68.二年目
三日続けて、朝の壁上に霧が残っていた。
濃さそのものは、冬のブラインドフォグには遠い。視界は百メートルほどある。隣の持ち場の影も見える。だが、五月にフォグが出たのを見るのは初めてだとエドガーが低い声で溢した。
リュシアは壁上の石の継ぎ目を見下ろしながら、前日の補修痕を目で追った。石材の色が新しい箇所が、途中で切れている。予定では西寄りの二十メートル先まで塞がるはずだった。
下から工兵が声を上げた。
「フォルティス少尉。そこ、足元気をつけてください。仮止めです」
「了解しました」
リュシアは切れた補修線をもう一度見た。仮止めの木材が二本、斜めに噛ませてあるだけだった。雨が降れば崩れそうに見える。
朝の交代後、持ち場を離れる前にハワードへ報告する。
「第三壁区中央寄り、仮止めのまま残っている区間がありました。予定変更ですか」
「変更じゃない。遅れてる」
ハワードは短く答えた。
「補修班が足りないんですか」
「足りない。罠の回収も間に合ってない」
リュシアは黙って続きを聞く。
「冬に外へ出した罠だ。抜けるうちに引き上げる予定だったが、手が回ってない」
そこで一度、ハワードは壁外に目をやった。霧は薄いが、草の先が湿って黒く見える。
「位置の悪い罠は遊撃の帰投路を食う」
リュシアは頷いた。遊撃は戻りの方が事故が多い。視界、負傷、足場、その三つが重なるからだ。当然工兵も把握しているはずで、回収できない理由があるのだろう。
その日の勉強会は、開始前から騒がしかった。
会議室の長机は増えていたが、椅子が足りていない。壁際に補助椅子が並べられ、後ろでは立ったまま資料を見ている者もいた。見覚えのない若い顔が多い。前線兵、工兵、遊撃、医務室付きの補助兵まで混じっている。
ノア・エヴァレットが入口で名簿を持ち、淡々と人を振り分けていた。
「前寄りは常連優先です。初参加は壁際へ。資料は一部足りないので二人で見てください」
去年より明らかに人が多い。
後方の空きに腰を下ろしところで、軽く肩を叩かれた。ミラだった。
「狭くてすみません。次回から場所変えるそうです」
「構いませんが、人が増えましたね」
「はい。オペ室に補充が入ったんです。……正直、非常に助かります」
どこもきついのに申し訳ないんですけど、とミラが声を低くする。冬の終わりの消耗したオペ室メンバーの顔を思い出した。
「おかげで教える方で忙しくてーー」
言い終わる前に、前方の空気がすっと硬くなった。
エリアスが入ってきたからだった。
エリアスは席には着かず、前机に手を置いたまま言う。
「始めます。本日の主題は、薄霧下の報告形式です」
ざわつきが一度で止んだ。
霧が薄い時ほど伝達が雑になるという話だった。見えているから分かるだろう、で済ませた報告が後に崩れる原因になる。位置、数、移動方向、継続時間。そのどれを削ってよくて、どれを削ると事故になるかを、実例で説明していく。
質疑応答で、リュシアは手を上げた。
「薄霧時に対象が視認できているが距離の確信が持てない場合、推定距離で上げるべきでしょうか、視界回復を待つべきでしょうか」
何人かがこちらを見た。去年ほどの変な空気はない。だが、新しい参加者が多いせいか、また公爵令嬢が変なところを聞いている、という種類の視線はある。
エリアスはすぐに答えなかった。机上の紙を一枚めくり、ノアに何か確認してから顔を上げる。
「推定で上げてください。ただし推定である旨を付けてください」
「了解しました」
そこで終わらなかった。エリアスは前机から一枚紙を取り上げる。
「薄霧の時期は、見えているつもりで報告が雑になります。確度が低い時は後段で付け加えてください」
何人かが資料に書き込み始める。
個人への返答でありながら、全員への補正になっている。
リュシアは手元の余白に短く書いた。
医務室は去年より少し騒がしかった。怪我人で溢れているわけではない。だが、常に何かが足りない空気がある。入口脇に木箱が積まれ、使いかけの担架が立てかけられ、洗った器具を拭く手が休まない。
「ヘイル中尉」
頼まれていた勉強会の資料を渡そうと、リュシアは忙しそうに立ち働くサイモン・ヘイルに声をかけた。
「すまない、少し待ってくれ。手が空いてるなら名前の確認だけお願いしたい」
「どこまで確認すればいいですか」
「歩ける者から先に。重いのは触らなくていい」
衛生兵たちが走り回る横を縫って、リュシアは名簿を取り戸口で待つ軽傷者を誘導する。
座れる者は壁際に座らせ、止血が終わっていない者は優先的に衛生兵に回す。
新しい負傷者が来なくなった頃には、医務室も少し落ち着いていた。
「いつもすまないな少尉、助かった」
「ついでです」
サイモンはすぐに資料をめくって中を確認する。
「どこも遅れてるんだな。遊撃に負傷が増えそうだ」
「医務室も遅れているようですね」
「ああ」
補充が間に合っていないのだろう、包帯や消毒液が入った箱が、そのまま置かれている。
「大怪我が増えたわけじゃないのに、細かい仕事がずっと多い」
サイモンは記入済みの紙を捲りながら言った。
「すり傷、打撲、軽い裂創、寝不足、食欲低下。誰も倒れてないのに、誰も余ってない」
サイモンはそこで一度、医務室の奥を見た。天幕の向こうで、誰かが咳をしている。
「皆、慣れてるのが逆に怖いな」
その言い方に、リュシアは少しだけ引っかかった。
「慣れているのは良いことでは」
「良い時もある。だが、慣れると無理を無理と認識しなくなる」
サイモンは資料を机の上に置いた。
「まあ、今はまだ前線が回ってる。回ってるうちに整えるしかないな」
「勉強会の席が足りていませんでした」
「でしょうね」
「オペ室の人員も増えているようでした」
「みたいだな。だが使えるようになるまでは逆に忙しい」
エリアスの顔が一瞬だけ浮かんだ。珍しくメインオペレーター本人が前に立って説明していた。状況がそうさせているのだと分かる。
リュシアは医務室を出る前に、入口脇の棚へ目をやった。包帯箱はあと二つ。担架の脚には泥が乾いてこびりついている。軽傷者の記録板は一番下まで名前が埋まっていた。
砦の外へ出ると、昼の霧はもう薄れていた。だが、晴れ切らない空の下で、壁沿いの補修資材はまだ積まれたままだった。
去年と同じ石壁で、去年と同じ通路を歩いている。
それなのに、どこもかしこも半歩ずつ遅れている。
リュシアは官舎へ戻る前に、手帳を開いた。
五月上旬。朝霧三日継続。
第三壁区中央寄り、補修未了区間あり。
春設置罠、回収遅延。帰投路に影響の可能性。
勉強会参加者増。椅子不足。
観測文と補修状態は分けて記録すること。
医務室、軽傷・疲労の処理件数増。
書いてから、少し考える。去年と同じではないということだけがはっきりしていた。




