35.テープに残ったプールサイド
# 35.テープに残ったプールサイド
録音ボタンの赤いランプが点いたまま、僕たちは最後まで走った。
ミサキのピアノから始まり、僕のギターがそっと入る。ショウのベースが床を支え、ポンタのドラムが少しだけ前のめりに転がり、リョウコの声がその上をまっすぐ抜けていく。
完璧ではなかった。
途中で僕はまた少し強く弾きすぎたし、ポンタはサビ前で嬉しさを隠しきれず、余計なフィルを一つ入れた。リョウコは二番の歌詞で一瞬だけ言葉を探し、ミサキのピアノは最後のサビで少し埋もれた。
それでも、止まらなかった。
曲が、最後まで行った。
最後のコードを鳴らし終えた瞬間、スタジオの中に変な静けさが落ちた。
さっきまであんなに鳴っていたアンプも、ドラムも、キーボードも、急に遠くへ引いたみたいだった。僕の右手だけが、まだ弦を弾く形のまま固まっている。
「……録れた?」
リョウコがマイクを握ったまま聞いた。
ショウはラジカセの停止ボタンを押し、赤いランプが消えるのを見届けてから頷いた。
「録れた。たぶん」
「たぶんって何すか!」
ポンタがスティックを握ったまま立ち上がる。
「ここで録れてなかったら、俺、泣くっすよ!」
「録音機材に祈る前に、次からフィルを一つ減らせ」
「えっ、今のフィル、ダメでした?」
ショウは答えず、ラジカセの巻き戻しボタンを押した。
ぎゅるるるる。
テープが巻き戻る音が、やけに大きく聞こえる。
僕たちは自然とラジカセの周りに集まった。ミサキもキーボードの椅子から立ち、少し緊張した顔で近づいてくる。
「なんか、テスト返却みたいだね」
リョウコが言った。
「やめてくれ。心臓に悪い」
僕が言うと、ポンタが胸を張った。
「俺は自信あるっす。完全無欠の俺のドラムが、テープの中でも完全無欠に」
ショウが再生ボタンを押した。
最初に聞こえたのは、かすかな雑音だった。
サーッというテープの音。
それから、遠くで誰かが息を吸う音。
次に、ミサキのピアノが鳴った。
ぽろん、ぽろろんっ。
スタジオで聴いていた時より、ずっと小さい。
でも、その小ささが、妙にリアルだった。
僕たちは息を止めた。
低い和音が、テープの奥で静かに広がる。
火曜日の音楽室、昨日のプール前、ポッキーをかじった音。全部が、薄い膜の向こう側から戻ってくるみたいだった。
そこへ、僕のギターが入る。
ジャラン。
「……でかい」
僕は思わず呟いた。
「さっきよりは、だいぶ良い」
ショウが冷静に言う。
「だが、まだ少し前に出すぎている」
「うん。テープで聴くと、顔がまだうるさい」
リョウコが真面目な顔で言った。
「顔は録音されてないだろ」
「されてる。音に出てる」
否定できなかった。
テープの中の僕のギターは、自分が思っていたよりずっと目立っていた。弾いている時は「そっと」のつもりだったのに、聴き返すとまだ肩に力が入っている。
そこへショウのベースが入る。
低い音が、ぐっと全体を支えた。
「ショウ、安定してるね」
リョウコが言うと、ショウは眼鏡を押し上げた。
「安定していないと、現実が横転する」
「今日は倒れるじゃなくて横転なんすね」
ポンタが言った瞬間、テープの中のポンタが入ってきた。
タン。
そこまではよかった。
次の瞬間。
タタタッ。
「あ」
ポンタ本人が声を漏らした。
テープの中のドラムは、明らかに少し早かった。いや、少しどころではない。喜びを乗せたポンタが、曲の前方へ飛び出している。
「俺、こんなに走ってました?」
「走ってた」
僕とリョウコとショウの声が揃った。
ミサキだけが、少し困ったように笑っている。
「でも、元気はありますね」
「ミサキちゃん、優しい!」
ポンタが両手を合わせる。
「優しさに逃げるな」
ショウがすぐに言った。
テープの中で、リョウコの歌が始まった。
「プールサイドに、風が吹いて……」
スタジオで聴いた時は近くに感じた声が、テープだと少し違って聞こえる。いつものリョウコより抑えているのに、芯がある。声の奥に、これから爆発する前の熱がちゃんと隠れていた。
「あたし、ここは悪くないと思う」
リョウコが小さく言った。
「良いと思う」
ミサキがすぐに頷く。
「最初は、話しかけてくるみたいに聞こえます」
リョウコは少し照れたように笑った。
「でも、言葉がまだ仮なんだよね」
テープの中のリョウコが二番に入る。
そこで、少しだけ歌詞が曖昧になる。
「えーっと……空の下で、えー……」
「あたし、今『えーっと』って歌った?」
リョウコが両手で顔を覆った。
「歌った」
僕は笑いをこらえきれなかった。
「歌詞カードに『えーっと』って書くか」
「書かない! 絶対書かない!」
ポンタが真顔で手を挙げる。
「でも、ライブでお客さんが一緒に『えーっと』って歌ったら面白いっす」
「面白さで曲を壊すな」
ショウが言うと、リョウコがノートを開いた。
「やっぱり、歌詞をちゃんと決めたい」
その声は、さっきまでの照れ笑いとは違っていた。
テープはサビへ向かっていく。
僕のギターが少し強くなり、ポンタが前のめりになり、ショウが引き戻し、ミサキのピアノが少しだけ奥へ埋もれる。
そしてリョウコが叫ぶ。
「プールサイド・ノイズ!」
その瞬間、全員が黙った。
