帰る場所。
「ぷわっ……!あ……熱いッ!……シャズさん!?」
ゲホゲホと喉を鳴らし、セイムは岩肌に倒れ込んでいた体を勢いよく起こしました。
まだ溺れている最中なのかと身構え、しきりに瞬きを繰り返します。
しかし、彼の予想に反して、全身を包んでいた激流はすでになくなっていました。
立ち上る湯気の向こう側に、薄暗い岩肌が見えています。
それはほとんど直角に聳えていた坑道の深い裂け目。
こんこんと湧き出る湯水がたまって、今では、まるで天然の湯船のようになっていました。
「起きたか。いつまでそんな恰好をしてるつもりだ。さっさと脱げ」
視界の外から。
あるいは、湯気の向こうから、呆れたような声が降ってきました。
ハッと振り返ると、そこにはすでに衣服を脱ぎ捨て、全裸のシャズの姿がありました。
その肉体はやはり頑健で、もうもうと立ち込める湯気の中では、もはや岩との境界も曖昧です。
セイムは目を瞬かせました。
「シャズさん……?いったい、なにをしてるんです?」
上半身を起こし、まるで狐につままれたかのように尋ねます。
ぐっしょりと濡れた衣服から水滴が滴り、熱く湿った空気が彼の肺を満たしました。
「わからないのか。俺たちが掘り当てたのは温泉だ」
あまりにも当然と言った顔で、シャズが答えます。
セイムの口から、間の抜けた声が漏れました。
「……温泉」
「そうだ」
指先でちゃぷちゃぷと波紋を広げているのは、つい先ほどまで自分たちを飲み込もうとしていた地下の大水です。
記憶を巡らせてみても、身体を打ち付けたのが岩であったのか、飛び出た杭であったのか、まるで定かではありません。
ただ、一歩間違えれば、取り返しのつかないことになっていたのかもしれないということだけは、セイムも理解していました。
辺りを包む熱気に反して、背筋に走るぞっとするような冷たいものを感じずにはいられません。
その一方で、目の前の男は、まるで自宅の浴室にでもいるかのような態度を取っています。
彼にとって、起きなかった未来などもはや考える必要など欠片もないのでしょうか。どこか呆然としたセイムの様子を気に留める風もなく、シャズは湯気の中に視線を投げました。
「俺たちが掘り当てたんだ。最初に入る権利くらいはあるだろう」
どこか満足げに呟き、足先を湯に浸しながらシャズは続けます。
「これで冷めた風呂とも、纏わりつく髪の毛とも無縁だな、セイム」
セイムは、湯気の向こうで見たこともない表情を浮かべているシャズの顔をまじまじと見ました。
それはやはり、幻か、夢の類に見えました。
「……僕は、別に気にしてませんでしたけど」
「いいか、セイム」
「はい」
「女を豚に変えるのは、いつでも俺たちだ。奴らが豚にならないように、俺たちは気をつける必要がある」
悠然と湯船へと侵入を果たしながら、そう告げるシャズ。
夢じゃない。
どういうわけか、セイムはその時確信しました。
そうと決まれば、服を着たまま風呂に入る者など、どこに存在したでしょう。
湯気の中で立ち上がったセイムは、お湯と泥とでぐしゃぐしゃになった衣服を一枚ずつ脱ぎ捨てていきました。
濁った水の流れを踏みつけながら、そっと片足をお湯に浸します。
ぴりぴりとつま先を痺れさせる熱気が、足先からゆっくりと血の巡りを呼び戻していくようでした。
固く鋭い岩肌を踏みしめ、腰までお湯に身体を沈めたとき、全身に鈍痛が走りましたが、熱く新鮮なお湯に浸かる心地よさは、ざっと、その十倍に匹敵しました。
湯気の向こうからシャズの声が響きます。
「宿でもやろう。お前、明日街に行って宣伝してこい。できれば二~三人、客も連れてこい」
ぶっきらぼうな言葉の意味を、セイムは静かに反芻します。
宿。
街。
宣伝。
そして、ニ~三人のお客様。
