33.雨のピアノと、放課後の音楽室
# 33.雨のピアノと、放課後の音楽室
火曜日の放課後。
六時間目の古文が終わった瞬間、僕は机に突っ伏した。
「ぬう……」
「なに、その声」
隣の列からリョウコが笑う。
「古文が、僕の脳にディストーションをかけてくる」
「意味わかんない」
「でも、歪んでる感じはわかるだろ」
「そこだけはね」
リョウコは鞄に教科書をしまいながら、窓の外を見た。
昼過ぎから降り始めた雨が、まだ細く続いていた。校庭はすっかり色を失って、サッカーゴールの白だけがぼんやり浮かんでいる。プール前の金網も、今日は雨に濡れて静かに光っていた。
昨日、あそこでミサキにガンズ・アンド・ローゼズのCDを貸した。
ポッキーを五人でかじって、他愛ない話をして、彼女が「曲の前みたい」と言った。
あの言葉が、まだ耳の奥に残っている。
今日のお昼の会議も、大いに盛り上がった。
毎日、会議してるのに話すことがなくならないのがスゴイ。
一体、何話しているんだろうか…改めて考えると分からない。
「さぁ、帰ろうかなー」
リョウコと一緒に教室を出ると、廊下にはまだ授業の片付けをしている生徒がちらほらいた。
僕は鞄を肩にかけようとして、ふと廊下の向こうから聞こえてきた音に気づいた。
ピアノだった。
音楽室の方から、ぽつ、ぽつ、と水滴みたいな音がこぼれてくる。
派手な曲ではない。
どこかで聴いたことがあるようで、でも完全には知らない。短い和音がゆっくり鳴って、その後ろに、雨の線みたいな高い音がそっと落ちる。
僕は思わず顔を上げた。
「リョウコ、今の」
「聞こえた」
リョウコも同じ方向を見ていた。
僕たちは言葉を交わす前に、廊下へ出た。
音楽室は二階の端にある。普段なら吹奏楽部や合唱部の声で賑やかな場所だけど、今日は雨のせいか、廊下に人は少なかった。
階段の踊り場を曲がると、ポンタが濡れた前髪を手で払いながら走ってきた。
「先輩たち! 今のピアノ、聞こえました?」
「聞こえた。お前、なんで濡れてるんだ」
「購買まで走ったら、雨にやられたっす」
「傘は?」
「完全無欠の俺に傘など不要っす」
「必要だろ」
ショウの声が後ろからした。
振り返ると、ショウが黒い傘をきちんと畳みながら歩いてくる。なぜか制服の肩も靴もほとんど濡れていない。
「ショウ、いつの間に」
「雨の日は移動経路を最短にしないと現実が濡れる」
「現実って濡れるんすか」
「濡れる。お前を見ろ」
ポンタは自分の前髪から落ちた水滴を見て、「説得力あるっす」と小さく言った。
その間にも、音楽室からピアノは続いていた。
僕たちは自然と足を速めた。
音楽室のドアは少しだけ開いていた。中をのぞくと、窓際のグランドピアノにミサキが座っていた。
放課後の薄暗い光の中で、彼女の横顔だけが白く見える。窓の外では雨が細かく降っていて、ガラスを伝うしずくが、ピアノの黒い蓋にぼんやり映っていた。
ミサキは僕たちに気づいていなかった。
鍵盤の上で、彼女の指がそっと動く。
低い音が一つ。
それから少し間を置いて、高い音が二つ。
派手ではない。でも、その間の取り方が、昨日のプール前の風を思い出させた。
「……すげえ」
僕が小さく呟いた瞬間、ミサキの肩がびくっと跳ねた。
「あっ」
彼女は慌てて手を止め、振り返った。
「す、すみません。勝手に音楽室を使っていて」
「いや、謝ることないって。むしろ、もっと聴きたい」
僕が言うと、ミサキは困ったように目を伏せた。
「まだ、ちゃんとした曲じゃないんです」
「ちゃんとしてたよ」
「ケイタの『ちゃんとしてる』は信用しすぎると危ないよ」
リョウコが横から言う。
「でも、今のは本当にきれいだった」
その一言で、ミサキの表情が少しだけ柔らかくなった。
「昨日、貸していただいたCD、少しだけ聴きました」
ミサキはピアノの椅子に座ったまま、膝の上で指を組んだ。
「もう聴いたの?」
僕は思わず一歩前に出た。
「はい。全部はまだですけど、『ノーヴェンバー・レイン』は聴きました。1曲の中に物語があって、映画みたいで、本当、びっくりしました。でも……」
ミサキは言葉を探すように、窓の外の雨を見た。
「ピアノが、伴奏じゃないんですね」
「伴奏じゃない?」
リョウコが首を傾げる。
「はい。歌を支えるだけじゃなくて、景色を作っているみたいでした。雨の中に大きな建物があって、その中で音が響いているような……うまく言えないんですけど」
「わかる!」
僕は思わず声を上げた。
「そうなんだよ! あのピアノ、ただ後ろで鳴ってるんじゃなくて、曲の世界を作ってるんだよ!」
「ケイタ、顔がうるさい」
リョウコが即座に突っ込む。
「顔は音出してないだろ」
「出てる。今、完全に爆音だった」
ポンタが腕を組んで何度も頷いた。
「わかるっす。ケイタ先輩の顔、マーシャル三段積みっす」
「お前まで言うな」
ショウは黒板の横に寄りかかりながら、静かに言った。
「でも、ミサキちゃんの言い方はかなり的確だと思う。ロックの鍵盤を、単なる和音の補強としてではなく、空間を作る楽器として捉えている」
