78.可逆
第二波の後、大きな波は来ていなかった。だが薄い波は続いていた。週に二度、三度と壁に届く群れを捌き続ける。大きく崩れることはない代わりに、どこも少しずつ消耗していった。
その日の小波は、第三中隊の担当区画に小型の群れが正面から入ってくる、よくある形だった。壁上に魔法騎士班が並ぶ。イアン、ベン、グレン、リュシア。グレンは中央の前寄りに立ち、機動火力として左右に動く位置を取っていた。
索敵を流す。小型と中型が入り混じっていたが規模としては小さい。通常なら問題なく処理できる。
「右寄り、小型四。距離三百。接近中」
グレンが右に動いた。いつもの動き出しだった。リュシアは左寄りの群れに集中しながら、視界の端でグレンの位置を追っていた。
小型が壁に取り付いた。グレンが撃つ。一体目は落ちた。二体目に向きを変える。
そこで、一瞬だけ間が空いた。
グレンの手が遅れた。向きを変えてから一拍、止まった。
その一拍で、三体目の小型が壁の縁を越えた。盾兵の盾が小型を掠めたが動きは止まらない。
グレンの横を抜けて、壁上に入った小型が跳んだ。グレンは反応した。したが、遅かった。身体を捻って避けようとした動きの途中で、前肢が右肩を抉った。
グレンが崩れた。
リュシアは左の群れを撃ち切ってから振り向いた。イアンの炎が走り小型を焼き切る。盾兵がグレンを壁の内側へ引きずった。
血が壁の石の上に線を引いていた。
リュシアはグレンの倒れた位置に移動して、右寄りの迎撃を引き継いだ。1時間ほどして波は終わった。
グレンは重症だった。骨ではないが、筋と腱を深くやっているらしいと後で聞いた。前線復帰は未定だった。
それで終わらなかった。
機動火力の穴は、すぐに運用へ出た。埋める人間が必要で、埋められる人間は限られていた。リュシアはその限られている側に入っていた。
その日の午後、東区画寄りの小波で呼ばれた時にも、もう誰も説明はしなかった。呼ばれれば行くものだと、現場の空気が先に理解していた。
壁上へ出る。
反応は薄い。だが、薄いまま連続している。こういう時が一番面倒だった。火力を切りすぎると無駄になる。温存しすぎると壁に届く。中型が一体でも混じれば、前線兵の損耗が増える。
リンクの向こうで、エリアスの声はいつも通り短かった。
「東二区画、右寄りを薄くします。フォルティス中尉、外縁を拾ってください」
「了解」
索敵を広げる。南東寄りの帯に、小型の群れ。その後ろに中型一。さらに離れてもう一つ、小型の塊。壁上の火線をずらせば間に合う。そう判断して上げた。
「南東、距離三百に小型。後方四百五十に中型一。さらに後方に小型群」
「受領。中型を先に落とします」
東区画の火力が動き、第一射が入る。中型は崩れなかった。前へ出る。リュシアは位置を半歩変え、二射目を撃った。今度は落ちる。
そこまでは、いつも通りだった。
問題は、その直後だった。
後方にいたはずの小型群の一部が、予想より早く壁際へ回り込んだ。歩兵の列が半歩だけ乱れる。リュシアは索敵を切り、手近な角度から落としに入った。二体、三体。最後の一体が壁際まで届きかける。撃ち落とした時、跳ねた石片か爪か、何かが右前腕を浅く裂いた。
熱い、と思った時にはもう遅い。血が流れていた。
「フォルティス中尉、後退」
東区画の班長格が短く言う。リュシアは一歩だけ下がった。傷は深くはない。腕も手も動く。索敵にも支障はなかった。
「軽傷です。続行できます」
「続行は後で決める。とりあえず止血しろ」
衛生兵が駆け寄り、前腕を布で締める。その間にもリンクは切らない。小波はまだ終わっていなかった。
結局、その波はすぐに収まった。だが、終わった後も壁上の空気は軽くならない。誰もが次を前提に動いていた。
リュシアはそのまま医務室へ回された。
