32.プール前の五人目
# 32.プール前の五人目
月曜日の昼休み。
四時間目の終わりを告げるチャイムが鳴った瞬間、教室の空気がふっと軽くなった。
黒板の前で先生が「中間テストの範囲は次の授業で配るからな」と言った途端、クラス中から小さな悲鳴が上がる。僕もその一人だった。
でも、その悲鳴の奥で、僕の頭の中には別の予定が鳴っていた。
今日の昼休み、プール前。
ミサキにガンズ・アンド・ローゼズのCDを渡すのだ。
僕は弁当箱のふたを開けながら、机の横の通学カバンをちらりと見た。中には、昨日の夜から何度も確認したCDが入っている。ケースには細かい傷があり、歌詞カードの角も少し丸い。何度も聴いた跡が残っているその一枚の方が、僕らしい気もした。
「ケイタ、ニヤニヤしてる」
斜め前の席からリョウコが振り返った。
「してない」
「してる。弁当の卵焼き見ながら、ギターソロみたいな顔してる」
「卵焼きにギターソロはないだろ」
「ケイタならありそうだらぁ」
リョウコはそう言って、自分の弁当からミートボールをつまんだ。
僕たちはいつも、昼休みが始まるとまずそれぞれ教室で仲の良い友達で弁当を食べる。それから残り時間にプール前へ集合するのが、いつの間にか決まりになっていた。
プール前は校舎の裏手にあって、昼休みでも人が少ない。風が通るし、少しだけ学校の中心から外れた感じがして、バンドの話をするにはちょうどよかった。
今ではそこが、僕たち音庭ビートの仮の作戦本部みたいになっている。
「今日、ミサキちゃん来るかな」
僕がぽつりと言うと、リョウコが目を丸くした。
「来るでしょ。ポンタが昨日の夜、電話でしつこく誘ったって言ってたし」
「ポンタ、電話したのか」
「したらしいよ。『明日の昼休み、音庭ビート本部に集合っす!』って」
僕は箸を止めた。
「本部って言ったのか」
「言ったらしい」
「……ミサキちゃん、余計に怖がらないかな」
「そこは、まあ、ポンタだから」
リョウコが妙に納得した顔で頷いた。
僕たちは急いで弁当を片づけ、教室を出た。廊下には、購買でパンを買いそびれた男子の嘆き声や、テスト範囲を確認する女子たちの声が広がっていた。
階段を降り、渡り廊下を抜けると、空気が少し変わる。
校舎のざわめきが背中の方へ遠ざかり、代わりに、金網に当たる風の音が聞こえてくる。
プールにはまだ授業で使うほどの水は張られていない。色あせた青い底の隅で、少しだけたまった水が昼の光を受けてきらきらしていた。夏の本番前の、妙な期待だけが先に漂っている。
「おーい、先輩たち! こっちっす!」
金網の近くで、ポンタが大きく手を振っていた。
その横に、ショウがいつものように眠たそうな顔で立っている。さらに、そこから少しだけ離れた場所に、紺色のスカートの裾を両手で軽く押さえながら、ミサキが立っていた。
「あ、こんにちは」
ミサキは、ぺこりと頭を下げた。
いつもの教室の中で見るより、外の光の下にいる彼女は少しだけ眩しそうだった。風に前髪が揺れて、肩にかけた小さなバッグの紐をきゅっと握っている。
「ミサキちゃん、来てくれたんだ」
僕が声をかけると、ミサキは少しだけ頬を赤くした。
「はい。ポンタくんが、ここが本部だって言うので」
「ほら! 俺の案内、完璧っす!」
ポンタが胸を張る。
「本部というほどの設備はないけどな。椅子も机もない」
ショウが淡々と言った。
「夢と風通しはあるじゃん」
リョウコが金網に手をかけ、プールの方を見た。
「あと、たまに先生に見つかるスリル」
「それは設備じゃない」
ショウの突っ込みに、僕たちは笑った。
ミサキも、少し遅れて口元を押さえた。声は小さかったけれど、ちゃんと笑っていた。
「そうだ。約束のやつ」
僕はカバンからCDを取り出した。
黒いジャケットのケースを両手で持って、ミサキに差し出す。
「ガンズ・アンド・ローゼズ。昨日言ってたやつ。傷は多いけど、中身は最高だから」
「ありがとうございます」
ミサキはまるで図書室で大事な本を受け取るみたいに、両手でそっとCDケースを受け取った。
「これが、ロックバンドのピアノ……」
「そう! 特に『ノーヴェンバー・レイン』な。イントロのピアノがもう、雨ぽいっていうか、とにかくすごいんだよ」
「ケイタ、語彙が全部『すごい』になってる」
リョウコが笑う。
「すごいものはすごいんだよ」
「そこは否定しないけど」
ミサキはケースの裏側をじっと見ていた。英語の曲名が並んでいるから、少し難しそうな顔をしている。
「あの、全部聴いた方がいいですか?」
