83.平常通り
四月の終わり、北壁の外はよく見えた。
霧は薄い。索敵に乗る反応も軽かった。小型の散発と、中型を一、二体含む群れ。冬なら、記録の端に押し込まれる程度の反応だった。
平年並み。
その言葉が、壁上でもオペ室でも使われるようになっていた。
その日の中央第三中隊の壁上は、イアン・メルロー准尉、ダリル・ケイン曹長、そして復帰未定のグレン・フォスター軍曹の代替枠に入ったリュシア。ハワードは補助として後方に立っていた。
ハワードが右手側の壁外を見ていた。
「中央正面、小型四。距離二百」
「確認しました」
リュシアは索敵を短く張った。小型四。後続なし。壁際に寄る前に、イアンの炎で処理できる。
通常の仕事だった。
そう判断した直後、リンクが入った。
「中央第三中隊、応答願います。東区画より確認要請。小波の流入角が読みにくいとのことです。フォルティス中尉に、五分だけ索敵確認をお願いできますか」
ハワードの横顔が、わずかに硬くなった。
「東は自区画で見えないのか」
リンクの向こうで、少し間があった。
「見えています。ただ、冬季張り出し線の戻し幅について、現場判断が割れています」
「現場判断が割れてるなら、東の班長が決めろ」
「東班長からの要請です。フォルティス中尉の昨年冬の索敵記録と照合したいと」
ハワードは黙った。
中央正面の小型四は、まだ距離がある。中型は見えない。グレンがいれば、ハワードは迷わなかったかもしれない。リュシアが抜けても、機動火力の穴を一時的に埋められた。
だが、グレンはいない。
ハワードは短く息を吐いた。
「フォルティス中尉」
「はい」
「東へ行け。索敵確認だけだ。火力支援はするな。五分で戻れ」
「了解しました」
リュシアは壁上を離れた。
東区画へ移動する途中、伝令が先導についた。走るほどではない。だが、歩いてよい速度でもなかった。
東区画の壁上では、小型の群れが斜めに寄っていた。数は多くない。中型が一体、その後ろにいる。崩れる規模ではない。だが、哨戒線が冬季の張り出しを残したままになっているせいで、壁上の視線と索敵範囲に妙なずれが出ていた。
東区画の魔法騎士班長が、表を持って待っていた。
「フォルティス中尉、すまない。ここだ」
リュシアは表を見た。
第三哨戒線。冬季暫定位置。平常線より外へ出ている。
「この線を維持している理由は」
「昨年冬、この形で損耗が減った。小型の寄りが早く見える」
「補助索敵前提ですか」
東班長は一瞬だけ詰まった。
「昨年は、そうだった」
「現在の補助索敵担当は」
「固定はない。必要時に上げる」
「必要時とは」
「反応が割れた時だ」
リュシアは壁外を見た。
小型は斜めに流れている。東から中央へ押し込む形ではない。むしろ、壁際で一度膨らみ、東の張り出し線に引っかかっている。
索敵を伸ばした。
小型十数。中型一。後続は薄い。だが、張り出し線を維持するなら、中型が見える前に一度引く必要がある。冬なら、リュシアかオペ室の深部確認がそこを補っていた。今は補っていない。
「このまま張り出し線を維持すると、中型の接近時に撤退判断が遅れます」
「今の群れなら、持つと思うが」
「今の群れなら持ちます。ですが、その判断は、私がここで深部を確認しているため成立しています」
東班長は黙った。
リュシアは続けた。
「補助索敵なしで維持するなら、撤退基準を内側に置く必要があります。中型が距離三百に入った時点で平常線まで戻す。あるいは、張り出しをやめるべきです」
「今は」
「今は平常線へ戻してください。小型の処理は、壁際で足ります。中型は東正面ではなく、少し中央寄りに流れます」
「中央寄り?」
「はい。現在の角度なら、中央東端に触れます。東で追うより、中央へ連絡した方が早いです」
東班長が伝令を振り向いた。
「中央東端へ連絡。中型一、そちらへ流れる」
伝令が走った。
東区画の壁上が動く。張り出していた兵が平常線まで戻り、魔法騎士の位置も半歩下がる。小型は予定通り壁際へ寄った。処理は速かった。中型は東正面には当たらず、中央東端へ流れた。