ありえないほどたっぷりのお湯に肩までつかりながら、セイムはシャズへと視線を傾けます。
「送迎はウルキラですか?」
湯気の向こう、男の横顔は真剣でした。
「当たり前だ」
「……そうですか」
セイムは水面に浮かぶ一枚の枯れ葉を見つめていました。
いつ落ちたものなのかもわからないそれは、じわりじわりと、水面とともに上昇を続けています。
大雑把な動作で顔を拭いながら、頑健な男は続けます。
「行きは俺も同行する。土産を持たせるから、あとはお前が説明しておけ」
岩肌に背を預けながら、シャズは重々しく腕を組みました。
その様子を、セイムは横目で見ています。
「わかりました。でも、寂しがると思います。ピナさん」
「……ピナが?」
「はい」
「ふん」
シャズは喉の奥で短く唸ると、組んだ腕のまま壁に後頭部を預け、静かに両目を閉じました。
「セイム」
唐突に名を呼ばれ、セイムは聞く姿勢を整えました。
「はい」
やがて彫刻のように動きを止めた男は、珍しく饒舌に語り始めます。
「いつかは忘れたが、ピナと街に買い物に出かけたことがあった」
「はい」
「服屋だ。奴に合う服を買いに行った」
「はい」
「だが、上半身はともかく、あのデカいケツだ。当然、合うものなんかなかった。それでもピナは店の主に聞いたんだ。自分に合う服はないかと」
「はい」
「店主の顔には冷や汗が噴き出していた。それでも店主はメジャーを広げ、あいつの身体をあちこち測り始めた」
「……」
規則正しく続いていたセイムの相槌が、そこで途切れました。
シャズは気に留めた様子もなく、目を閉じたまま話を続けます。
「しばらくして、店主が奥から一枚の布を持ってきてカウンターの上で広げた。店主は大まじめに言う『これなどはいかがでしょう?』俺は笑いをこらえるのに必死だった。どこからどう見ても持ってきたのは服じゃない、バカでかいテーブルクロスだったからだ」
「……」
「置かれた布の端を摘まんで、ピナは眉をしかめた。店主と向き合い、ピナはこう言った。『これじゃあお尻が見えちゃうわ。同じ柄のカーテンはないのかしら?』」
語り終えると同時に、シャズは喉の奥をガラガラと鳴らして笑いました。
セイムは黙ってその横顔を見つめました。
―――ずいぶん、楽しそうだ。
少なくとも、ピナが寂しがらない理由については、何一つ聞けていないような気もしました。
話をはぐらかされてしまった感も否めません。
しかし、少年は努めて行儀よく答えます。
「わかりました、ピナさんには僕からお伝えしておきます」
シャズは両手ですくい上げたお湯で顔を洗い、最小限の動作で頷きました。
セイムもシャズの真似をして、顔を流してみます。
土の香りが染み込んだお湯は温かく、また清潔でした。
『シャズ―!シャーズー!』
乾いた大地、剥き出しになった裂け目に響くピナの声。
シャズは湯気の向こうにいるであろう彼女に対して返事をしました。
「ここだ!!」
返事の代わりに、硬い岩肌を鳴らすリズミカルな蹄の音が段々と響いてきました。
やがて、湯気の中からピナが姿を現しました。
彼女に続いて、ジゼル、そして、アリーの姿もありました。
三人とも、頭から水を被ったようにずぶ濡れでした。
「シャズ!」
湯気の中から飛び出してきたピナは、たっぷりの温泉に肩まで浸かる二人―――正確には、その近くに脱ぎ捨てられていた服―――を見つけるなり、その瞳を丸くしました。
ずぶ濡れの髪を揺らし、荒い息のまま両手を腰に当て、驚きと呆れの混ざった声を上げます。
「もう、いったいなんなの?心配したのよ?」
シャズは眉一つ動かさず、至極平然とした態度で両手を広げて見せました。
「偶然、温泉を掘り当てた。見ての通り俺は無事だ」