「もちろん全部聴いてほしいけど、まずはその曲だけでもいいよ。もし音が大きかったら、最初は小さめで」
「はい。しっかり聴いてみます」
その言い方が、なんだか彼女らしかった。ミサキはきっと、音の森の中から一本の細い光みたいにピアノを見つけるのだろう。
「さて」
ショウがそこで、持っていたビニール袋をがさりと持ち上げた。
「今日は僕から差し入れがある」
「えっ、ショウが?」
僕とリョウコの声が揃った。
ショウは普段、こういうことを自分からするタイプではない。必要最小限のものだけを買って、余計なお菓子には見向きもしない。そのショウが、差し入れ。事件だった。
「なんだよ、その反応は」
「いや、ショウが差し入れって、なんか天気予報が外れて雪降るみたいな感じで」
「失礼だな」
ショウは眉を少しだけ寄せながら、袋の中から赤い箱を取り出した。
「ポッキーだ」
「おおー!」
ポンタが目を輝かせた。
「しかも普通の赤いやつ! 王道っすね!」
「購買に残っていたのがこれだけだった」
「理由がショウらしい」
リョウコが笑いながら箱を受け取った。
「でもありがと。五人で分けるにはちょうどいいじゃん」
「新メンバー歓迎会ということで…」
ショウは何でもない顔でそう言った。
その言葉に、ミサキがぱちりと瞬きをした。
「新メンバー……」
小さな声だった。
でも、その一言はプール前の風の中で、不思議なくらいはっきり聞こえた。
「そうだよ。ミサキちゃんはもう、音庭ビートの五人目だらぁ」
リョウコがポッキーの箱を開けながら言った。
「秘密の編曲者じゃないんですか?」
ミサキが少し戸惑ったように聞く。
「秘密でもいいけど、僕たちは知ってるからね」
僕は笑って言った。
「少なくとも、ここにいる四人にとっては、もう普通にメンバーだよ」
「完全無欠の五人編成っす!」
ポンタがビシッと親指を立てる。
リョウコが箱を回して、みんなに一本ずつポッキーを配った。最後にミサキの手にも、細いチョコの棒が一本乗る。
「じゃあ、ミサキちゃん歓迎ポッキーってことで」
リョウコが自分のポッキーを軽く掲げた。
「せーの!」
僕らは、五人で同時にポッキーをかじった。
ぱきっ。
五本分の小さな音が、プール前に重なった。
たったそれだけのことなのに、妙に楽しかった。
ライブハウスで爆音を鳴らした時とも、スタジオで曲が形になった時とも違う。もっと軽くて、どうでもよくて、でも忘れたくない感じの音だった。
「うまいっすねー。ポッキーって、なんで二本目から急に止まらなくなるんすかね」
ポンタが早くも二本目に手を伸ばす。
「お前は一本目から止まる気がないだろ」
僕が言うと、ポンタは口の端にチョコをつけたまま首を振った。
「違うっす。これはグルーブっす」
「お菓子にグルーブを持ち込むな」
ショウが呆れた顔をする。
ミサキは、ポッキーを両手で持って、少しずつかじっていた。リスみたいだと思ったけれど、口に出したらリョウコに怒られそうなので黙っておいた。
「ミサキちゃん、チョコ苦手じゃない?」
ショウが聞く。
「大丈夫です。甘すぎないから、食べやすいです」
「よかった。歓迎の品で苦手なものを渡したら、現実が倒れるところだった」
ショウが真顔で言う。
「出た、ショウ語録」
リョウコが笑う。
「現実は並べないと倒れる、だっけ?」
「お菓子も人数分並べないと揉める」
「それは普通に正しい」
僕たちは金網にもたれたり、プール脇の低い段差に腰を下ろしたりしながら、ポッキーの箱を回した。
「そもそも、チョコ嫌いな人なんて居ないよ!」
リョウコが言うと、ポンタがすかさず反論する。
「いますよ…チョコ・アレルギーの人とか…???」
「クラスに誰かいた?」
「身近で聞いたことはないけど…」
そんな会話をしているうちに、ポッキーはあっという間に空になった。
風が吹くたびに、プールの底にたまった水がわずかに揺れる。
遠くの校庭からは、サッカーをしている男子たちの声が聞こえた。校舎の方からは、誰かが窓を開ける音。職員室のスピーカーから、昼休みの放送の音楽がうっすら漏れてくる。
その全部が混ざって、プール前の空気を作っていた。
「この場所、ほんとにいいですね」
ミサキが、ぽつりと言った。
僕たちは自然と彼女の方を見た。
「人が少ないから、最初はちょっと怖い場所なのかなって思ってたんです。でも、風の音とか、校庭の声とか、プールの水の音とか、いろんな音が少しずつ聞こえて……」
ミサキはそこで言葉を探すように、手に持った最後のポッキーの先を見つめた。
「なんだか、曲の前みたいです」