リュシアは索敵を切った。
「確認終了。東区画は平常線で処理可能です」
「助かった」
「いえ」
礼を受ける理由はなかった。必要な確認をしただけだった。
リュシアは中央区画へ戻った。
戻る途中で、壁上から短い怒声が聞こえた。
「左寄れ! 壁際にもう一体だ」
中央東端。先ほど流れた中型が、予定より少し早く壁際へ寄っていた。
リュシアが中央第三中隊の持ち場へ戻った時、中型はすでに落ちていた。だが、ダリルの呼吸は荒く、イアンが炎を収めるのが一拍遅れた。
「お帰りなさい。東は平和になりましたか」
「平常線で処理可能です」
「それは何より」
イアンの声は軽かったが、笑ってはいなかった。
ハワードがリュシアを見た。
「五分で戻れと言ったが」
「移動を含めて十二分です」
「そうか」
それだけだった。
中央東端の中型は落ちていた。負傷者は出ていない。だが、処理は少し遅れた。グレンがいれば、中央東端へ先に入って足を止められたかもしれない。リュシアが残っていれば、角度を先に拾えていたかもしれない。
どちらも仮定だった。
結果として、東区画の負傷者は出なかった。中央第三中隊も崩れていない。魔力消費も許容範囲内。
数字だけ見れば、問題はない。
ダリルが壁の向こうを見ながら低く言った。
「東は助かったんでしょうね」
誰も返事をしなかった。
リュシアは、壁外に残る反応を確認した。小型二。距離百八十。中央へ来る前に落とせる。
「小型二、正面。距離百八十」
「イアン」
「はいよ」
炎が走った。
小波は、昼前には収まった。
午後、リュシアは班の記録をまとめた。東区画支援。索敵確認。第三哨戒線は平常線復帰を推奨。中型一、中央東端へ流入。中央第三中隊で処理。負傷者なし。
そこまで書いて、ペンを止めた。
負傷者なし。
その一行は正しい。
だが、グレンの不在はどこにも出てこない。リュシアが東へ移動した十二分も、結果の欄には出てこない。中央東端の処理がわずかに遅れたことも、負傷者が出なければ記録上は誤差になる。
リュシアが区画外確認に入れば、東区画の損耗は減る。
その間、第三中隊の穴は薄くなる。
それでも崩れなければ、数字上は回っていることになる。
夕方、ハワードへ記録を提出した。
ハワードは一読して、表情を変えなかった。
「よくまとまっている」
「はい」
「東区画の平常線復帰は上げる」
「お願いします」
ハワードは紙を閉じた。
「フォスターの件も、また上げる」
リュシアは顔を上げた。
「補充申請ですか」
「そうだ」
「今日の記録では、補充の必要性は強く出ません」
「分かっている」
ハワードの声は低かった。
「だから厄介なんだ」
リュシアは黙った。
ハワードは紙を机に置いた。
「お前が悪いわけじゃない。東に行けば東の負傷者は減る。呼ぶ側の理屈も分かる。だが、お前が動けば、うちの穴は穴として見えにくくなる」
それは、リュシアも同じことを考えていた。
「私の補助が、欠員の影響を数字上小さく見せています」
「そういうことだ」
「では、区画外支援を断るべきですか」
「それを言えれば楽なんだがな」
ハワードは短く息を吐いた。
「今日の東みたいな場面で、お前を出さなければ東の負傷者が増えるかもしれない。出せば、うちは薄くなる。どちらも間違いではない。だから上が都合よく見る」
リュシアは理解した。
間違った判断が続いているのではない。
正しい判断が、別の場所の不足を隠している。
その日の夜、手帳を開いた。
四月二十七日。
東区画小波。第三哨戒線、平常線復帰を推奨。
中央東端、中型一。処理遅延軽微。負傷者なし。
フォスター軍曹不在による機動火力不足、記録上は顕在化せず。
そこでペンを止めた。
負傷者がいないなら、数字は悪化していない。
数字が悪化していないなら、穴は小さく見える。
リュシアはその行を見つめた。
そして、手帳を閉じた。