「空間……」
ミサキがその言葉を小さく繰り返した。
「そうかもしれません。私、昨日のプール前のことも思い出したんです。風の音とか、校庭の声とか、ポッキーをかじった音とか」
「ポッキーも入るんだ」
リョウコが笑う。
「はい。小さい音でしたけど、五人で同じタイミングだったので」
その言葉に、僕の胸がまた少し熱くなった。
昨日のあの、ぱきっ、という小さな音。
あんなものまで、ミサキの中では音楽の材料になっている。
「それで、少しだけ考えてみたんです」
ミサキはそう言って、鍵盤に手を置いた。
「『プールサイド・ノイズ』の最初に、こういう音があったらどうかなって」
僕たちは息を止めた。
ミサキの右手が、高い音を二つ鳴らす。
ぽん、ぽん。
少し間を置いて、左手が低い和音を静かに重ねる。
派手ではない。
でも、そこには確かにプール前の空気があった。
音が鳴っていない隙間まで、ちゃんと音楽になっている気がした。
僕なら、怖くなってすぐにギターを鳴らして埋めてしまう。何も鳴っていない時間があると、下手だと思われるんじゃないかと不安になるからだ。
でもミサキは違った。
彼女の指は、音を増やすためではなく、音が置かれる場所を決めるみたいに動いていた。
まだ水の張られていないプール。
金網に当たる風。
遠くの校庭の声。
そして、五人で立っていた昼休み。
僕の中で、昨日の景色が一気に音になった。
「これ、イントロにしたい」
気づいた時には、僕はそう言っていた。
ミサキは驚いたように振り返った。
「えっ、でも、まだ短いですし」
「短くていい。むしろ、そこからギターが入ったら絶対かっこいい」
僕はエアギターみたいに右手を振った。
「最初はそのピアノで、雨じゃなくて、プールの前の空気みたいなのがあって。そこに僕のギターが、こう、ざらっと入るんだよ」
「ざらっと?」
ショウが聞く。
「ざらっとだよ。歪んでるけど、邪魔しない感じ」
「それは技術的にはかなり難しい注文だな」
「余裕だよ。余裕」
リョウコがにやりと笑う。
「出た。余裕って言う時のケイタ、大体余裕じゃない」
「今回は余裕」
「じゃあ次のスタジオで証明してもらおうじゃん」
ポンタがドラムスティックを鞄から一本だけ取り出し、机の端を軽く叩いた。
「俺はそのあと、ドン、タッ、ドドンって入るっす!」
「音楽室の机を叩くな」
ショウがすぐに止める。
「すみませんっす」
ポンタは素直にスティックをしまった。
リョウコはピアノのそばに歩み寄り、ミサキの隣で鍵盤を覗き込んだ。
「このイントロのあと、あたしはどこから歌えばいい?」
「たぶん、二回繰り返したあとに、ふっと入るのがいいと思います」
ミサキは少し迷いながらも、鍵盤の上で指を動かして説明した。
「最初は一人でつぶやくみたいに。そこから、みんなの音が少しずつ増えていく感じで」
「いいじゃん」
リョウコが目を輝かせた。
「いきなり全力で歌うんじゃなくて、プール前でしゃべってるところから始まるみたいな感じだ」
「はい。そんな感じです」
ミサキが嬉しそうに頷いた。
「それなら、あたしも最初は少し抑えて歌う」
リョウコは雨の窓を見ながら、口の中でメロディを確かめるように小さく息を吸った。
「で、サビで一気に開く。プールの授業で、最初だけ冷たいけど、飛び込んだらもう平気、みたいな」
「リョウコの例え、急に体育になるな」
僕が言うと、リョウコは得意げに笑った。
「だってプールサイドだし」
その雑な理屈に、ミサキがふふっと笑った。
その顔を見て、僕は思った。
彼女はもう、助っ人ではない。
秘密の編曲者でも、ただコードをつけてくれる人でもない。
僕たちが見落としていた音を拾って、それを曲の入口にしてくれる人だ。
「よし」
ショウが眼鏡を押し上げた。
「次の練習で、このイントロを試そう。構成としては、ピアノ二回、ギター、ベース、ドラムの順で入る。ボーカルはそのあと。録音して、全員で確認する」
「急に現実が並び始めた」
リョウコが笑う。
「並べないと倒れる」
ショウは当然のように言った。
窓の外で、雨の音が少し強くなった。
ミサキはもう一度、さっきのフレーズを弾いた。
ぽん、ぽん。
低い和音。
雨の音と、ピアノの音が重なって、音楽室の空気が少しだけ変わる。
僕はその音を聴きながら、次のスタジオを想像した。
ミサキの鍵盤から始まって、僕のギターが入る。ショウのベースが床を支えて、ポンタのドラムが走り出す。リョウコの声が、その上にまっすぐ乗る。
まだ、うまくできるかはわからない。
でも、入口は見えた。
『プールサイド・ノイズ』は、もうただのタイトルじゃない。
僕たち五人が同じ場所を見て、同じ音を聴いて、そこから作り始める曲になろうとしていた。
「ミサキちゃん」
僕が呼ぶと、ミサキは手を止めてこちらを見た。
「そのイントロ、絶対に大事にしよう」
ミサキは少し驚いた後、ゆっくり笑った。
「はい。私も、そうしたいです」
雨はまだ降っていた。
でも、音楽室の中には、昨日のプール前の風がちゃんと吹いていた。