穏やかな昼下がりを賑わせたことを詫びるどころか、どこか誇らしげですらあるその態度に、ピナも思わず語気を強めます。
「あなたの心配なんてしてないの!もう……セイム君は?」
「僕も平気です」
「……そう、よかったわ」
安堵のため息をついたピナの隣で、濡れた前髪を払うジゼルも、お湯に浸かる二人を見下ろしながら呆れたように息を吐きだします。
その背後では、アリーが静かに視線を巡らせ、周囲の状況をセンサーで確認していました。
滝のように水が滴るディスプレイには、彼女の発言に合わせていくつかのアニメーションが映し出されます。
「……ごく少量ですが、人為的なエレメント反応の残留が見受けられます。どうやらこれは、天然の地下水脈ではないようです……恐らくは、何らかの理由で地殻内に封入された多量のエレメントが、地下環境によって熱水へと変質したものと推測されます。現時点では、人体に悪影響を及ぼすような性質は見受けられませんので、どうかご安心ください。ピナ様、ジゼル様」
整然とした調子で淡々と報告を終えたアリーの身体に、ジゼルがすっと手を伸ばしました。
まじまじとアリーの全身を検分しながら、手にしたハンカチで、フレームを伝う水滴を丁寧にふき取っていきます。
「分析も結構だけど……こんなにずぶ濡れになって、錆びてしまったらどうするおつもりですか?」
「ご配慮感謝いたします、ジゼル様!ですが、アリーの防水および耐熱性能は、現環境に十分に耐えうるものですので、機能上の支障は―――」
真っすぐに亀裂の入ったディスプレイを拭きあげながら、ジゼルが言葉を遮りました。
「支障が無くても心配なの。こんなに大きなひびがあるのですよ?アリー」
噴き出した温泉が、まるで土砂降りのように降り注ぐこの場所で、ジゼルのハンカチが乾いていたのは奇跡でも何でもありません。
それは、ひとえに優れたエレメント操作の賜物です。
少しだけ身を乗り出して顔を覗き込むジゼルに、アリーの胸元の発光端末は少しだけ点滅を強めました。
「……了解いたしました。ありがとうございます。ジゼル様」
「……まったく、誰のせいかしら」
じっとりと注がれる視線の先で、セイムは、何もない空間をひどく真剣な顔で見つめていました。
―――
その夜。
すっぽりと肩まで布団に包まり、ジゼルは安らかな寝息を立てていました。
いつもなら入浴の前後に待っている細々とした仕事も、今夜ばかりはありません。
湯を沸かす必要も、最後にお風呂場を掃除する必要もない。
後に入浴を控えている者を気にすることもなく、好きなだけ温かな湯に浸かり、身体が冷めないうちに、そのまま布団へ潜り込める。
思いがけず手に入った天然の温泉は、まるで、立派な旅館にでも泊まりに来たような、ささやかでいて大変贅沢な夜を彼女にもたらしていました。
「すぴー。すぴー……」
安らかに寝息を立てるジゼル。
少し離れた場所にあるベッドが空になっていることに、彼女は少しも気づきません。
やがて、月が傾き、世界が新たな薄明りに包まれ始めるころ、彼女の肩を何者かがそっと揺らします。
「ジゼル様。ジゼル様。起きてください」
ひそひそと響くのは、小さくとも明瞭な電子音。アリーのものです。
口の中でむにゃむにゃと舌を動かし、ジゼルは目を閉じたまま、辛うじてその呼びかけに応じます。
「ん……どうしたのです?アリー」
「起きてください。ジゼル様。起きてください」
小刻みに揺らされる肩には、断固たる決意のようなものが感じられました。
いったい、何があったというのだろう?
ずっしりと重い瞼を開くと、そこには薄暗い部屋の風景が広がっていました。
見慣れたその景色に続いて、ひんやりとした冬の冷気が彼女の頬を撫でました。
扉が開いているのだろうか?
