77.反復
第二波が終わった翌日、リュシアは索敵任務を終え食堂に向かった。
昼食には遅い時間帯で、人はまばらだった。
食堂の端に、オペ室の観測係、エミル・ハーゲン伍長が座っていた。
卓の上には、冷めたスープの器と、半分だけ残った黒パンが置かれていた。エミルは匙を持ったまま、窓の外を見ていた。
リュシアは足を止めた。
「ハーゲン伍長」
反応が、少し遅れた。
エミルは顔を上げた。目の下に濃い影がある。頬がこけたというほどではないが、普段より輪郭がぼやけて見えた。
「フォルティス中尉」
「どうかしたんですか」
エミルは匙を見た。自分がまだそれを握っていたことに、今気づいたようだった。
それから、小さく笑った。
「俺、ハーウッド中尉が来た時、すげえのが来たなって思ったんです」
独り言のような話し方だった。リュシアは黙って聞いていた。
「本当に、すごかったんですよ。見てる場所が違う。拾う数字も違う。前線の動きが変わるのも早い。ああ、これで少し楽になるんじゃないかって思いました。たぶん、俺だけじゃないです」
エミルの指が、匙の柄をゆっくり押した。
「実際は、逆でした」
声は平らだった。
「仕事が増えたんです。読みも、記録も、確認も、全部細かくなった。前なら流していた反応も拾う。前なら翌日に回した照合も、その日のうちに潰す。変化が出たらすぐ共有する。共有したら、次は前線から返ってくる。返ってきたものをまた数字にする」
リュシアは頷いた。
それは、覚えがある。リュシアが出した現場側の報告も、何度も戦略情報室に戻っていた。
「でも、数字は良くなったんです」
エミルは窓の外を見たまま言った。
「誤射が減った。空振りが減った。無駄な移動が減った。前線の損耗も減った。だから、誰も間違ってないんです」
「はい」
「レナードさんもメイフィールド曹長も、それを分かってる。きつくても、数字が良くなるならやる。前線が落ちるよりましだって。その通りだと思います」
エミルはそこで一度、言葉を切った。
「みんな、戻ってくるんです」
声が少しだけ小さくなった。
「レナードさんも曹長もみんなも、無茶だって言いながら絶対戻ってくるんです」
匙が、器の縁に小さく当たった。
「俺も、戻れるふりをしてました。少し寝て、食べて、シャワー浴びて、またやるぞって」
リュシアは返す言葉を探したが見つからなかった。
「でも、昨日から戻らないんです。数字を見ているのに遅れる。聞いているのに抜ける。手を動かしているのに、考えがついてこない」
エミルは匙から手を離した。
「俺、そういう人間じゃないんです。削って当然みたいな顔で戻れる人間じゃない。ハーウッド中尉みたいにも、レナードさんたちみたいにもできない」
リュシアは黙っていた。
違うとも大丈夫とも言える根拠がなかった。
エミルが戻れるかどうかを、リュシアが決めることではなかった。
沈黙が落ちた。
食堂の奥で、誰かが器を重ねる音がした。遠くで伝令の足音が通り過ぎる。戦闘は終わっていない。第二波は退いたが、砦の仕事は止まっていない。
先に動いたのは、エミルだった。
「すみません。変なこと言いました」
エミルは椅子を引いた。
「戻ります」
「戻れるのですか」
「戻ります」
エミルは記録板を抱え直した。顔色は悪いままだった。だが、席を立つ動きは思ったよりまっすぐだった。
「俺で落とすわけにはいかないんで」
それだけ言って、エミルは食堂を出ていった。
リュシアはその背中を見送った。
できるから戻るのではない。
できないと思ったまま、それでも戻る。
頭が下がると思った。
しばらくして、リュシアは戦略情報室の近くでノア・エヴァレットを見つけた。ノアは数枚の紙を抱え、伝令に指示を出しているところだった。
「エヴァレット少尉」
ノアが振り向く。
「はい、フォルティス中尉」
「ハーゲン伍長の反応が、通常より遅く見えました。本人は戻ると言っていましたが」
ノアは一瞬だけ目を細めた。
「承知しました。こちらで確認します」
それ以上は聞かなかった。
リュシアも、それ以上は言わなかった。
エミルが何を言ったかは、運用情報ではない。
だが、エミルの反応が遅れていたことは、運用情報だった。
その後、リュシアは自室へ戻ろうとして、戦略情報室脇の通路を抜けた。そこで、エリアスを見かけた。
エリアスも自室へ戻るところだったのか、外套を着ていなかった。オペ室を出たままの格好で、足取りだけが妙に遅かった。
「ハーウッド中尉。昨日の西区画誘導、ありがとうございました」
エリアスが足を止めた。いつもなら頷いて終わるか、短い返答だけで済む。だがその日は、一拍だけ間があった。
「フォルティス中尉。少しお時間はありますか」
「はい」
通路脇の資料室へ入る。エリアスは椅子に座らず、壁に寄りかかったまま口を開いた。
「昨日の西区画の件で、確認したいことがあります」
「はい」
「西区画へ移動してから、最初の索敵で北西の反応密度はどの程度でしたか」
「中型を含む混成群で、正面幅は五百以上。小型は計数困難でした」
「到着してから迎撃線が持ち直すまで、どれくらいかかりましたか」
「約一時間です」
エリアスは頷いた。だが、すぐに次を重ねる。
「フォルティス中尉が入らなかった場合、西区画は持ちましたか」
リュシアは少し考えた。
「厳しかったと思います。魔力切れの騎士が一名いて、索敵が機能していませんでした」
「では、ブレナー隊への撤退許可を三十分早めていた場合は」
「西区画の索敵補充がない時間が延びます。迎撃線の回復は遅れたか、回復しなかった可能性があります」
「フォルティス中尉ではなく、別の騎士を西へ回した場合は」
「火力補充にはなりますが、索敵は埋まりません。後続群への対応は遅れます」
そこでリュシアは気づいた。
問い方だけが変わっている。見ている箇所は同じだった。
「ハーウッド中尉」
「はい」
「同条件の反復では新しい情報は増えません」
エリアスの目がわずかに動いた。沈黙が落ちる。
リュシアは続けた。
「必要なのは追加データの整理です。このまま反復しても、結論は増えません」
エリアスはしばらく黙っていた。やがて小さく息を吐く。
「そうですね」
それだけ言って、壁から背を離す。
「すみません。お時間を取りました」
「検証自体は必要です」
リュシアはそう言って、少しだけ言い足した。
「追加データが揃ってから再検証すべきです」
エリアスは一瞬だけ妙な顔をした。笑おうとしたのか、別の何かだったのか、リュシアには分からなかった。
「ありがとうございます」
「お休みください」
エリアスが部屋を出た。リュシアも続いて出る。通路で別れ、反対方向へ歩いた。
夜、手帳を開く。
ハーウッド中尉、事後検証。
同一条件の反復。
追加データなし。
次任務への判断資源の確保を優先し、中断を提案。
中尉は了承。
そこでペンが止まった。
別の条件を置けば別の結果が出るかもしれない。だが、同じ条件のまま問い方だけを変えても、増える情報はない。
終了条件のない確認だった。




