79.主波
第三波は、まだ来ていなかった、はずだった。
だが、来ていないと言い切るには、壁外の出方はおかしかった。
夜明けから、小規模な群れが途切れない。小型だけならただの散発で済む。だが今日は、その後ろに中型が混じる。厚みはない。壁に押し寄せるにはまだ足りない。けれど、切れずに続いている。
波と呼ぶには薄い。だが、ただの群れではなかった。
東区の補助観測点で索敵を広げながら、リュシアはその増え方を見ていた。南西から北西にかけて、小型の群れの反応が細く重なっている。その奥に、中型の反応が点ではなく塊で混じっていた。
このまま大波になる。
そう思った時、北北東の奥に、さらに重い反応が引っかかった。
大きい。ただ大きいだけではない。動きのある群れの芯に位置が近い。
朝の霧は珍しく薄い。完全には晴れていないが、壁上から探れる距離はいつもより長い。次も同じ条件になる保証はなかった。
このままだと大波を壁で受けることになる。遊撃を出すなら、今が最後だと分かった。
リュシアはリンクを繋いだまま報告を上げる。
「北北東、推定千六百。中型群後方に大型一。周辺に小型多数。波前の核と見ます」
リンクの向こうで数秒の沈黙があった。壁上の迎撃、他区画の反応、遊撃の距離、帰投路。全部を並べている沈黙だった。
「遊撃を出します」
エリアスの声が返ってきた。すぐ後に、別の声が重なった。遊撃隊長のダンカン・ロウだった。
「戻れますか」
「主波が乗る前なら」
短いやり取りのあと、人が動き始めた。
リュシアも呼ばれて向かった。
ダンカンが遊撃班を集め、地図の上に指を置く。
「目標は北北東の核だ。中型の外殻を抜いて大型を叩く。フォルティス中尉は索敵と火力。帰投路は俺が見る。途中接敵は最小限。削れる分だけ削って戻る」
そこで一度、リュシアを見た。
「深追いはしない。帰投が最優先だ」
「はい」
外門が開いた。
壁の外は、いつもの冬より少しだけ遠くまで見えた。その代わり、見えている分だけ数も分かった。小型の群れが、散発ではなく細い帯で重なっている。壁へ向かう流れそのものが、既に太かった。
先頭近くを走る隊士が低く言う。
「こんなにいても大波ではないんですよね」
「はい」
返した直後、右から小型が一体飛び出した。ダンカンが振り払う。止まらず進む。今回はそれの繰り返しだった。
途中で三度、短い接敵があった。どれも長引かせなければ処理できる規模だったが、長引かせないために火力を切る必要があった。リュシアは二度、索敵を切って撃った。削った分だけ魔獣量は確かに減っている。だが減らしながら進んでも、奥の大きな反応はまだ見えていた。
リンクの向こうでエリアスが言う。
「北側の間隙、縮み始めています。二十分以内です」
ダンカンが手を上げた。
「走る。フォルティス中尉、左右」
「はい」
索敵を前へ細く伸ばし、左右の中型の戻りを読む。左が遅い。右が速い。
「右の戻りが早いです。左を寄ります」
「寄れ」
遊撃班が一気に角度を変える。中型の隙間を抜ける。反応が近い。谷底の窪みへ入った瞬間、奥の大物の輪郭がはっきりした。
大きいがそれだけではなかった。
第二波までの大型とは重さが違う。壁まで届けば、それだけで前線の処理順を狂わせるタイプの魔獣だった。
「足は止める。中尉、核を落とし切れるか」
胸の前面を硬い外殻が覆っている。索敵を通すと、その奥に核の反応があった。深い。正面から撃てば落とせるかもしれないが、消費が大きい。帰りの索敵の魔力すら残らない。だがゼロにはならないとリュシアは残量を確認して結論づける。
「核を露出してもらえば落とせます。ただ帰投中広域索敵を維持できません」
「どこまでならできる」
「壁までの導線確認だけであれば魔力切れは起こしません」
ダンカンがリンクに上げる。
「オペ室。撃破は可能。ただし帰投中、フォルティス中尉の索敵は切れます。判断を」
少し間があって、エリアスの声。
「フォルティス中尉。魔力切れは起こしませんか」
「起こしません。帰投中の索敵は切れますが、制御は保てます」
「帰投路は壁上から開けます。撃破を優先してください」
「……了解。核を落としたら即反転だ」
ダンカンは低く唸るように呟いた。
「フォルティス中尉、核はどこだ」
「胸郭の奥です。正面は厚みがあります」
ダンカンが頷いた。
「核は出す。中尉はまだ撃つな」
遊撃班が左右に散った。盾持ちが正面を引き受ける。大型が前肢を振り下ろした。石と土が跳ねる。その横でダンカンが踏み込み、短槍を左前脚の内側に差し入れて捻った。体勢がわずかに崩れる。
別の兵がすでにできていた裂け目に鉤を掛け、二人がかりで引いた。外殻の継ぎ目がきしむ。開ききらない。だが十分だった。
「見えたか」
「はい。通ります」
リュシアは索敵を一点に絞った。広げない。散らさない。核までの最短だけを取る。雷を針のように細く圧縮して、開いた隙間へ撃ち込む。
音は一度しかしなかった。
雷は外殻に散らず、そのまま奥へ通った。次の瞬間、大型の反応が内側から崩れた。
巨体が傾ぐ。
ダンカンが即座に振り返る。
「帰る。中尉、索敵はできるか」
「可能です。帰投路、南西に開いています」
帰りは、行きより長かった。
後方の中型が詰めてくる。前方は完全には空いていない。小型が散っている。隊士が一体の進路を変え、別の隊士がもう一体を押し返す。リュシアは最小限の魔力で索敵を維持したまま、走り続ける。足元がふらついて遅れそうになるのを、誰かが腕を引いてくれる。
「後方中型、距離二百五十」
「前方小型三。右へ抜けられます」
「南西壁まで六百」
エリアスの声が入る。
「南西壁区、帰投路を開けます。迎撃を十五秒止めてください」
壁上の迎撃を止めて五人の戻りを通す。その十五秒で何が壁に届くかまで含めた判断だった。
壁が見えた時、リュシアは自分の足に力が入らないことに気づいた。前へは出るが、反応が鈍い。唇の内側が乾き、指先の感覚が薄い。残量はわずかに残っているはずだが索敵は切った。
「中尉」
誰かが呼んだ。振り向く余裕はない。
外門の内側へ滑り込んだところで、そこでようやく脚が止まった。
止まったというより、止まってしまった。
腕を引いてくれた前線兵が肩を抱える。
「歩けますか」
答えようとして、声が出なかった。頷く。だが次の一歩が出ない。
「抱えます」
拒否する前に、身体が軽く持ち上がった。視界が揺れる。石壁と外門の天井が交互に見える。
「大型は落ちたのか」
「落ちました」
「全員戻ったか」
「戻りました」
会話だけが耳に入る。
外門脇にヴァレリオが立っていた。地味な外套のまま、抱えられて戻ってきたリュシアを見た瞬間に近寄ってきた。
表情は読めない。だが何かを言おうとしていることは分かった。
「魔力切れは起こしていません」
自分の耳にすら届かないほどに小さく掠れた声だった。
ヴァレリオは一瞬だけ止まった後、視線を外した。
「……医務室へ、急げ」
背を向けたヴァレリオの表情はリュシアにはもう分からなかった。