呼吸のついでのような声量で、彼女はアリーに尋ねます。
「……寒い。いま、何時なの?」
アリーがジゼルの上半身をそっと抱き起こしながら答えます。
ぐらりぐらりと、ジゼルの頭は揺れていました。
「現在の時刻は4時14分です。さ、ジゼル様。はやくはやく!」
「もう、なんですか。藪から棒に……」
目を擦りながら、ジゼルはベッドから両足を出しました。
ちょうどいい位置に並べられた履物に足を通すと、アリーが寄り添うように、その隣に並びます。
「アリーは新たなタスクを実行中です。さ、足元にお気を付けください」
アリーの口からそれ以上の説明はありませんでした。
流れるような動作で、厚手のストールがジゼルの肩に掛けられます。
「ううーん。……眠い」
目の前がチカチカするような睡魔の中で、ジゼルは半ば操り人形のようにアリーに導かれました。
扉の隙間から流れ込む肌を刺すような冷気に、ようやく脳の片隅が「今は深夜、あるいは早朝だ」と、現実を認識し始めます。
部屋の外、二階の廊下を左に進めば、一階へとつながる階段がありました。
(……あとで、替えないと)
壁に備え付けられた蝋燭立てを思わず横眼で追いながら、ジゼルはそう思いました。
いつものように、一階へと向かおうとするジゼルの進路をアリーは右へと修正します。
「うーん。アリー。どうして?」
アリーは答えません。
その横顔は、ジゼルの体を支えること。ただそれだけのために全神経を集中させているようでした。
ぼんやりとした疑問を、ジゼルは飲み込むしかありませんでした。
代わりに大きな欠伸を一つ。
意識が次第に目覚めていきます。
壁を伝う微かな振動。
いつもと違う、空気の流れ。
廊下の突き当り、窓を遮るように見えていたのは、天井へと伸びる、見覚えのない階段でした。
「なに、あの階段?」
「さ、ジゼル様。セイム様がお待ちです。アリーが下で落ちないようにお支えしますから、お早く」
「セイムさんが?」
「はい!」
果たしてこれは、夢なのでしょうか。
そもそも、この屋敷に三階があるなどと、ジゼルは聞いたことすらありません。
しかし、セイムが待っている。そのたったひとつの理由だけで、体を動かすには十分でした。
手すりの脇で一足先に待機するアリーに促されるまま、ジゼルは殆ど垂直に伸びた階段を、這うようにゆっくりと上っていきます。
一段。また一段。登るごとに、頭を覆っていた眠気という名の靄が晴れていきました。
そして階段を登り切り、床板の向こうへ頭を出したとき、彼女の鼓膜を叩いたのは、規則正しく鳴り渡る低いエンジンの音でした。
「……これは?」
その場所は屋根裏部屋でした。
むき出しの木材で囲まれた、狭く三角形の空間。その中央に、一艇の古びた浮きシップが横たわっています。
尾翼の隙間から差し込んでいるのは、一つだけある丸窓からの朝日ではなく、機体に灯ったオレンジ色のランプの光でした。
その光の近くで、見慣れた人影がすっと頭を持ち上げます。
「ジゼルさん!」
「……セイム?」
まるで三日月のように鋭く曲がった口角から、整列した小さな白い歯が覗いていました。
困惑するジゼルをよそに、セイムは浮きシップのコックピットから飛び降りると、跳ねるような足取りで彼女の元へとやってきます。
「セイム?あなた、これはいったい、このシップはどうしたのです?」
「盗むんです」
「へ?」
「盗むんです!シャズさんのシップ!」
「へっ!?」
―――
朝日が薄く差し込むキッチンには、湯気の立つコーヒーの香りと、こんがりと焼けるパンの匂いが満ちていました。
陶器が触れ合う細やかな音。シャズは無言で夜空のように黒い液体を口に含み、ピナは慣れた手つきで焼き上がったパンを皿へと並べていきます。
言葉はほとんど交わされません。
長年同じ屋根の下で朝を重ねてきた二人にとって、この沈黙こそが最も心地の良い会話の形でした。
ふと、シャズがカップを置き、テーブルの一角へ視線を向けました。
いつもなら、そこにはもう一人、まるで蜜蜂のように慌ただしく動き回る小さな姿があるはずでした。
