怪物のバカンス。
~ドーンソリア大陸南部・ラグナビーチ~
ドーンソリアの南に位置するリゾート、ラグナビーチ。
見渡す限りの群青の海が広がり、穏やかな波の音が白い砂浜を渡っていきます。
燦燦と降り注ぐ陽光の下、白いビーチチェアには一人の女性が優雅に身を横たえていました。
黒いサングラスに隠されてはいるものの、その奥には氷のように澄んだアイスブルーの瞳が秘められています。
眩い日差しを浴びて煌めく金糸のような髪は、乱れひとつなく美しく束ねあげられていました。
表向き、彼女は過度の心労からこの地で療養生活を送っているのだと囁かれていました。
ですが、別の側面では、巨大な組織の命運を左右する極秘任務の渦中にいるのだと噂する者も存在します。
稀代の悪党。
時の権力者の情婦。
などなど……。噂を挙げればきりがありません。
そのどれもが正しく、また、どれもが間違っていたのかもしれません。
いずれにせよ、現在の姿から、彼女が数多ある噂に違わぬ大げさな人物であるといったい誰が想像できたでしょう?
日差しを遮るようにかざされた白く細い腕は、どこからどう見ても華奢で儚げなただの女のものでした。
彼女はひさしを作っていた腕を滑らせると、傍らのサイドテーブルに置かれたグラスを手に取り、そこから伸びたストローをそっと薄い唇で咥えます。
カランと氷が涼し気な音を立て、透き通った青い液体が管の中を静かに吸い上げられていきました。
南国の風がそよぎ、冷たい青い液体がのどを潤していった、そのときです。
悠然と横たわる彼女のもとへ、一人の人物が歩み寄ってきました。
「失礼、お嬢さん」
よく通る、低い男性の声でした。
彼女は寝そべったまま、サングラスの奥の瞳だけを傾けます。
すると、彼女が思っていたよりもずっと近くに、その人物は立っていました。
赤と白。クラシカルな水玉模様の海水パンツを身に付けた……怪しげな男。
一見して初老とわかる年齢でありながら、その肉体は何百年も生きた樫のように硬く、歪に引き締まっていました。
そしてその左右には、誰もが思わず目を奪われるような二人の美女が従っています。
ヴァーミリオの怪人と名乗る男と、そのしもべとなったロロとベラトリスでした。
完璧に整えられた口髭の片側を持ち上げ、怪人はそっと両手を広げます。
「見ての通り、私は怪しいものなのだが、お隣よろしいかな?」
怪人は、そのよく通る、低い声で近づく許可を求めました。
その立ち振る舞いは極めて紳士的でありながら、その眼光の鋭さを隠す気はないようです。白い砂浜、青い海と空。それと対をなすような赤光が、その瞳にはくすぶっています。
「ごきげんよう。ここは自由地区ですよ?どうかお好きなようになさってください」
彼女の態度は、怪人の訪問を予想していたようにも見えました。
逆に、突然の来客を楽しんでいるようにも見えます。
怪人は背筋を伸ばし、仰々しく紳士の礼を捧げました。
「感謝するよ。お嬢さん」
「よしなに」
直後、付き添いの二人の美女が優雅に動き始めます。
手際よく広げられたのは、リゾートの高級感とは対照的な安物のビーチタオル。そこに日差しを遮るビーチパラソルが手早く設置され、最後に大きめのバスケットが置かれました。
バスケットの隙間からは、丁寧に用意された手作りのランチと、古めかしいティーセットが覗いています。
準備を完璧に整えた二人の美女は、真っすぐ並び立つと恭しく頭を下げました。
「準備が整いましたわ。ご主人様」
「ふむ、ご苦労」
「ねえ、ご主人様?ベラと海で遊んできていいかしら?だってこんなに綺麗なんですもの、ねえいいでしょ、ご主人様?お願い」
南国の潮風にたなびく銀のショートヘア。
ロロの哀願を怪人は快諾します。
「ああ、構わんよ。存分に楽しんでおいで」
怪人が鷹揚に頷くと、二人は顔を見合わせて華やかに微笑み、弾むような足取りで波打ち際へと駆けて行きました。
怪人のクラシカルな装いとは対照的に、最新の流行りを押さえたエレガントな水着が、彼女たちの健康的で眩しい四肢の魅力を余すところなく引き立てています。
はじける白波と眩しい太陽の下、二人の美女が戯れる姿は、まさに絵画のような美しさでした。
遠ざかる二人を横目に、怪人はいつの間にか一本の煙草を口にくわえていました。
「吸ってもいいかな、お嬢さん?」
低く穏やかな声で尋ねる男に、女はサングラスの奥の瞳を動かさぬまま、静かに頷いて見せます。
怪人の口元が、歪んだ怪しい笑みを浮かべました。
きらり、きらり、いつの間にかその手の内に現れたライターが、金色の光を反射します。
「ありがとう。感謝するよ」
しゅっと火打ち石が擦れる短い音。
ライターの小さな火種が煙草に触れた、その瞬間です。
怪人の姿が、ぱっと消えてしまいました。
「あ」
女が状況を認識し、短く声を漏らした時には、すでにすべてが終わっていました。
影が覆いかぶさる感覚と同時に、冷ややかな吐息が首筋を撫でます。
それは夜の墓場の空気にも似ていました。
