34.音が入る場所
# 34.音が入る場所
土曜日の朝、目覚ましが鳴る前に目が覚めた。
カーテンの隙間から細い光が入っていて、部屋の隅に立てかけたストラトキャスターの白いボディが、ぼんやり光っていた。
僕は布団の中でしばらく天井を見上げた。
今日は、初めて五人でオリジナル曲をちゃんと練習する日だ。
『プールサイド・ノイズ』。
タイトルだけだった曲に、ミサキが入口を作ってくれた。音楽室で聴いた、雨とピアノが混ざったあの短いフレーズ。あそこから僕のギターが入って、ショウのベースが支えて、ポンタのドラムが走り出して、リョウコの声が乗る。
頭の中では、もう何度も成功していた。
でも、頭の中のバンドは、いつも都合がいい。
僕のギターは完璧なタイミングで鳴るし、ポンタは走らないし、リョウコは一発で最高の歌を歌う。ショウはもちろん間違えない。ミサキのピアノは、プール前の風みたいにきれいに残る。
現実がそうなるとは限らない。
むしろ、ならない可能性の方が高い。
それでも、胸の奥はやたらと熱かった。
朝ごはんの時、味噌汁の椀を持ったまま固まっていたら、向かいに座ったアヤカがじっと僕を見た。
「お兄ちゃん、味噌汁冷めるよ」
「あ、うん」
「またギターのこと考えてたでしょ」
「今日は大事な練習なんだよ」
母さんが台所から顔を出した。
「大事な練習って、ライブ?」
「ライブじゃない。オリジナル曲」
僕が言うと、父さんが新聞を少し下げた。
「自分たちの曲か」
「うん」
父さんはそれ以上聞かず、短く頷いた。
「思いっきり頑張ってね。完成したら聞かせてね!」
母さんが特大の笑顔で言った。
僕はその言葉を、ギターケースの留め金を閉める音と一緒に胸へしまった。
快晴。スタジオへ向かう道は、カラカラに乾いていた。アスファルトの端に残った小さな水たまりだけが、空を細かく映している。僕は歩きながら、右手の指で何度も空中の弦を撫でた。
ピアノが二回。
その余韻を壊さずに、ギター。
僕は自分にそう言い聞かせた。
スタジオの入口に着くと、ポンタが店の前で跳ねていた。
「ケイタ先輩! 今日っすよ! 俺たちの曲が、ついに爆誕する日っすよ!」
「まだ爆誕は早いだろ」
「じゃあ、半爆誕っす!」
「半分だけ爆発してるみたいで怖いな」
ポンタは両手にスティックを持って、空中でドラムロールを始めた。
「ダラララララララ……第一回、プールサイド・ノイズ公式練習!」
「入口で叩くな」
後ろからショウの声がした。
ショウはベースケースを肩にかけ、もう片方の手に小さなラジカセを持っていた。黒めがねの奥の目は眠たそうなのに、持ち物だけは妙に準備がいい。
「今日は録るの?」
僕が聞くと、ショウはラジカセを軽く掲げた。
「録る。記憶は盛るからな」
「俺のドラムは盛らなくても最高っす!」
「だから録る」
ポンタが「信用されてないっす」と言いながら笑った。
そこへリョウコがやってきた。片手には歌詞ノート、もう片方にはコンビニの袋を持っている。
「おはよ。今日はのど飴と、練習後のお菓子」
「どっちが本命?」
僕が聞くと、リョウコは当然の顔で答えた。
「両方。歌うにも反省するにも糖分がいるだらぁ」
最後に、ミサキが小走りで現れた。息を整えながら、胸に抱えた五線譜のノートをぎゅっと押さえている。
「すみません。遅くなりました」
「全然。まだ時間前だよ」
僕が言うと、ミサキはほっとしたように笑った。
「昨日の夜、少しだけ続きを考えていたら、なかなか眠れなくて」
その言葉だけで、僕の胸が跳ねた。
「続きあるの?」
「ほんの少しです。ギターが入るところの和音を、邪魔しないようにできないかなって」
邪魔しないように。
その言葉が、今日の僕に刺さった。
僕たちはスタジオに入った。
部屋の中は、いつもの少しこもった匂いがした。古いカーペット、アンプの熱、ドラムの金属、壁に染みついた誰かの音。スタジオの照明は白くて、楽器の影を床にくっきり落としている。
キーボードは、部屋の奥に置かれていた。ミサキが弾きやすいように、ショウが予約の時に頼んでおいてくれたらしい。
「配置を決めよう」
