒線の件ですね」
「はい」
レナードが表を開いた。
「紙面上の条件では、平常線維持でした。壁上へ上がった後、追加で確認した項目をください」
「奥の重い反応の有無、小型のまとまり方、壁際到達までの帯の形成、風向き、視界、東側の処理余力です」
「順にお願いします」
リュシアは答えた。
奥に重い反応はなかった。
小型は散っていたが、帯にはならなかった。
風は弱く、霧は薄い。
壁上処理で足りる。
張り出しは不要。
答えながら、リュシアは自分の判断が紙に落ちていくのを見ていた。
今までは、自分が行けば終わっていた。
これからは、自分が行かないために、自分の判断を置いていく。
それが正しいことだとは分かっていた。
数日後、その差は記録に出た。
直接確認を止めてからも、しばらくは問題は起きなかった。
ただ、処理にかかる時間が少し伸び、壁の補修量が少し増えた。前衛兵が一人、腕を痛めて医務室へ回った。
大怪我ではなかったが、数日は戦線を外れることになった。
どれも平常運用の範囲内だった。
だからこそ、リュシアには処理しにくかった。
リュシアは補修場へ向かった。
北壁の内側で、工兵たちが割れ目に土材を詰めている。大きな破損ではない。だが、表面の傷は広かった。いつもなら壁際で止まる前に拾えたかもしれない反応だった。
自分が出たら防げたと思うのは傲慢だ。
だが、自分は出られた。
その事実が残る。
ダグラスが補強材を持って戻ってきた。
「フォルティス中尉」
「はい」
「見に来たのか」
「はい。補修量を確認しています」
「そうか」
ダグラスは壁の傷を見た。
「今日は悪い処理じゃねえよ」
「壁の補修量が増えています」
「増えたな。でも崩れてねえ」
「負傷者も出ています」
「出た。だが、隊が崩れたわけじゃねえ」
リュシアは黙った。
ダグラスは割れ目に土材を詰め、木槌で押さえた。
「あんたが出りゃ、もっと早く済んだかもしれねえ」
「はい」
「でも、防げたかどうかは分からねえ」
「はい」
「そこが嫌なんだろ」
リュシアは答えなかった。ダグラスは手を止めずに続けた。
「気にすんなとは言わねえよ。気にするに決まってる。あんたは、こっちの仕事を見に来てたんだから」
リュシアは顔を上げた。
「だが、全部あんたが先に塞ぐ話にはならねえ」
ダグラスは木槌を置いた。
「ここは俺らの持ち場だ。壁が傷めば直す。怪我人が出れば医務へ回す。腹は立つし、悔しい。だが、それを全部あんたに消してもらおうとは思わない」
「私は、出来たのにしなかったことは怠慢だと感じます」
「だろうな」
ダグラスは否定しなかった。
「でもよ、毎回いちばん早い札を切るのが、いつもベストとは限らねえ。あんたがいない時にどう保たせるかも、こっちの仕事だ」
リュシアは壁を見た。
補修は続いている。壁は崩れていない。負傷者は出たが、隊は崩れていない。
それは失敗ではなかった。
だが、自分が出られたことも事実だった。
ダグラスは再び木槌を取った。
「あんたが平気でいるわけじゃねえのは、こっちも見てる。だから、気にしてねえふりして、また一人で塞ぎに来るな」
リュシアは少しだけ黙った。
「分かりました」
補修場に木槌の音が戻った。
正しい運用だった。




