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80.壁鳴り


 医務室へ運ばれた時、リュシアの唇はまだ白かった。


 寝台に下ろされる。外套を剥がされ、毛布を掛けられ、温い湯を入れた金属杯を持たされた。治癒魔法士が瞳孔と脈を見て、衛生兵が手早く指先の冷えを確かめる。


「指、動かせますか」


 頷いて杯を持たない方の指をゆっくりと動かした。感覚もある。残り魔力はわずかではあったが、確実に残っている。


 その後は、ほとんど喋らなかった。


 湯を飲まされる。もう一杯飲まされる。毛布の上からさらに厚手の外套を掛けられる。休めと言われたので、目を閉じた。眠ったのかどうかは分からない。ただ、身体の内側の空虚が少しだけ薄くなる感覚はあった。


 主波が本格接触したのはしばらく後だった。


 最初に聞こえたのは壁鳴りの音だった。低い、腹に来る音が床を通して響く。医務室の天板がわずかに震え、吊るされた器具が鳴った。


 寝台の周りにいた兵たちの顔が一斉に上がる。


 次の瞬間、伝令が駆け込んできた。


「フォルティス中尉。ベイル大尉が、動けるなら戻れと」


 リュシアは起き上がった。頭はまだ少し重い。だが視界は安定している。手足の先に力が入る。


「動けます」


 治癒魔法士が顔をしかめる。


「確認させてください」


 魔力測定器の値を見て、治癒魔法士がため息をついた。


「壁上の限定運用だけです。索敵のみか、撃つなら中型が限度です」


 リュシアは頷いた。


「了解しました」


 毛布を外す。立ち上がる。足はまだ少し重いが、崩れない。医務室を出る直前、治癒魔法士が短く念を押した。


「少しでもおかしいと思ったら一度止まってください」


「はい、必ず止まります」


 そう返して、壁上へ向かった。


 北壁へ上がる階段の途中で、もう空気が違った。兵が下りてこない。工兵が補修材を担いで上がっていく。土魔法士が無言で前へ走る。足元の石がまた一度、低く鳴った。


 壁の上から見る景色は、今までで一番の大波だった。


 思わず索敵を張ろうとして止める。濃いフォグの中でも分かる。小型が壁際に群がり、中型がその後ろを押している。いつものように帯ではない。奥まで見切れないほど重なっている。そのさらに先、霧の薄い切れ目から、灰色の巨体が見えた。


 巨牙獣だった。


 巨大な体躯で、頭を低くして壁へ向かってくる。

 ハワードとベン、北寄りの土魔法士たちは既に壁へ魔力を流し込んでいた。石壁の補修痕が鈍く光り、工兵が未補修箇所へ土嚢を押し込む。


 ちょうど二度目の突進の直前だった。


「フォルティス中尉、戻れたか」


 ハワードが振り向きもせず言う。


「はい」


「広くは見るな。北壁の前だけでいい。巨獣の寄りと、壁際に回る中型だけ拾え」


「了解しました」


 リンクを繋ぐ。向こうの声はエリアスだった。


「フォルティス中尉。近距離だけで結構です。北壁正面の接近速度と、壁際に回り込む中型を優先してください」


「了解」


 索敵を広げない。細く、短く、北壁前面の百メートルだけを読む。できた。戻っている。遊撃の時のように遠くまでは届かないが、足元の危険を拾うには充分だった。


「正面、巨牙獣接近。三十で再突進。右壁際に中型二、回ります」


「右、寄せろ」


 ハワードの声で歩兵が動く。ベンが壁へ流す魔力をさらに厚くする。工兵が身を低くする。


 巨牙獣が来た。


 壁全体が鳴る。衝突というより、要塞の骨が軋むような音だった。兵が膝を折り、工兵の土嚢が跳ねる。だが壁は割れない。


 その衝撃で、右壁際の中型が一気に前へ出た。


「右、中型二、距離十」


「見えてる。中尉、切れるか」


 ハワードの問いに、リュシアは残量を一度だけ確かめた。


 連続は無理だ。だが一体なら通る。


「一度なら」


「やれ」


 雷撃を切る。中型のうち一体の核だけを穿つ。落ちる。もう一体をイアンの炎が叩く。


 そこで止める。追わない。追えば次が切れなくなる。


 リンクの向こうでエリアスが短く言う。


「十分です。次を拾ってください」


「了解しました」


 また短く読む。壁の前だけ。巨獣の寄りだけ。回り込む中型だけ。


 それでも、充分だった。


 巨牙獣が三度目の突進に入ろうとした時、リュシアは低く言った。


「左前脚、少し浮いています。次は右へ流れます」


「ベン」


 ハワードが叫ぶ。ベンが壁へ流す魔力の向きをずらす。工兵が右側の補修線へ集まる。巨牙獣は真正面ではなく、わずかに右へ逸れてぶつかった。さっきより衝撃が薄い。


 壁は鳴ったが、折れなかった。


 北壁の兵たちが息を吐く間もなく、また次が来る。リュシアは索敵を維持した。頭が重い。視界の端が少し白い。それでも、まだ魔力は残っている。


 大物を落とした時のような魔力は今はない。だがそれでよかった。今必要なのは、百メートル先の危険を拾い、壁の足りない一瞬を埋めることだった。


 主波は長く続いた。


 巨牙獣がようやく崩れた時、壁上の誰も歓声を上げなかった。土魔法士はまだ壁に魔力を流し、工兵は崩れた補修線を押さえ、歩兵は次の群れを見ていた。

 誰か一人が落としたのではない。

 砦が、押し返した。

 壁鳴りが止んだ時、リュシアはその場で一度だけ膝をついた。


 今度は自分で立ち上がれた。


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