「シオはどうした」
短く尋ねるシャズに、ピナはコーヒーのお代わりを差し出しながら軽やかに答えます。
「さあ、まだ寝ているのかしら、珍しいわね」
「慣れないことをして、風邪でもひいたか?」
「あら」
ピナがぴんと両耳を立てました。
「心配してるの?」
「ああ。そうだ」
シャズにしては珍しく、素直な返事でした。
思わずピナが手を止め、盗み見るようにシャズの様子を伺います。
どっしりと椅子に腰かけたシャズは、古びたタブロイド紙を片手に、静かにコーヒーをすすっていました。
「地下の古い地層には、未知の病原菌やウイルスが閉じ込められていることがあるらしい」
「病原菌?」
「ああ」
紙面に並んだ眉唾ものの文字を目で追いながら、さらに一口。至極真面目な顔つきで、無駄のない動きでした。
「俺たちは平気だったが、ガキのあいつらも同じとは……限らない」
シャズの話を聞き終えると、ピナはわずかに眉を寄せました。
そして、なにかを思い出したかのように部屋の片隅へ視線を向けます。
「アリー」
そこでは、陶器人形のように待機していたアリーの姿がありました。
その華奢な両肩がびくりと跳ねあがります。
「はっはい!なんでございましょうか?ピナ様」
「今朝、二人の様子はどうだったかしら?」
眉をひそめ、ピナは心配そうに尋ねました。
アリーは片方の人差し指を忙しなく泳がせながら答えます。
「おっお二人のご様子ですか?!そっそれはもう!安らかにお眠りになっておられました!!」
「……安らかに?」
「はい!」
言い終えると同時に、アリーの冷却ファンが唸りを上げました。
「そう……やっぱり私、ちょっと二人の様子を見てくるわ」
ピナはエプロンで手を拭うと、キッチンを出て二階へと続く階段へ向かって足を踏み出しました。
その背後では、アリーが無言のまま必死になにかを伝えようと、手足をばたつかせていましたが、彼女はそれに気づきません。
「待て」
短く、そして重々しく。
ピナを呼び止めたのはシャズでした。
「?」
振り向くと、シャズは手にしていたタブロイド紙をテーブルに置き、そして再び持ち上げ、またテーブルに置きました。
それから彼は、どこか遠い目をして窓の外を見つめ、カップに残された最後一口を口に含みます。
「シャズ?」
「ん?んん」
その横顔には、普段を知る者だけが分かる、『よそよそしさ』が漂っていました。
自分がせっかちであることを、シャズは知っています。
なのでピナは、この奇妙な停滞がそう長くは続かないことも知っていました。
「俺が見て来よう」
視線を合わせようともせずに、シャズがそう告げます。
「あら、でも……」
「いいんだ。ああ、以前。お前が二階に上がろうとして、転がり落ちたことがあっただろ、俺が心配しているのはそのことだ。……つまり、ああ、その。お前が」
珍しく歯切れの悪いシャズの態度。
ピナは深く考えることもなく言葉を被せました。
「平気よ、あれくらい。私は丈夫なんだから」
言葉の最後を聞き終えるよりも早く、シャズは椅子の脚を軋ませて立ち上がりました。
廊下の先を顎で指しながら彼は言います。
「お前の頑丈な体なら、骨が折れようが擦り傷になろうがすぐ直る……だが、そうじゃないものもある。つまり」
ピナはきょとんとした表情でシャズを見ています。
彼はその頑健な体でキッチンの出入り口を塞ぐと、ようやく一息ついたようにピナを見ました。
「……お前が壊した床を修理したのは俺だ」
「もう、何なのよ急に?」
「別にどうというわけじゃない、お前と同様に、俺が懸念しているのはガキどもの『状態』だ」
「……状態?」
そこまで言われて、ピナもようやく腑に落ちます。
「……もう、何を考えているのかしら。お馬鹿なんだから」
呆れ果てたピナの呟きは、シャズの背中には届きません。
彼はまるで、死地にでも赴くかのような深刻な表情を浮かべたまま、二階へと続く階段へと向かおうとしました。
しかし、そのときです。
……カタカタカタカタッ!!
