表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
68/85

68.二年目

  三日続けて、朝の壁上に霧が残っていた。


 濃さそのものは、冬のブラインドフォグには遠い。視界は百メートルほどある。隣の持ち場の影も見える。だが、五月にフォグが出たのを見るのは初めてだとエドガーが低い声で溢した。


 リュシアは壁上の石の継ぎ目を見下ろしながら、前日の補修痕を目で追った。石材の色が新しい箇所が、途中で切れている。予定では西寄りの二十メートル先まで塞がるはずだった。


 下から工兵が声を上げた。


「フォルティス少尉。そこ、足元気をつけてください。仮止めです」


「了解しました」


 リュシアは切れた補修線をもう一度見た。仮止めの木材が二本、斜めに噛ませてあるだけだった。雨が降れば崩れそうに見える。


 朝の交代後、持ち場を離れる前にハワードへ報告する。


「第三壁区中央寄り、仮止めのまま残っている区間がありました。予定変更ですか」


「変更じゃない。遅れてる」


 ハワードは短く答えた。


「補修班が足りないんですか」


「足りない。罠の回収も間に合ってない」


 リュシアは黙って続きを聞く。


「冬に外へ出した罠だ。抜けるうちに引き上げる予定だったが、手が回ってない」


 そこで一度、ハワードは壁外に目をやった。霧は薄いが、草の先が湿って黒く見える。


「位置の悪い罠は遊撃の帰投路を食う」


 リュシアは頷いた。遊撃は戻りの方が事故が多い。視界、負傷、足場、その三つが重なるからだ。当然工兵も把握しているはずで、回収できない理由があるのだろう。






 その日の勉強会は、開始前から騒がしかった。


 会議室の長机は増えていたが、椅子が足りていない。壁際に補助椅子が並べられ、後ろでは立ったまま資料を見ている者もいた。見覚えのない若い顔が多い。前線兵、工兵、遊撃、医務室付きの補助兵まで混じっている。


 ノア・エヴァレットが入口で名簿を持ち、淡々と人を振り分けていた。


「前寄りは常連優先です。初参加は壁際へ。資料は一部足りないので二人で見てください」


 去年より明らかに人が多い。

 後方の空きに腰を下ろしところで、軽く肩を叩かれた。ミラだった。


「狭くてすみません。次回から場所変えるそうです」


「構いませんが、人が増えましたね」


「はい。オペ室に補充が入ったんです。……正直、非常に助かります」


 どこもきついのに申し訳ないんですけど、とミラが声を低くする。冬の終わりの消耗したオペ室メンバーの顔を思い出した。


「おかげで教える方で忙しくてーー」


 言い終わる前に、前方の空気がすっと硬くなった。


 エリアスが入ってきたからだった。


 エリアスは席には着かず、前机に手を置いたまま言う。


「始めます。本日の主題は、薄霧下の報告形式です」


 ざわつきが一度で止んだ。


 霧が薄い時ほど伝達が雑になるという話だった。見えているから分かるだろう、で済ませた報告が後に崩れる原因になる。位置、数、移動方向、継続時間。そのどれを削ってよくて、どれを削ると事故になるかを、実例で説明していく。


 質疑応答で、リュシアは手を上げた。


「薄霧時に対象が視認できているが距離の確信が持てない場合、推定距離で上げるべきでしょうか、視界回復を待つべきでしょうか」


 何人かがこちらを見た。去年ほどの変な空気はない。だが、新しい参加者が多いせいか、また公爵令嬢が変なところを聞いている、という種類の視線はある。


 エリアスはすぐに答えなかった。机上の紙を一枚めくり、ノアに何か確認してから顔を上げる。


「推定で上げてください。ただし推定である旨を付けてください」


「了解しました」


 そこで終わらなかった。エリアスは前机から一枚紙を取り上げる。


「薄霧の時期は、見えているつもりで報告が雑になります。確度が低い時は後段で付け加えてください」


 何人かが資料に書き込み始める。

 個人への返答でありながら、全員への補正になっている。

 リュシアは手元の余白に短く書いた。






 医務室は去年より少し騒がしかった。怪我人で溢れているわけではない。だが、常に何かが足りない空気がある。入口脇に木箱が積まれ、使いかけの担架が立てかけられ、洗った器具を拭く手が休まない。


「ヘイル中尉」


 頼まれていた勉強会の資料を渡そうと、リュシアは忙しそうに立ち働くサイモン・ヘイルに声をかけた。


「すまない、少し待ってくれ。手が空いてるなら名前の確認だけお願いしたい」


「どこまで確認すればいいですか」


「歩ける者から先に。重いのは触らなくていい」


 衛生兵たちが走り回る横を縫って、リュシアは名簿を取り戸口で待つ軽傷者を誘導する。

 座れる者は壁際に座らせ、止血が終わっていない者は優先的に衛生兵に回す。

 新しい負傷者が来なくなった頃には、医務室も少し落ち着いていた。


「いつもすまないな少尉、助かった」


「ついでです」


 サイモンはすぐに資料をめくって中を確認する。


「どこも遅れてるんだな。遊撃に負傷が増えそうだ」


「医務室も遅れているようですね」


「ああ」


 補充が間に合っていないのだろう、包帯や消毒液が入った箱が、そのまま置かれている。


「大怪我が増えたわけじゃないのに、細かい仕事がずっと多い」


 サイモンは記入済みの紙を捲りながら言った。


「すり傷、打撲、軽い裂創、寝不足、食欲低下。誰も倒れてないのに、誰も余ってない」


 サイモンはそこで一度、医務室の奥を見た。天幕の向こうで、誰かが咳をしている。


「皆、慣れてるのが逆に怖いな」


 その言い方に、リュシアは少しだけ引っかかった。


「慣れているのは良いことでは」


「良い時もある。だが、慣れると無理を無理と認識しなくなる」


 サイモンは資料を机の上に置いた。


「まあ、今はまだ前線が回ってる。回ってるうちに整えるしかないな」


「勉強会の席が足りていませんでした」


「でしょうね」


「オペ室の人員も増えているようでした」


「みたいだな。だが使えるようになるまでは逆に忙しい」


 エリアスの顔が一瞬だけ浮かんだ。珍しくメインオペレーター本人が前に立って説明していた。状況がそうさせているのだと分かる。


 リュシアは医務室を出る前に、入口脇の棚へ目をやった。包帯箱はあと二つ。担架の脚には泥が乾いてこびりついている。軽傷者の記録板は一番下まで名前が埋まっていた。


 砦の外へ出ると、昼の霧はもう薄れていた。だが、晴れ切らない空の下で、壁沿いの補修資材はまだ積まれたままだった。


 去年と同じ石壁で、去年と同じ通路を歩いている。

 それなのに、どこもかしこも半歩ずつ遅れている。


 リュシアは官舎へ戻る前に、手帳を開いた。


 五月上旬。朝霧三日継続。

 第三壁区中央寄り、補修未了区間あり。

 春設置罠、回収遅延。帰投路に影響の可能性。

 勉強会参加者増。椅子不足。

 観測文と補修状態は分けて記録すること。

 医務室、軽傷・疲労の処理件数増。


 書いてから、少し考える。去年と同じではないということだけがはっきりしていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