36.次の曲の種
# 36.次の曲の種
月曜日の昼休み。
僕たちはいつものように、それぞれの教室で弁当を食べ終えてから、プール前に集まった。
土曜日のスタジオ練習から、まだ二日しか経っていない。
それなのに、僕の頭の中ではずっと、テープの音が鳴っていた。
サーッという雑音。
ミサキのピアノ。
僕の少し大きすぎるギター。
ポンタの走り気味のドラム。
リョウコの「プールサイド・ノイズ!」という仮歌。
そして、ショウの「失敗が残っているから、次に進める」という言葉。
授業中も、黒板の文字が全部五線譜に見えるくらいだった。数学の二次関数のグラフでさえ、ギターのチョーキングに見えた。
「ケイタ先輩、顔が作曲してるっす」
プール前に着くなり、ポンタが僕を指さした。
「顔で作曲できたら楽でいいな」
「できそうじゃないっすか? 眉毛がコード進行で、口元がリフっす」
「人の顔を譜面にするな」
ショウが金網にもたれながら言った。
今日はよく晴れていた。プールにはまだ本格的な水は張られていないが、底の隅に残った水が光っている。風が吹くと、金網がかすかに鳴る。
少し遅れて、リョウコがやってきた。
胸にノートを抱えている。
そのノートを見た瞬間、僕たちは一斉に姿勢を正した。
「おお」
ポンタが声を漏らす。
「リョウコ先輩、例の歌詞ノートっすね」
「そう。土曜の夜と日曜で、ちょっと直してきた」
リョウコはプール脇の低い段差に腰を下ろし、ノートを開いた。鉛筆で書いた文字と、消しゴムの跡と、矢印と丸が、ページいっぱいに広がっている。
ミサキも少し離れて座り、鞄からシャープペンを取り出した。
「すごいです。たくさん書いてありますね」
「書いたというか、散らかしたというか」
リョウコは苦笑した。
「『届く距離』は、ちゃんと入れた」
その言葉に、ミサキが少しだけ目を伏せた。嬉しそうだった。
僕はノートを覗き込む。
そこには、まだ完成ではない歌詞が並んでいた。
プールサイドに風が吹いて。
届く距離で鳴っている。
笑い声と、チャイムのあと。
ノイズみたいな僕らの声。
「いいじゃん」
僕は思わず言った。
「かなりいい」
「まだ直すよ」
リョウコは鉛筆の先でページの端を叩いた。
「ここ、説明っぽいし。こっちはメロディに乗せると字余りになるし。あと、このへんは没」
彼女はページの下の方を指した。
そこには、線で消された言葉がいくつも残っていた。
放課後の影。
チャイムのあとでほどける空。
五メートル先の君。
自転車置き場の夕焼け。
帰り道の風。
ポッキーの音。
「没って言うにはもったいないな」
ショウが言った。
「資産だ」
「資産?」
ポンタが首を傾げる。
「使わなかった言葉は、次に使える可能性がある。捨てる必要はない」
「つまり、没フレーズ貯金っすね!」
「言い方は軽いが、まあそうだ」
リョウコがノートを見下ろした。
「次、か」
その一言に、僕の胸が跳ねた。
次。
まだ『プールサイド・ノイズ』も完成していないのに、その言葉だけで、プール前の空気が少し変わった気がした。
「次の曲!」
ポンタが立ち上がった。
「いいっすね! もう作りましょう! 二曲目!」
「早い」
ショウが即答する。
「一曲目がまだ完成していない」
「でも、考えるだけならタダっす!」
「スタジオ代はかからないな」
「でしょ!」
ポンタはなぜか勝ち誇った顔をした。
リョウコが笑いながら、ノートを開いたまま言う。
「じゃあ、ちょっとだけ。『プールサイド・ノイズ』の邪魔にならない範囲で、次の曲の『種』だけ考える?」
「種!」
僕はその言葉に食いついた。
「いいな。曲の『種』。まだ曲じゃないけど、植えたら何か出てくるやつ」
「ケイタ、急に園芸部」
「音庭ビートだからな」
「うまいこと言ったつもりだらぁ」
リョウコに笑われたが、僕は少しだけ本気だった。
音庭。
音の庭。
そこに種をまくなら、次の曲も僕たちらしいものになる気がした。
「はいはい! 俺、案あります!」
ポンタが手を高く上げた。
「完全無欠のドラムソロから始まる曲っす! タイトルは『完全無欠ビート』!」
「却下」
リョウコが即答した。
「早いっす!」
「歌が入る場所がない」
「ドラムソロの合間に入ればいいじゃないっすか」
「それ、あたしが隙間産業みたいじゃん」
僕は笑いながら手を挙げた。
「じゃあ、疾走する青春パンク。最初から最後まで全力で、ギターがジャーンって鳴って、サビでみんなで叫ぶ」
「それ、ケイタがやりたいだけだろ」
ショウが言う。
「もちろん」
「正直なのは良いが、次の曲もそれだと一曲目との差が出にくい」
「うっ」
痛いところを突かれた。
リョウコはノートの没フレーズを眺めながら言った。
「あたしは、もう少し歌いやすいやつがいいな。『プールサイド・ノイズ』はさ、最初に抑えて、サビで開く感じでしょ。次は、最初から明るくて、みんなが口ずさめるやつ」
