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67.春

 三月に入って、壁上の空気が変わった。

 フォグの頻度が落ちた。完全に晴れる日はまだ少ないが、視界が開けている時間が増えた。    

 魔獣の襲来は散発的になり、交代の間隔が元に戻り、睡眠時間がきっちり取れるようになった。

 統合運用は続いていたが、実質的にはエドガー班とハワード班の二班体制に近い運用に戻っていた。

 朝の交代で壁上に上がった時、エドガーが先にいた。リュシアが持ち場についたのを確認して、一つ頷いて降りていった。半年前なら「異常なし」の一言があったはずだが、今は頷きだけで済む。異常がないことは互いの立ち方で分かるからだ。

 

 昼の交代でイアンと入れ替わった。イアンは壁上に上がりながら、片手を上げた。


「お疲れ。今日は静かだな」


「散発が二回、小型のみです」


「最高。寝てていいな」


 イアンの冗談は冬の間も変わらなかったが、冬の間は笑う余裕がなかった。今は壁上の空気が軽い。

 ダリルとは食堂で顔を合わせた。隣のテーブルに座っていたが、特に会話はなかった。ダリルはもともと口数が少ない。だが冬の前と一つだけ変わったことがあった。リュシアが席に着いた時、ダリルが小さく顎を引いた。エドガーと同じ動作だった。異常なし、の合図。

 班員の間で、言葉が減っている。減ったのは距離が開いたからではなかった。要らなくなったからだ。


 午後、ケンプの事務室に呼ばれた。

 冬季終了後の定期確認だった。ケンプは書類を広げて、リュシアの記録を順に読み上げた。


「冬季の戦闘日数、六十二日。うち連続三日以上の波が四回。魔力残量が一割を切った回数、三回。負傷記録、軽傷二件、いずれも治癒済み」


 ケンプの声は事務的だった。数字を読み上げ、確認し、記録する。それが仕事だった。


「睡眠時間の記録がありませんが」


「手帳に書いています」


「見せてください」


 リュシアは手帳を開いて該当のページを差し出した。ケンプがしばらく数字を追った。


「体重は戻りましたか」


「ほぼ戻っています」


「ほぼ、ではなく数字で」


「到着時より一・五キロ減です」


 ケンプはそれを書き留めた。


「四月の検査までに戻してください。食事を抜かないこと。以上です」


 立ち上がりかけたリュシアに、ケンプが付け足した。


「今年の冬は例年より長かったそうです。来年が平年並みなら、もう少し楽になるでしょう」


 事務的な声だった。慰めではなく、来年度の見通しとして言っている。リュシアは頷いて部屋を出た。





 翌日、オペ室の窓口を訪ねた。

 冬の間、紙質問は止まっていた。出す余裕がなかった。出されても答える余裕はオペ室側にもなかっただろう。

 ミラは机の上に書類を積み上げていた。冬季の記録をまとめている最中らしく、数字の入った紙束が何列にも分かれて並んでいた。

 リュシアが入口に立つと、ミラが顔を上げた。


「——あ」

 

 ミラの表情が一瞬だけ動いた。すぐに元の顔に戻ったが、リュシアはその一瞬を見た。


「お久しぶりです」


「お久しぶりです。紙質問、再開できますか」


 ミラが小さく笑った。


「もう持ってきたんですね。少し待ってください、受付の書式が冬前と変わっているので」


 ミラが棚から新しい書式を出して渡してくれた。項目が二つ増えていた。質問の緊急度と、回答期限の希望。冬の間に整備されたらしい。


「エヴァレット少尉が冬の間に改訂しました。質問が溜まった時に優先順位をつけるためです」


「合理的ですね」


「ええ。冬に溜まった分を処理する順番で揉めたので」


 ミラが書類に目を戻しかけて、もう一度リュシアを見た。


「勉強会はまだ未定です。再開の目処が立ったらお伝えします」


「分かりました」


「——冬、大変だったでしょう」


 ミラの声は淡々としていた。だが言葉の選び方がいつもと少し違った。数字の話ではなく、ただ聞いていた。


「そちらも」


「ええ、まあ」


 曖昧に笑うミラの目の下には薄い影があった。リュシアは新しい書式を手帳に挟んで、オペ室を出た。


 通路を歩いていた時、正面からエリアス・ハーウッド中尉が来た。

 リュシアがエリアスの顔を見るのは、冬に入る前の勉強会以来だった。

 記憶している特徴と照合した。目が落ち窪んでいる。姿勢がいい。軍人にしては線が細い。顔色が悪い。ここまでは記憶通りだった。

 頬周りの肉が落ちている。

 記憶と合わなかった。勉強会で最後に見た時よりも、明らかに顔の輪郭が削れている。頬骨の下の影が深くなっていて、目の窪みが一段きつくなっている。

 こんな顔だったか、とリュシアは思った。エリアスはリュシアに気づいて、軽く頷いた。


「フォルティス少尉。冬を越えましたね」


「はい。お疲れさまです」


 それだけだった。エリアスは足を止めなかった。リュシアも止めなかった。すれ違って、それぞれの方向に歩いた。

 エリアスの歩幅はいつも通りだった。背筋も崩れていない。だが首の後ろの筋が浮いて見えたのは、記憶にない情報だった。

眠れているのだろうか、と思った。


 宿舎に戻って、手帳を開いた。

 冬季のオペ室の稼働状況について、自分が把握している範囲のことを書いた。冬の間、重い接触ではほぼ必ずエリアスの声が出ていたこと。軽い時間帯には別のオペレーターに替わるが、波が厚くなるとまた戻っていたこと。サラの声が一時期聞こえなくなり、別の声に替わっていた期間があったこと。指示の精度は最後まで落ちなかったが、エリアスの声のトーンだけが一月の後半から変わっていたこと。

 冬季オペ室負荷は想定以上。来季の増員が検討されなければ、同じ運用は持たないだろう。

 手帳を閉じて、窓の外を見た。

 三月だった。北方の春は遅い。南方にいた頃なら、三月はもうフォグが出ない季節だった。

窓の向こうに、霧が残っていた。

 薄いが、ある。三月のこの時期に、この濃さで残っているのは、リュシアが北方に来てから初めてだった。砦の建物の輪郭がわずかに滲んで見える。空は晴れているのに、地面に近い空気だけが白い。

 手帳をもう一度開いて、一行書き足した。

 三月第二週、フォグ残存。

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