29.アコースティックギターと「G7」
# 29.アコースティックギターと「G7」
火曜日の放課後。
僕とリョウコは、生徒がほとんど帰って静まり返った空き教室にいた。
机の上には、録音用のラジカセ。そして僕の膝の上には、親父のお下がりである年代物のヤマハのアコースティックギターが乗っている。
「じゃあ、いくよ。テイク3」
僕がラジカセの赤い録音ボタンを押すと、テープが回り始める小さな音が教室に響いた。
ピックを使わず、親指の腹で優しく弦を弾く。
いつもアンプから出している暴力的なディストーションとは対極にある、木箱が鳴るような温かくて素朴な音色。それに合わせて、リョウコが少しウィスパーボイス気味に歌い始めた。
『プールサイドのノイズ、響くベース、私たちの5メートル……』
静かなアコースティックの伴奏に乗せると、昨日スタジオで暴れていたのと同じメロディとは到底思えなかった。剥き出しの言葉が、スッと耳に入ってくる。
順調にAメロからBメロへと進む。
しかし、サビへと向かう展開の部分で、僕はまたしてもギターの手を止めてしまった。
「あー、ごめん。ストップ」
ラジカセの録音を止める。
「また? 歌のタイミングずれた?」
リョウコが首を傾げる。
「いや、違うんだ。Bメロからサビに行く直前のコード進行が、どうしてもうまく繋がらない。ノイズで誤魔化してた時は気にならなかったんだけど……アコギで丸裸にすると、コードの移り変わりが不自然で気持ち悪いんだよ」
僕の手癖で弾けるコードは限られている。CからFへ飛んでみたり、Emを挟んでみたりしたが、どれもパズルがハマらないような違和感があった。
「メロディがここで少し上がるから、和音も一緒に引っ張ってくれるような響きが欲しいんだけど……」
僕が何度か弦をポロポロと鳴らして悩んでいると。
「あの……」
突然、開け放たれた教室のドアの隙間から、消え入るような小さな声が聞こえた。
ビクッとして振り返ると、そこには昨日の昼休みに脱兎のごとく逃げていった、あのミサキが立っていた。廊下の壁に隠れるようにして、こちらの様子を伺っている。
「あ! ミサキちゃん!」
リョウコが立ち上がると、ミサキは「ひっ」と肩を竦めて一歩後ずさった。
「ご、ごめんなさい……あの、通りかかったら、歌が聴こえてきて……」
彼女は胸元で両手をギュッと握りしめ、顔を真っ赤にしている。
「あ、いや、こっちこそ昨日は急に脅かしてごめん! 今日は叫ばないし、何にもぶっ壊さないから! 安全だから!」
僕が慌てて両手を振って弁明すると、彼女は少しだけ警戒を解いたように見えた。
「その……さっきのギターのところ」
ミサキは、蚊の鳴くような声で言った。
「え?」
「サビに向かうところ……ただのGじゃなくて、G7(ジー・セブンス)を入れると……和音が解決に向かうので、メロディが自然に繋がると思います……」
「G7……」
僕は言われた通り、Gのコードに小指を足して、7番目の音を加えた和音を鳴らしてみた。
そしてそのまま、サビの頭のCコードへと繋ぐ。
ジャラーン……ジャン!
「おおっ……!!」
僕とリョウコは、同時に声を上げた。
たった一音、指を一本足しただけなのに。次に向かうべき音への「引力」みたいなものが生まれ、サビのメロディへと劇的に、そして滑らかに引っ張っていってくれたのだ。
「すごい! 良い感じになったね」
リョウコが目を輝かせる。
「マジか……これが、和音の力……」
僕も呆然とギターの指板を見つめた。
僕たちの反応を見て、ミサキは少しだけホッとしたように、頬を緩めた。
「……昨日の『ノイズ』っていう言葉が怖くて、逃げちゃいましたけど。さっきの歌は、全然ノイズなんかじゃなかったです。……とても綺麗な、歌でした」
彼女はそれだけ言うと、ペコリと深く頭を下げて、今度こそ小走りで廊下の奥へと去っていった。
「……ショウの言った通りだったな」
僕は、まだG7の余韻が残るギターを撫でながら言った。
「うん。無理やり踏み込むんじゃなくて、私たちの音楽を届ける……大成功じゃない?」
リョウコが嬉しそうに微笑む。
僕たちは顔を見合わせ、もう一度ラジカセの録音ボタンを力強く押し込んだ。
アコースティックギターと、一つのG7。それだけで、頑なだったピアノ少女の心の壁に、確かに小さな扉が開いた瞬間だった。
## 新しいメロディの予感
帰宅後。僕は自分の部屋のベッドの上であぐらをかき、親父のお下がりのアコースティックギターをジャカジャカと鳴らしていた。
普段の僕なら、エレキギターをアンプに繋いで、歪んだノイズで適当なパワーコードをかき鳴らすだけで満足していた。でも、今は違う。
(ジャーン、ジャーン……)
CからF、そしてGへ。
昼間の空き教室で、ミサキちゃんに教えてもらった『和音の引力』を意識しながら、ゆっくりとコードを弾いてみる。
先週のスタジオでのジャムセッションで、ただノイズを鳴らすだけでは曲に『展開』が生まれないことを痛感した。でも、アコースティックギター特有の豊かな木の響きを聴いていると、なんだか頭の中が少しクリアになっていく気がした。
コードを何度も繰り返し弾き、その響きの波に身を委ねてみる。
すると、不思議なことに、今まで僕の中には全く存在しなかった「新しいメロディ」が、フワッと頭の中に浮かんできた。
「……あ、これ、いいかも」
僕は慌ててカセットテープレコーダーの録音ボタンを押し、浮かんできたメロディを口ずさみながらギターを弾いた。
もちろん、まだ名曲とは程遠い、ただの鼻歌みたいなものだ。でも、今までブルーハーツやニルヴァーナの真似事しかできなかった僕が、初めて自分自身の内側からメロディを引っ張り出せた瞬間だった。
「なんか……少しだけ、作曲のコツがわかってきた気がするぞ」
ギターの木の匂いと、G7の余韻。
少しずつ形になっていく『プールサイド・ノイズ』のメロディに胸を高鳴らせながら、僕は夜遅くまで、時間を忘れてアコギを弾き続けたのだった。