ショウが部屋の真ん中に立った。
「ミサキちゃんのピアノが最初。ケイタは二回目のフレーズが終わったあと、余韻を聴いて入る。僕はケイタの音を確認してから入る。ポンタは僕のベースを聴いてから入る。リョウコは全員が入ったあと、抑えめに歌い出す」
「現実が整列してる」
リョウコが笑う。
「並べないと倒れる」
ショウはいつものように言った。
僕はアンプの前にしゃがんだ。
ボリュームを少し下げる。歪みも少し控える。けれど、控えすぎると、ただの弱い音になる。僕のギターは僕のままで、でもミサキのピアノを潰さない。そのちょうどいい場所を、つまみの角度だけで探すのは難しかった。
ミサキはキーボードの前に座り、五線譜のノートを譜面台に置いた。
ポンタはドラムセットの椅子に座った瞬間から、右足が小さく跳ねている。
「ポンタ」
ショウが言った。
「はいっす」
「まだ叩くな」
「まだ何もしてないっす!」
「右足がもう曲を始めている」
ポンタは慌てて足を止めた。
リョウコはマイクスタンドの高さを調整し、ノートを床に置いた。いつものリョウコなら最初から真正面を向くのに、今日は少しだけミサキの方を見ている。歌が入る場所を探しているのだと思った。
「じゃあ、いきます」
ミサキが小さく言った。
誰も返事をしなかった。
返事をしたら、その空気が壊れそうだった。
ミサキの指が鍵盤に落ちる。
ぽん、ぽん。
高い音が二つ、スタジオの空気に浮かぶ。
少し間を置いて、低い和音。
火曜日の音楽室で聴いた時より、音が近い。スピーカーを通したキーボードの音は本物のピアノとは違うけれど、その分、バンドの中に入ってくる感じがあった。白い壁に当たって戻ってくる音が、まだ水の張られていないプールの底に光が跳ねるみたいに広がった。
二回目。
ぽん、ぽん。
僕は構えた。
ここだ。
そう思った瞬間、体が先に動いた。
ジャーン!
鳴らした瞬間、しまったと思った。
大きい。
音が大きいだけじゃない。厚い。重い。ミサキのピアノが作った薄い空気の膜を、僕のギターが一枚で全部破ってしまった。
ポンタが反射で入る。ドラムが転がる。ショウもベースを入れたけれど、音の居場所がもうぐちゃぐちゃだった。リョウコはマイクを握ったまま、目だけで「待て」と言っている。
十秒くらいで、ショウがベースを止めた。
「止めよう」
全員が止まった。
アンプのノイズだけが、じりじりと部屋に残った。
僕はピックを握ったまま、肩を落とした。
「……今の、どうだった?」
リョウコが即答した。
「ケイタが校庭十周」
「十周も走った?」
「走った。しかもスピーカー持って」
ポンタが申し訳なさそうにスティックを上げた。
「俺もつられたっす。ギターが来た瞬間、体が『今だ!』って」
「体を教育しろ」
ショウが言い、僕のアンプの前まで来た。
「ケイタ、音量だけの問題じゃない」
「音量じゃないの?」
「大きいのは大きい。でも、それ以前に入る場所が違う。ミサキちゃんのピアノが作った空間に、壁みたいに入っている」
「壁」
「壁ではなく、隙間に入れ」
僕はピックを見た。
隙間に入る。
言葉としてはわかる。でも、手がわかっていない。
僕のギターは、いつも前へ出たがる。歪ませて、鳴らして、気持ちを全部ぶつける。そうすれば熱くなると思っていたし、実際にそれでうまくいったこともある。
でも、この曲の入口は違う。
まだ誰も泳いでいないプール。
風が先にあって、遠くの声があって、ポッキーをかじる小さな音があって、その上に初めてギターが触れる。
さっきの僕は、そこへ靴のまま飛び込んだ。
「ごめん」
僕はミサキの方を見た。
「せっかくのイントロ、潰した」
ミサキは少し驚いた顔をして、それから首を横に振った。
「潰したというより、びっくりしました」
「それ、ほぼ潰したってことだよね」
リョウコが小さく言う。
「でも」
ミサキは鍵盤に視線を戻した。
「ギターが入った瞬間、曲が動き出した感じはしました。だから、もう少しだけ……ピアノの最後の音が残っているところに、そっと入ってもらえたら」
「そっと」
「はい。プールに、足だけ入れるみたいに」
