62.戦う場所
戦闘後の装備整備の最中だった。
油の匂いと鉄の擦れる音が残る中、リュシアはハワードの前で足を止めた。
「班長。一つ、許可をいただきたいことがあります」
ハワードは手を止めず、視線だけを上げた。
「何だ」
「他職種の方に、業務について伺いに行きたいのですが」
そこで初めて、ハワードの手が止まった。
「他職種」
「はい。工兵、補給、医療です。自分が戦う場所の構造を、もう少し正確に理解しておきたいと考えています」
ハワードは整備中の装具を置いた。
面倒なことを言い出した部下を見る顔だった。
「……お前は、なんで大人しく魔法騎士をしていられない」
咎めるような声だったが、怒鳴っているわけではなかった。
「魔法騎士の仕事の範囲を越えるつもりはありません。ただ、壁の上で戦う以上、壁のことを知らないままでは不十分だと考えています」
「聞いて満足するだけならいらん。他所の手を止めて終わりなら迷惑だ」
「許可できない理由があるなら、従います」
リュシアは淡々と言った。
命令系統を無視するつもりはない。止められるなら従う。それだけだった。
ハワードはしばらく黙ったまま、リュシアを見ていた。
「……南方でもそうだったのか」
「はい」
「隊長に許可を取って、あちこち聞いて回っていたのか」
「はい。必要だと判断した時は」
ハワードは小さく息を吐いた。
納得したわけではない。ただ、止める理屈が見つからなかった顔だった。
「好きにしろ。ただし、相手の仕事の邪魔はするな。分かった気になるな。聞いたことは自分の班の仕事に戻せ」
「はい。ありがとうございます」
ハワードはもう返事をしなかった。
だが、拒絶はされなかった。それで十分だった。
翌日の昼休み、リュシアは工兵班の区画にいた。
班長のダグラスは寡黙な男だった。
リュシアの訪問を聞いた時は少し意外そうに眉を動かしたが、すぐに仕事の顔に戻った。
「壁について教えていただきたいのですが」
「何が知りたい」
「構造と耐久性です。どの程度の衝撃で損壊が始まるか。修復にかかる時間と、修復中の強度」
ダグラスは壁の断面図を引っ張り出した。
指で石材の積み方をなぞりながら、簡潔に説明する。外壁と内壁の二重構造。中間に詰められた充填材。基礎の深さ。補修箇所ごとの状態の違い。
「魔法騎士はいつも壁の上から撃つ。だが壁は均一じゃない。補修を重ねた箇所は、元の強度がきれいには戻らん」
ダグラスの指が図面の三箇所を叩いた。
「特にここと、ここと、ここだ。大型が体当たりすれば揺れる。足元を気にしておけ」
「補修箇所の位置は定期的に更新されますか」
「月一で出してる。見たければ工兵の掲示板に貼ってある」
「確認します」
ダグラスはうなずき、今度は壁の外側に目を向けた。
「壁の前は見てるか」
「障害物の配置は把握しています。ただ、設計意図までは分かっていません」
「正直に言うな」
口元がわずかに動いた。笑ったらしかった。
「逆茂木と壕は、群れの速度を落とすためだけにあるんじゃない。進路を絞るためでもある。魔獣は障害物を避ける個体と、踏み越える個体に分かれる」
「踏み越えた個体は脚を傷める」
「そうだ。避けた奴は、こっちが作った通路に入る。通したい場所に寄せて、火力を合わせる」
「通路に誘導して、壁上で処理しやすくする」
「それだけじゃない。工兵が前に出て、壊れた障害物を直す時間を作る意味もある」
ダグラスは図面ではなく、実際の壁前地形を指差した。
「ここが崩れたままだと、群れが散る。散れば壁上の射線も散る。工兵が直してる間は撃つなとは言わんが、どこに人が出るかは頭に入れておけ」
「射線と進路、両方を見ます」
「見ろ。見えてるつもりで撃つのが一番厄介だ」
少し間を置いてから、ダグラスはリュシアを見た。