医務室は混んでいた。小波のたびに軽傷者が溜まる。サイモンが奥で重傷者を診ていた。衛生兵が走り回っている。
リュシアは受付で名前を書いて、壁際で待った。待っている間、戸口で軽傷の兵が立ったまま順番を待っていた。包帯が足りていない兵がいた。止血が不十分な兵がいた。
リュシアは立ち上がって、名前の確認と誘導を始めた。歩ける者を壁際に座らせ、止血が必要な者を優先的に衛生兵に回す。手が空いていて、やり方は知っていた。
「中尉、すみません。今診ます」
衛生兵が患者の処置中に声をかける。手が離せないのは一目でわかる。
「構いません。軽症です」
「……助かります。終わったらすぐ行きます」
受付待ちの列がなくなったので、包帯の仕分けを手伝い、使用済みの器具を片付けた。治癒魔法士に診てもらう頃には出血は完全に止まっていた。
温い湯で傷口を軽く洗い流し、創部を確認してもらう。
「治せます。たた、自然治癒でも治ります。表面だけの傷ではないので、今夜も出るなら使った方が無難です」
「治るなら必要ありません」
出血は完全に止まっている。動きに支障はない。治癒魔法の必要性は感じなかった。
「では巻きます」
治癒魔法士に包帯を巻かれていると、壁際に立つ人影が目に入った。
地味な外套を羽織っていても、目立たない男ではない。
それなのに、リュシアはその時までヴァレリオに気づかなかった。
「なぜ治癒魔法を受けない」
ヴァレリオは真っ直ぐに近づいてきて言った。
リュシアは少しだけ考えた。なぜここにいるのかより先に、質問の意図を考える。
「この程度で治癒魔法を使うのは浪費です」
ヴァレリオがもう一歩だけ近づく。
「理屈はわかる」
「では問題ありません」
「問題はある」
声は低かったが荒れてはいない。
「君が倒れた場合の損害は、治癒魔法一つでは釣り合わない」
リュシアは包帯を押さえたまま、ヴァレリオの顔を見た。表情は読めない。
「必要なら受けますが、この程度では倒れません」
「倒れないうちに受けろと言っている」
一瞬だけ、言い方が強かった。だが次にはもう戻っていた。
「王太子府の一員として言う。君は今、前線の個人戦力ではなく、砦全体の損耗率に影響する。管理は個人の感覚に任せない」
理屈としては通っていた。
通っていたので、リュシアは反論を一つ失った。
「王太子府の判断ということですか」
「ああ」
ヴァレリオは目を逸らさなかった。
治癒魔法士が気まずそうに視線を下げていた。リュシアは向き直って頭を下げる。
「わかりました。治癒魔法をお願いします」
そう言うと、治癒魔法士はほっとしたように包帯を緩めた。
軽い治癒魔法だった。傷口の熱が引き、裂けた皮膚が閉じる。痕は残るだろうが、少なくともこの冬の運用に支障はない。
ヴァレリオはその間、何も言わなかった。
終わってからも、すぐには去らなかった。だが次の言葉は出てこない。
リュシアは立ち上がる。
「お手数をかけました」
「それは医療兵に言ってくれ」
「はい」
そこで会話は切れてもよかった。だが、ヴァレリオは医務室の喧騒を一度見回してから、静かに言った。
「君は、これが普通だと思っているのか」
問いというより、確認に近い声だった。
リュシアはこれ、の意味するところを少しだけ考えた。
「可逆であれば問題ないと思っています」
ヴァレリオはすぐには返事をしなかった。やがて短く息を吐く。
「そうか」
それだけだった。
リュシアは会釈して医務室を出た。外はもう薄暗い。次の小波は、明日かもしれないし夜かもしれない。今はまだ静かだった。
夜、手帳を開く。
十二月。小波対応。
東二区画支援。中型一。小型複数。
右前腕裂創。治癒魔法処置あり。
カラディン大尉、治癒魔法を受けろと言った。
そこまで書いて、少し止まる。
それ以上は書かなかった。




