81.糸くず
第三波が収まってから、砦は静かだった。
静かといっても、仕事がないわけではなかった。壁の補修、死骸の処理、負傷者の後送、補給の再編。だが、壁外の反応は日ごとに薄くなっていった。索敵を広げても、小型の散発が残るだけだった。
臨時派遣団の撤収は段階的に進んでいたが、ヴァレリオは最後まで残っていた。第三波の事後処理と、王太子府への報告の取りまとめ。
出発の前日、ハワードから伝えられた。
「カラディン大尉が、事後報告の聞き取りをしたいそうだ」
「了解しました」
指定された部屋は小さな会議室だった。入口に副官が立っていた。中にヴァレリオと記録係の書記がいた。ヴァレリオは書板と紙を広げて、椅子に座っていた。
「座ってくれ」
リュシアは座った。
聞き取りは事務的だった。遊撃出撃の回数、索敵の範囲と精度、核撃破の詳細、帰投時の判断、魔力消費の見積もりと実績の差異。ヴァレリオは一つずつ確認し、紙に書き留めていった。リュシアは聞かれたことに答えた。
「第三波の核撃破時、残魔力の見積もりは正確だったか」
「はい。枯渇は起こしていません」
書記の筆が紙を走る。
ヴァレリオは次の項目へ移った。
「医務室に運ばれた後、一時間ほど休止。その後、北壁正面へ限定復帰。復帰時の運用は、近距離索敵、壁際の中型確認、必要時の単発雷撃。広域索敵および連続火力運用は行っていない」
「はい」
「復帰判断はベイル大尉からの要請。治癒魔法士は限定運用を条件に許可。相違は?」
「ありません」
リュシアは淡々と答えた。
事実確認だった。戦場では、後から残るのは事実である。どの時刻に誰が何を見て、誰が何を許可し、どの条件で動いたか。それが曖昧になると、次の判断に使えない。
聞き取りは三十分ほどで終わった。ヴァレリオが紙を揃えて書板に挟む。
「以上だ」
「はい」
リュシアが立ち上がろうとしたところで、ヴァレリオが言った。
「フォルティス中尉。王都側から不審な接触があった場合は、こちらへ回せ」
ヴァレリオは書板の端から、小さな紙片を一枚取った。
「連絡先だ。以前渡したものと同じ経路で届く」
リュシアは紙片を受け取った。
「では、何かあれば大尉へ連絡すればよろしいんですね」
ヴァレリオは一瞬だけ黙った。
「したことはなかったな」
「必要がありませんでした」
「今回は、必要か迷った時点で送れ」
「了解しました」
リュシアは紙片を内ポケットにしまって立ち上がった。
その時、ヴァレリオがふと視線を止めた。
「フォルティス中尉」
「はい」
「肩に糸がついている」
リュシアは自分の肩を見ようとした。
だが、階級章の後ろ側に引っかかっているのか、目では確認できなかった。
「どこですか」
「少し後ろだ」
それだけ言って、ヴァレリオは机を回り込んだ。
距離が近づく。
リュシアは動かなかった。動く必要があるかどうかを判断する前に、ヴァレリオの指先が肩先に触れた。
ほんの一瞬だった。
布地に触れ、糸くずを摘まみ、離れる。ただそれだけの動きだった。けれど、肩先に触れられた瞬間、リュシアの身体は小さく跳ねた。
ヴァレリオの手が止まる。
「すまない」
「いえ」
リュシアは首を横に振った。
「驚いただけです」
ヴァレリオは摘まんだ糸を、書板の端へ落とした。
リュシアを見る表情は大きく変わらない。だが、いつもの公務の顔より、少しだけ静かだった。
「君は今、見られている」
それから、一拍間を置いて言った。
「正式な功労発表はまだだが、王都にはもう話が流れている。北方で、公爵令嬢が遊撃に出て大型を落としたと」
「不正確です」
「不正確なものほど使いやすい。利用しようとする人間が出る。名前を使いたがる人間が寄ってくる」
リュシアは頷いた。意味はわかった。だが、自分が利用される道筋を具体的には思いつかなかった。
「了解しました」
「わかってないだろう」
「はい」
ヴァレリオが言うのだからそうなんだろうと思っただけだ。だがヴァレリオは一瞬だけ、息が抜けるように笑った。
「君が注意するだけでは足りない。こちらも処理する」
「王太子府が、ですか」
「俺が見ている範囲では、俺が処理する」
書記の筆の音がわずかに遅れた。
ヴァレリオはそこで一歩下がった。距離が戻る。
それだけで、公務の場に戻った。
「以上だ。戻って休め」
「はい」
リュシアは敬礼した。
ヴァレリオが応じる。副官と書記も立ち上がる。扉が開き、廊下の冷たい空気が入った。
小会議室を出る時、リュシアは一度だけ肩先に意識を向けた。
痛みはない。
糸くずもない。
触れられた感覚だけが、なぜか消えずに残っていた。




