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96.傷跡


 結婚後も、リュシアは軍籍にあった。


 北方前線を離れた後は中央の戦略情報局に席を置き、北方で蓄積された冬季防衛記録を、王都で使える資料に直す仕事をしている。


 カラディン邸の文机には、北方の写しとカラディン領から届く報告書が並ぶようになった。

 カラディン侯爵側で判断し、必要なものはヴァレリオが確認していた。


 最初にヴァレリオが、君はどう思うと写しを見せた。


 リュシアは、備蓄量の書き方と、冬前の輸送予定の前提が合っていないことを指摘した。それは領地経営の判断ではなく、報告書として確認した方がよい差異だった。


 何度か同じことが続くうちに、カラディン侯爵からの写しが、ヴァレリオを経由せずリュシアの文机へ届くようになった。


 最終判断は侯爵側がする。ヴァレリオも目を通す。リュシアは、見落としやすい継ぎ目に印をつける。


 それだけだった。


 王太子の即位を前に、ヴァレリオは王太子府を離れにくくなっていた。

 帰宅の時間は日によって変わり、朝に出た話が夜には別の指示になっていることもあった。

 それでもヴァレリオは、表情を崩さず、食事も取り、必要な報告も欠かさなかった。


 一緒に暮らすようになって、リュシアはもう一つ分かった。


 ヴァレリオは、リュシアを扱う時は繊細なのに、自分の消耗は底に沈めておく男だった。

 表情は崩さないし声も荒げない。食事も取るし必要な報告も欠かさない。

 けれど、外套を外す手が一拍遅れる日がある。返事の前に、目を閉じる時間が少しだけ長い日がある。水を取る回数が増える日がある。


 リュシアは、それを見るようになった。


 その日の午後、カラディン領から届いた報告書を読み終えて、リュシアは顔を上げた。


「カラディン家の嫡男夫妻が、二人とも領地を離れている期間が長くなっています」


「そうだな」


「ヴァレリオが王都を離れることは、今は損失が大きいです。王太子府での役割は、カラディン領にとっても利益があります」


 ヴァレリオは否定しなかった。

 リュシアは、報告書を机に置いた。


「なので、私が先に領地へ入るのが最適です」


 ヴァレリオは、すぐには答えなかった。

 反論の沈黙ではない。リュシアの判断を疑っているわけでもない。

 ただ、別の何かを確認している顔だった。


「誰かに言われた?」


「いいえ」


「父から?」


「いいえ。侯爵閣下からは、確認用の写しをいただいているだけです」


「親戚筋は」


「直接は何もありません」


「なら、君の判断か」


「はい」


 ヴァレリオは、そこで少しだけ息を吐いた。


「君は、理があると思うと、自分の負荷を後ろに置く」


「その傾向はあります」


「そこも判断に入れてる?」


「入れています。護衛、同行する侍女、領地側の受け入れ、侯爵閣下と家令の判断範囲、私が確認する範囲。単独で処理するつもりはありません」


 ヴァレリオは、報告書へ視線を落とした。


「反対しにくいな」


「何か問題でも?」


「あるな」


「何ですか」


「俺が寂しい」


 正しい配置だった。必要なことだった。自分が行くのが最も効率的だった。

 それでも、胸の奥に静かに残るものがあった。


「……私も寂しいです」


 ヴァレリオは一瞬だけ目を伏せた。それから、息を抜くように笑った。


「よかった。俺だけじゃなくて」


 リュシアは少し考えた。


「ヴァレリオだけではありません」


「うん」


「ですが、問題なら対策が必要です」


「そう来るか」


「必要ではありませんか」


「必要だ」


 ヴァレリオは報告書を机に置いた。


「手紙を増やす。領地からの報告とは別に、君からも書いてほしい」


「分かりました」


「俺も書く。仕事の中身は書けないが、帰れているか、寝ているか、食べているかは書ける」


「それは必要です。私も書きます。領地のことと、私の状況を」


「それが一番効く」


「寂しさへの対策としてですか」


「そう」


「では、実施します」


「頼む」


 ヴァレリオは短く笑った。

 リュシアは、もう一度報告書を見た。


「行くのは、私が最適です」


「分かってる」


「では、先に行って、領地で確認します」


「頼もしいな」


「頼もしい方がよいですか」


「かなり」


「では、そうします」


 ヴァレリオが、報告書を閉じる。

 呟くように一言こぼした。


「無理はするなよ」


「あなたもです」


 リュシアが即答すると、ヴァレリオは一拍置いて笑った。


「そうだな」


「はい」


「俺も気をつける」


「私も気をつけます」






 夜更け、部屋は静かだった。


 リュシアは、乱れた呼吸が戻っていくのを待っていた。初めての夜ほど混乱してはいない。けれど、身体が頭より先に反応することには、まだ完全には慣れなかった。

 ヴァレリオの手が、肩から腕へ移った。

 そこで、少しだけ止まった。

 古い傷の上だった。

 初めて見た傷ではない。ヴァレリオはもう、リュシアの身体のいくつもの傷を知っているはずだった。

 ヴァレリオはすぐに傷跡をなぞらなかった。まず、傷の周りに触れた。痛みの有無を調べる手ではなかった。可動域を確かめる手でも、前線に戻れるかどうかを判断する手でもなかった。

 リュシアは、その手を見ていた。

 ヴァレリオの指が、ゆっくり傷跡の上を通った。


「痛むか」


「痛みません」


 ヴァレリオの手は止まらなかった。

 リュシアは、息を止めていないか確認した。

 止めていなかった。

 ヴァレリオは無言でただ傷跡を撫でていた。


 昼間、寂しいと言った。


 リュシアも寂しいと分かった。


 その感覚と、今、傷跡に触れている手は、別のものではなかった。

 役に立つかどうかではない。

 正しい配置かどうかでもない。

 そこにあるものを、失くしたくないと思うこと。

 役に立つことをやめるわけではない。

 けれど、この身体は、役に立つためだけのものではなかった。


 ヴァレリオの手が、もう一度だけ傷跡の上を通った。


 リュシアはその手に自分の手を重ねた。


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― 新着の感想 ―
素晴らしい作品をありがとうございます。 アスペルガー傾向のある女性の成長が軍務とともに表されていて、読み応えがありました。
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