「ポップ寄りか」
ショウが頷く。
「テンポは速すぎない方がいい。ポンタが走るから」
「俺、名指しっすか!」
「事実だ」
ミサキは少し考えてから、ノートの端を指した。
「私は、この『帰り道の風』という言葉が好きです」
「あ、それ没にしたやつ」
リョウコが言う。
「でも、響きがきれいです。プール前とは少し違って、練習が終わったあととか、学校から帰る時の感じがします」
「帰り道か」
僕はプールの向こうを見た。
放課後の自転車置き場。
夕焼け。
ギターケースを背負った帰り道。
リョウコのノート。
ポンタのうるさい声。
ショウの冷静な突っ込み。
ミサキが少し後ろから歩いていて、でもちゃんと会話に入っている感じ。
「それ、いいかも」
僕は言った。
「『プールサイド・ノイズ』が昼休みの曲なら、次は放課後の曲」
「おお!」
ポンタが目を輝かせる。
「放課後ビートっすね!」
「タイトルが雑」
リョウコが笑う。
「でも方向はいいかも。昼休みの次が放課後」
ショウが金網に背中を預けたまま、少しだけ考える顔をした。
「一曲目が、近い距離で鳴っている音の曲だとしたら、二曲目は、その距離が少し伸びる曲でもいい」
「伸びる?」
「昼休みは、同じ場所に集まる。放課後は、それぞれ帰る。でも、同じ曲を持って帰る」
ショウがそこまで言うと、リョウコが鉛筆を止めた。
「それ、いい」
彼女は没フレーズの横に、新しく文字を書いた。
同じ曲を持って帰る。
「ショウ、たまに歌詞みたいなこと言うよね」
僕が言うと、ショウは少し嫌そうな顔をした。
「たまにでいい」
ミサキが小さく笑った。
「でも、本当にいいと思います。帰り道で、それぞれ違う方向に歩いても、さっきまで一緒に鳴らしていた音が残っている感じ」
「それだ」
リョウコが言った。
「次の曲、そういうのがいい」
「タイトルは?」
ポンタが身を乗り出す。
「まだ決めない」
四人の声が揃った。
「なんでっすか!」
「お前が変なタイトルをつける前に止めた」
ショウが言う。
「完全無欠帰り道ビート、いいと思うんすけど」
「長い」
「しかも完全無欠が邪魔」
リョウコが即座に切った。
僕は笑いながら、ノートの端に並ぶ没フレーズを見つめた。
『プールサイド・ノイズ』に入らなかった言葉たち。
でも、それらは失敗ではなかった。
テープの中の僕たちの失敗が次へ進むために必要だったように、ノートの中の没フレーズも、次の曲へ進むための種なのだ。
「じゃあ、とりあえず」
リョウコがノートを閉じかけて、また開いた。
「次の曲候補。テーマは、放課後、帰り道、同じ曲を持って帰る。タイトル未定」
「タイトル未定ってタイトルっぽいっすね」
ポンタが言う。
「それはそれでありかも」
僕が言うと、ショウが首を横に振った。
「混乱する」
ミサキが、シャープペンで小さくメモを取っていた。
「ミサキちゃん、何書いてるの?」
リョウコが聞く。
ミサキは少し照れながら、ノートを見せた。
そこには、丁寧な字でこう書いてあった。
帰り道の風
同じ曲を持って帰る
輪の外から、輪の中へ
僕は最後の一行を見て、少し息を止めた。
「輪の外から、輪の中へ」
声に出すと、ミサキが慌てたように顔を上げた。
「あ、すみません。それは、なんとなく書いただけで」
「いや」
リョウコが首を横に振る。
「それ、ミサキちゃんの言葉だ」
ミサキは目を瞬かせた。
「私の、ですか?」
「うん。あたしたちが勝手に使うんじゃなくて、ちゃんと覚えておきたい言葉」
リョウコはそう言って、自分のノートにも同じ言葉を書いた。
輪の外から、輪の中へ。
プール前の風が、ページを少しだけめくった。
僕はその言葉を見ながら、ミサキが初めて一年生の教室で怯えていた時のことを思い出した。ガストでメロンソーダを両手で持っていたこと。スタジオの音に驚いていたこと。ポッキーを少しずつかじっていたこと。
今、彼女は僕たちの輪の中で、次の曲の種を一つ置いた。
「二曲目、面白くなりそうだな」
僕が言うと、ポンタが拳を握った。
「完全無欠に面白くするっす!」
「だから完全無欠は歌詞に入れない」
リョウコが即答する。
「まだ何も歌詞決まってないのに!」
みんなで笑った。
昼休みの終わりを告げる予鈴が鳴る。
僕たちは慌ててノートを閉じ、校舎へ戻る準備をした。
『プールサイド・ノイズ』はまだ完成していない。
ギターも、ドラムも、ピアノも、歌詞も、直すところだらけだ。
でも、次の曲の種は、もうプール前に落ちた。
放課後。
帰り道。
同じ曲を持って帰る。
輪の外から、輪の中へ。
それらの言葉を胸の中で転がしながら、僕は校舎へ向かって歩いた。
ポンタが前で騒ぎ、リョウコがそれを笑い、ショウが静かに突っ込み、ミサキがその横で小さく笑っている。
まだ曲じゃない。
でも、確かに何かが始まっていた。