『!!』
唐突に、それはもう、あまりにも唐突にそのときはやってきました。
テーブルの上の食器が細かく不気味な音を立てて震えはじめます。
次の瞬間、地鳴りのような重低音が頭上から覆いかぶさるように降ってきたと思うと、屋敷全体を激しい揺れが襲います。
壁の隙間から土埃が舞い落ち、天井の梁が悲鳴を上げました。
「地震!?セイム君!シオちゃん!」
二階にいるはずの二人の身を案じ、ピナは反射的に足を踏み出して階段へ駆け上がろうとします。
「待て!!」
腹の底から響くシャズの一声が、ピナの足を凍り付かせました。
シャズは迷いなく身を翻すと、部屋の片隅でオロオロと天井を見上げているアリーの元へと、怒涛の勢いで駆け付けます。
「わ、ワワ、シャズ様たいへんです!予測データにない振動が―――」
「黙ってろ!」
シャズは叫ぶアリーを抱え込むと、すぐさま呆然と立ち尽くすピナの手を力任せに引き寄せました。
「シャズ!上の階にまだ二人が――」
「いいから来い!」
抗うピナを強引に引きずりながら、そして、しゃべり続けるアリーを小脇に抱えたまま、シャズは玄関へと猛突進します。
屋敷全体が今にも崩れ落ちそうな揺れの中、彼は目の前の分厚い扉をドカンと豪快に蹴り開けました。
外へ飛び出すと同時に、轟音は収まるどころか、耳を突き刺すほどの爆音へと跳ね上がっていきました。
揺れているのは地面ではありません。屋敷そのものです。
「な……なんなのこれ!?シャズ!?」
ピナが悲鳴を上げて振り返った、その瞬間でした。
バリバリバリガッシャァンッ!
全身を殴りつけるような破壊音とともに、屋敷の屋根が内側から吹き飛びました。
まき散らされる木片と瓦礫の嵐、立ち昇る猛烈な白煙を切り裂いて、ぴかぴかに磨かれた重厚な船体が朝日を反射させながら猛然と姿を現します。
操縦席に座る人影に、ピナは驚愕します。
「……あれ!?うそ、セイム君?!」
操縦席にしがみ付くようにしているのは、間違いなくセイムでした。
そして、そのすぐ後ろには、寝間着の上から厚手のストールを羽織ったジゼルの姿もありました。
「シオちゃんまで!?」
ジゼルは、眼下の惨状を目の当たりにし、ちらりちらりと、大変気まずそうにこちらを見つめ、ただ軽く頭を下げるだけでした。
そんなジゼルとは対照的に、操縦桿を握るセイムは、ひどく晴れやかな顔をしていました。
「―――二人とも待って!どこへ行くの!?」
飛び出した船の後を追おうとしたピナの手を、シャズが強い力で引きました。
ピナが振り返ります。
シャズは微動だにせずに、じっと遠くを見つめていました。
言葉は一言もありませんでしたが、彼の横顔から、ピナはあまりにも多くを悟りました。
力なく膝を折った彼女の肩を、シャズが静かに抱き寄せました。
地上の二人に見せつけるように、船が大きく旋回します。
機関の唸りに合わせ、地面の砂埃が渦を巻きました。
遠ざかり始める操縦席の中で、セイムがこちらを見ています。
目が合いました。
彼は言います。
『シャズさーん!いってきまーーす!』
機関がさらに強く唸ります。
浮きシップはフォースポイントの上空へ船首を向け、その古びた見た目からは想像もできないほど軽やかに速度を上げていきました。
そしてそのまま、晴れた空の向こうへ。小さくなっていきます。
「……」
誰も、しばらく口を開きませんでした。
残されたのは、見るも無残な屋敷と、地面に散らばった大量の瓦礫。
それから、まだシャズに小脇へ抱えられたままのアリーでした。
腕の中で、ピナはぽつりと呟きます。
「ずるいわ。あなただけ」
青空に伸びる白い飛行機雲を、彼女はじっと見つめていました。
操縦桿を握るセイムの晴れやかな笑顔が、ジゼルの恥じらいに満ちた表情が、焼き付いて離れません。
シャズはなにも言わず、ただピナの肩を抱く腕にそっと力を込めました。
風が止み、静寂が戻ったフォースポイント。
ぱらぱらと崩れ落ちる屋根の欠片が、やけに鮮明な音を立てていました。
まだ冬なのに、どういうわけか温かい。
そう感じられたのは、気の早い春の風が一足先に吹いたからなのかもしれません。