テープの音は決して良くない。スタジオの空気を全部拾えているわけでもない。むしろ粗いし、バランスも悪い。
でも、その一瞬だけは、確かに曲だった。
僕たちの知らない誰かが作った曲ではない。
僕たちが、プール前で弁当のあとに集まって、ポッキーをかじって、雨の音楽室でピアノを聴いて、スタジオで失敗して、それでももう一回やって作った曲だった。
テープの中の最後のコードが鳴り終わる。
サーッという雑音だけが残る。
ショウが停止ボタンを押した。
誰もすぐには喋らなかった。
最初に口を開いたのは、リョウコだった。
「まだ全然、完成じゃない」
誰も反論しなかった。
「でも」
リョウコはノートをぎゅっと握った。
「これ、曲だよ。ちゃんと、あたしたちの曲だよ」
その言葉を聞いた瞬間、胸の中で何かが弾けた。
「だよな」
僕は頷いた。
「課題は多い」
ショウがすぐに言う。
「ケイタはイントロの音量と入るタイミングをもう少し調整。ポンタはサビ前のフィルを減らして、テンポを保つ。ミサキちゃんはサビで埋もれない音域を探す。リョウコは歌詞を確定」
「現実が容赦ない」
ポンタが肩を落とす。
「でも、現実があるってことは、曲があるってことだろ」
僕が言うと、ショウは少しだけ目を細めた。
「そうとも言える」
ミサキが、ラジカセを見つめながら言った。
「私、テープで聴くと、ピアノが思ったより小さかったです。でも、イントロはちゃんと残っていて……それが嬉しかったです」
「あのイントロ、絶対残す」
リョウコが即答した。
「あたし、そこにちゃんと合う言葉を書きたい」
彼女はノートのページをめくった。そこには、これまでの仮歌詞が鉛筆で書き散らされていた。消しゴムで消した跡も多い。
僕は横から覗き込む。
プールサイド。
風。
五メートル。
ノイズ。
笑い声。
いくつもの言葉が、まだ並び方を決められないまま、ページの中でうろうろしていた。
「半径五メートルって入れたいよね」
僕が言うと、リョウコは頷いた。
「入れたい。でも、そのまま歌うと説明っぽいんだよね」
「半径五メートルのロック、じゃダメっすか?」
ポンタが言う。
「それ、ポスターの煽り文句みたい」
リョウコが即座に却下する。
「じゃあ、五メートル先の君へ」
僕が言うと、リョウコが目を細めた。
「急にラブソングっぽい」
「ダメか」
「悪くはないけど、この曲はもっと、みんなでいる感じがいい」
ミサキが少しだけ手を挙げた。
「あの……『届く距離』というのはどうでしょう」
「届く距離?」
「はい。遠すぎないけど、近すぎもしない。声も、風も、ポッキーをかじる音も、たぶん届くくらいの距離です」
リョウコの目が光った。
「それ、いい」
彼女はノートに大きく書いた。
届く距離。
その言葉を見た瞬間、僕の中でプール前の景色が浮かんだ。
金網。
風。
リョウコの笑い声。
ショウの突っ込み。
ポンタの変な宣言。
ミサキが少し離れて立っていて、でももう輪の外ではなかったこと。
全部、届く距離にあった。
「サビ前に入れたい」
リョウコが鉛筆を走らせる。
「『届く距離で鳴っている』とか」
「いいじゃん」
僕は思わず言った。
「それ、僕たちっぽい」
ポンタがうんうんと頷く。
「完全無欠に届いてるっす」
「完全無欠は入れない」
リョウコが即答した。
「なんでっすか!」
「曲が別物になるから」
ショウが冷静に言う。
スタジオの残り時間は、あと二十分ほどだった。
僕たちはもう一度テープを聴き、気になるところを止めながら、ノートに書き込んでいった。
ギター、イントロはもっと薄く。
ドラム、サビ前は我慢。
ピアノ、サビで少し高い音を足す。
歌詞、「届く距離」を入れる。
書けば書くほど、完成から遠ざかる気もした。
でも、それは悪い遠さではなかった。
山の頂上が見えたせいで、登る道が急に細かく見え始めたみたいな感じだ。
「次の練習までに、歌詞を直してくる」
リョウコがノートを閉じた。
「あたし、この曲をちゃんと歌いたい」
その言葉に、僕は何も言えなくなった。
ただ、頷いた。
ポンタも、ショウも、ミサキも頷いた。
ラジカセの中には、まだ粗い『プールサイド・ノイズ』が入っている。
ギターが大きくて、ドラムが走って、歌詞が途中で「えーっと」になる、僕たちの最初の録音。
でも、そこには確かに、プールサイドの風が残っていた。
スタジオを出る時、ショウがテープをケースにしまった。
「これは保存版だな」
「失敗だらけなのに?」
僕が聞くと、ショウはラジカセを鞄に入れながら言った。
「失敗が残っているから、次に進める」
ポンタが腕を組んだ。
「つまり、俺の走ったドラムも未来への一歩っすね」
「それは反省しろ」
「厳しいっす!」
僕たちは笑いながら、スタジオから外へ出た。
外の空気は少し湿っていた。雨は降っていないのに、火曜日の音楽室の匂いがどこかに残っている気がした。
リョウコはノートを胸に抱えて歩いている。
たぶん、頭の中ではもう言葉が鳴っているのだろう。
僕の頭の中では、テープのサビが何度も繰り返されていた。
粗くて、危なっかしくて、でもどうしようもなく僕たちの音。
まだ完成じゃない。
でも、完成させたい。
初めて、そう強く思った。