「曲の前?」
僕が聞き返す。
「はい。まだメロディにはなってないけど、音が集まっている感じがします」
その言葉を聞いた瞬間、僕の胸の奥が少しだけ熱くなった。
僕たちにとってプール前は、ただの集合場所だった。
昼休みに集まって、選曲会議をして、バンド名を考えて、ライブの話をして、くだらないことで笑う場所。
でもミサキの耳には、ここがもう音楽の手前みたいに聞こえている。
「それ、いいな」
僕は思わず言った。
「『プールサイド・ノイズ』って、そういう曲にしたいんだよ。うまく言えないけど、教室とか、廊下とか、プール前とか、僕たちの半径五メートルにある音が、全部ちょっとずつ混ざってる感じ」
「そうっしょ? 半径五メートルのロックだらぁ」
リョウコが嬉しそうに言った。
「五メートルだと、ドラムセットがぎりぎり入らない可能性がありますね」
ミサキが真面目な顔で言った。
一瞬、全員が黙った。
それから、僕たちは一斉に吹き出した。
「ミサキちゃん、そこ心配するんだ!」
「入るっす! 俺、コンパクトに叩くっす!」
「ポンタがコンパクトに叩いたら、それはもうポンタじゃない」
「ひどいっす、ショウ先輩!」
ミサキは、自分の言葉が笑われたのではなく、みんなの輪の中に入ったのだとわかったらしい。少し恥ずかしそうにしながらも、前よりずっと自然に笑っていた。
僕はその顔を見て、何かがちゃんと始まった気がした。今日のプール前で、彼女は初めて、僕たちがいつも立っている場所に立った。曲の中に、新しい風の通り道ができたみたいだった。
「そういえばさ」
リョウコが無くなったポッキーの空箱を名残惜しそうに目で追った後、急に僕を見た。
「ケイタ、ミサキちゃんにCD貸すのはいいけど、ちゃんと返却期限とか決めた?」
「いや、いつでもいいよ」
「ダメだよ。ケイタ、貸したもの忘れるじゃん。この前、ショウに貸したカセットも三ヶ月くらい行方不明になってたし」
「あれはショウの部屋で発掘されたんだろ」
「お前がタイトルを書かずに渡したからだ」
ショウがすぐに反論する。
「じゃあ、一週間くらいでお返しします」
ミサキが真面目に言った。
「いやいや、そんな急がなくていいよ」
「でも、ちゃんと聴いて、感想も言いたいので」
感想。
その言葉に、僕のテンションがまた上がりそうになった。
「マジで? じゃあ来週、プール前でガンズ感想会やろうぜ!」
「また会議名が増えた」
ショウがつぶやく。
「いいじゃん。ガンズ感想会。あたしも、もう一度しっかり聴いてみようっと。」
リョウコが言うと、ポンタがすかさず身を乗り出した。
「じゃあ俺もX JAPAN持ってくるっす! みんなでピアノロック研究会っす!」
「お前はまず数学研究会に参加しろ」
ショウの一言で、ポンタの顔が一気に曇った。
「うわっ、現実が倒れたっす」
「自分で並べろ」
僕たちはまた笑った。
昼休みの終わりを告げる予鈴が、校舎の方から鳴った。
「あ、戻らなきゃ」
ミサキがCDを大事そうにバッグへしまう。
「ミサキちゃん、また明日も来れる?」
リョウコが何気なく聞いた。
ミサキは少しだけ考えてから、こくりと頷いた。
「はい。お弁当を食べた後で、また来ます」
その返事が、僕にはとても嬉しかった。
特別な約束ではない。
ライブでも、練習でも、作曲会議でもない。
ただ、昼休みに弁当を食べてから、プール前に来る。
それだけのことが、バンドにとってこんなに大事なことになるなんて、少し前の僕は知らなかった。
「よし。じゃあ明日も本部集合だな」
僕が言うと、ポンタが拳を上げた。
「音庭ビート本部、永久に不滅っす!」
「永久は大げさ」
「じゃあ中間テストまで不滅っす!」
「短いな」
ショウの突っ込みに、リョウコが笑い、ミサキも笑った。
僕たちは校舎へ向かって歩き出した。
プールの金網が背中の後ろでかすかに揺れている。
僕は歩きながら、ちらりとミサキを見た。
彼女はまだ少し遠慮がちだったけれど、もう輪の外にはいなかった。
リョウコの隣を歩き、ショウの言葉に頷き、ポンタのくだらない宣言に笑っている。
プール前の風が、五人分の足音を校舎の方へ押していく。
僕たちの曲は、まだ完成していない。
でも、今日の昼休み、確かに一つ音が増えた。
ポッキーをかじる小さな音。
ミサキの笑い声を包括した、メンバーみんなの笑い声。
そして、プール前に五人で立っていた時間。
それら全部が、いつか『プールサイド・ノイズ』のどこかに混ざってくれたらいい。
僕はそんなことを考えながら、午後の授業へ向かった。