「……もう少し早く来ても良かったな」
「すみません」
「嫌味じゃない。知ってる奴の方がやりやすいだけだ」
リュシアは小さく頭を下げた。
その週のうちに、リュシアは補給班と医療班にも足を運んだ。
補給班では、壁上に運び込まれる修復材や土嚢、担架、灯火、飲み水の流れを確認した。
戦闘中にどの通路が詰まりやすいか、どこに物を置くと搬送の邪魔になるかも聞いた。
医療班では、負傷者の初期処置の場所と搬送経路を確認した。
壁下を通る時に危険になる区画、戦闘中でも比較的安全に通せる導線、呼びかけの順番。覚えることは多かった。
数日後。
朝から空が高く、風が乾いていた。霧はない。
壁の上から見通せる距離が、普段の倍以上ある。
リュシアにとっては最もやりやすい条件だった。索敵の精度が跳ね上がる。
群れが来た。中規模。大型が二体混じっている。
リンクが入る。オペ室から通常の迎撃配置が飛んだ。
リュシアは壁上で位置を取った。右にベン、左にエドガー。ハワードは中央寄り、両班を見渡せる位置にいる。
「リュシア、大型の進路」
エドガーの声は落ち着いていた。
情報を受け、班の動きに変える声だった。
「左の大型、障害物の第二列に向かっています。逆茂木を避けます。通路に入ります」
「了解。ベン、通路出口側の壁面を見ろ」
ベンが無言で土魔法を展開した。
通路の出口付近、衝撃が集まりやすい箇所の壁面を補強する。大型が抜けた瞬間に体勢を崩しても、そこで壁が持たなければ意味がない。
左の大型が通路へ吸い込まれた。
狭い場所を抜ける瞬間、明らかに速度が落ちる。
リュシアはそこで初めて雷を落とした。
頭部を狙った一撃。動きが止まる。間を置かず二撃目。大型はその場で沈黙した。
「右の大型、第三列へ。踏み越えます」
今度は真正面ではなかった。
大型は障害物に脚を取られながら、やや右へ流れた。
「区画ずれます。第七から第八寄りです」
「ベン、そっちじゃない、第八だ」
エドガーの指示が即座に飛んだ。
ベンが補強位置を切り替える。半拍遅ければ、大型の衝撃は補修の薄い箇所にまともに入っていた。
右の大型は逆茂木を踏み越えた時に前脚を傷めていた。
体液が流れ、速度が鈍る。
「脚を損傷。速度七割程度」
「よし。焦るな。壁に寄せろ」
以前なら、リュシアはここで先に落としていたかもしれなかった。
だが今は待った。脚を傷めた大型がどこへ流れ、どこで受けるのが一番崩れないかを見た。
大型が壁に到達する。
衝撃が足元から伝わった。だが第八区画の壁面は持った。ベンの補強が間に合っている。
「今だ」
エドガーの声と同時に、リュシアは三連で雷を叩き込んだ。
頭部、頸部、核に近い中心。大型は壁に爪をかけたまま力を失い、崩れ落ちた。
残る中小型は通常兵と壁上の連携で処理に入っている。
リュシアは索敵を維持しながら、壁下の導線にも一度だけ視線を落とした。
負傷者一名。搬送は東寄り。補給の荷運びとは交差していない。
確認して、すぐ前を向く。
「左下、小型二。通常兵の前に出ます」
「把握した」
エドガーが声を返し、壁上の処理がわずかに早まる。
その一拍があるだけで、前へ出る人間は減る。
群れが引いた。
「——終わりだ」
エドガーが息を吐いた。
ベンは黙って壁面の状態を確認している。
補強が持ったかどうかを、自分の目で確かめていた。
リュシアはリンク越しにハワードを呼んだ。
「班長。第七区画ではなく第八区画です。右の大型が流れました。第八の補修箇所、次の戦闘前に工兵へ確認を回した方がいいと思います。今日はベンの補強で持ちましたが、元の強度は落ちています」
少し間があった。
「……ダグラスに伝えておく」
返事は短かった。
それだけだったが、聞き流した声ではなかった。