その例えで、急にわかった。
飛び込むんじゃない。
足だけ入れる。
冷たさを確かめる。水面を乱しすぎないように、でも確かに触る。
「もう一回」
僕はアンプのつまみをほんの少し下げた。今度は音量より、右手の力を抜くことを考えた。
「次は、足だけ」
「字面だけ聞くと変な決意だね」
リョウコが笑った。
ポンタが真顔で頷く。
「足だけギターっすね」
「名前をつけるな」
ショウがすぐに止めた。
二回目。
ミサキが弾く。
ぽん、ぽん。
低い和音。
僕は待った。
まだ。
まだ。
最後の音が、スタジオの空気に細く残っている。その細いところへ、ピックを軽く当てた。
ジャラン。
音は小さい。
でも、弱くはなかった。
ミサキのピアノの後ろから、僕のギターが顔を出す。水面に指を入れて、小さな波紋を作るみたいに、音が広がった。
ショウのベースが入る。
低い音が床を支える。さっきまでふわふわしていた場所に、急に足場ができた。
ポンタが、今度は一拍待ってからスネアを入れた。
タン。
それだけで、体が前へ出る。
リョウコが息を吸った。
「プールサイドに、風が吹いて……」
いつもの全力の声ではなかった。
でも、弱くない。
教室の隅で、誰かに秘密を打ち明けるみたいな近い声だった。
そこから二小節進んだところで、ポンタが我慢できずに小さなフィルを入れた。
タタッ。
リョウコの口元が一瞬笑いそうになり、僕もつられかけた。ショウの眉がぴくりと動く。でも、止まらない。
曲が進んでいた。
まだ荒い。まだ危ない。あちこちがはみ出している。
でも、はみ出した音まで含めて、僕たちの曲になろうとしていた。
サビ前で僕が少し強く弾きすぎた。しまったと思った瞬間、リョウコがそれを押し返すように声を上げる。ポンタのドラムが一瞬前のめりになり、ショウのベースがぐっと引き戻す。ミサキのピアノが、その隙間に光みたいな和音を落とした。
部屋の中で、音がぶつかっている。
でも、さっきみたいに壊れていない。
ぶつかりながら、同じ方向へ転がっている。
「プールサイド・ノイズ!」
リョウコがサビの仮歌を思い切り伸ばした瞬間、背中にぞわっと何かが走った。
鳥肌だった。
自分たちの音で、鳥肌が立った。
最後のコードを鳴らし終えたあと、誰もすぐには喋らなかった。
シンバルが細く揺れている。アンプのノイズが熱い。ミサキの指は鍵盤の上で止まり、リョウコはマイクを握ったまま肩で息をしている。
「……今の」
僕が言うと、ポンタが椅子から立ち上がった。
「ヤバいっす! 今の、完全に俺たちの曲っす!」
「まだ完成ではない」
ショウが言った。
でも、口元が少しだけ笑っていた。
「でも、入口は通れた」
リョウコが息を整えながら言う。
「うん。プール、入ったね」
その言葉に、ミサキが小さく笑った。
「足だけじゃなくて、膝くらいまで入りました」
「次は腰までっすね!」
「その次は飛び込みだ」
僕が言うと、リョウコが指を立てた。
「飛び込むのは、ちゃんと準備運動してからね」
「母さんみたいなこと言うな」
みんなで笑った。
その笑い声まで、スタジオの壁に跳ね返って、曲の続きみたいに聞こえた。
「もう一回」
僕は言った。
誰も反対しなかった。
「今度は録音する」
ショウがラジカセを床に置いた。赤い録音ボタンの横に指をかけ、マイクの向きを少しだけ調整する。
「うわ、現実が記録される」
ポンタが変なことを言う。
「記録しないと倒れる」
ショウが真顔で返した。
ミサキは鍵盤の前で深呼吸をした。リョウコはのど飴を一つ口に入れ、ポンタはスティックを握り直す。ショウは録音ボタンを押す準備をし、僕はピックを親指と人差し指の間で軽く回した。
五人で顔を見合わせた。全員、笑っていた。
まだ完成じゃない。
でも、最初のオリジナル曲の練習日は、もう始まっている。
ショウが録音ボタンを押した。
赤いランプが点く。
ミサキの指が、最初の音を鳴らした。
今度は、その音を壊さない。
音が入る場所を探して、そこへそっとギターの音色を置いた。
音が、スタジオの空気を揺らす。
そして、曲が動き出す。