刹那、鋭く尖った牙が、女の白く細い首筋へと深く、容赦なく突き立てられました。
ぽとり。
先を軽く炙られただけの煙草が、白い砂の上へと静かに落ちていくのが見えました。
打ち寄せる波音だけが響く砂浜で、先ほどまで楽しげに戯れていたはずの二人のしもべは足を止め、静まり返った日陰の下で繰り広げられる惨劇を、ただ無機質に、ただ静かに見つめていました。
しかし、異変は起きませんでした。
肉を抉るような耐えがたい激痛も、意識を奪う毒も、あるいは人を狂わせる支配の術も。彼女の身体には何一つ作用せず、ただ「水着姿の怪しい初老の男に、突然首筋に噛みつかれた」という、言葉にしてしまえばあまりにも珍妙な物理的な事実だけがそこに残されました。
「……ほう」
怪人はすっと身を引き、元の位置へと戻ります。
女は唇の端に薄い笑みを浮かべると、白く細い指先で、今しがた牙が貫いた自らの首筋へと触れました。
「意外だな」
どこか愉快そうに、怪人が喉を鳴らします。
女は首筋を撫でたついでのように、自然な動作のままグラスへと手を伸ばし、ストローから飲み物を一口だけ喉へと滑らせました。
波打ち際では、何事もなかったかのように二人の美女たちが再び楽しげにはしゃぎ始めています。
女はその眩しい光景をサングラス越しに眺めながら、そっと言葉を返しました。
「そうですね……わたくしも、そう思いましたよ?」
怪人はふんと鼻を鳴らし、軽く肩をすくめて見せました。
そして砂浜に落ちていた煙草を拾い上げると、先端の砂を軽く払って再び口に咥えます。
ライターから小さな炎が立ち上がりますが、怪人は火を煙草に移すのをふと躊躇い、横目でじっと女の様子を窺いました。
彼女は、これ以上ないほどにくつろいだ姿勢のまま、白いビーチチェアに深く身を預けています。
そして、先ほどまでよりもずっと柔らかく、優しく、まるでかつての恋人か、友人にでも向けるような、親しげな口調で告げました。
「構いませんよ。モノの焼ける匂いは、嫌いじゃありませんもの」
怪人は喉の奥で短く笑うと、両手で覆った炎を押し当て、重々しく煙草を吸い始めました。
紫煙が南国の青空へ、ゆらりと立ち上っていきます。
「存外怖いお嬢さんだ。実は君に一度会ってみたくなってね。なぁに、個人的な興味だよ」
「あら、そうでしたか……ですが御覧の通り、わたくしはただ、流れる時間に身を任せているに過ぎません。がっかりさせてしまいましたね?」
女はさらに深く、体を沈み込ませるようにしながら言葉を返します。
首筋から伝わる痛みが背中を伝い、やがてそれは心地よい熱となり、じんわりと全身へと広がっていきました。
自然と漏れ出そうになった吐息を、彼女は冷たい飲み物と一緒に飲み込みます。
怪人は、口の隙間から細い煙を吐きながら言いました。
「謙遜はよしたまえ。この世界という名の巨大な劇場で、舞台裏のからくりを知り、終幕の筋書きを握っているのは常に君たちのような存在だ」
「それはまた盛大なお話ですね」
女はくすりと笑います。
「少なくとも、わたくしはそのような立場にはおりません。あなたのおっしゃる終幕の筋書きとやらを知りたいのなら、どうか他を当たってくださいな」
「そうかね……」
怪人は少しだけ声のトーンを低くします。
主人の声色の、わずかな変調。
それを聞きつけた二人の美女が、砂を蹴り上げてこちらへと駆けてきます。
主人の元へと辿り着くなり、それぞれが自らの胸元へ引き込むように腕を取り、ベラは不服そうに怪人を見上げ、ロロは寝そべる女をじっとりと睨みつけていました。
二人を視線で落ち着かせると、怪人はおもむろに口を開きます。
「たまには、誰かを嫉妬させるのも悪い気分じゃない。君の都合に合わせたつもりだったのだが、残念だよ」
女はストローから口を離すと、冷えたグラスの表面に結んだ水滴を白い指先でそっと撫でました。
「なるほど。もし、あなたのおっしゃる終幕とやらをわたくしが知っていたとして、あなた方はどうなさるおつもりでしょうか?」
怪人は淡々と語ります。
「筋書きを無視して舞台に上がるような真似をするつもりはないよ。こう見えて私は、楽しい映画ほど残りのフィルムの長さが気になって仕方が無くなってしまう性分でね。それから本も同様だ、開いているページよりも、ついつい残りのページの方を愛おしく思ってしまう……この素晴らしい物語の終焉は、いったいいつ訪れてしまうのだろうか、とね」
「あくまで観客。そうおっしゃりたいのでしょうか?」
「その通りだ。場を混乱させるだけの脇役など、私にとって……」
(……じぃ)
「おっと、失礼。……私たちにとって役不足だ。人生という名のたった一度きりの舞台。ならば、わざわざ敗北するだけのつまらない配役に甘んじる必要があると思うかね?私は思わない」
「ずいぶんと、ロマンチストな方なのですね」
「強者でありながら、苦悩に身を焦がす者をリアリストと呼ぶのなら、あるいはそうかもしれないがね。残念だよ、君も彼女らのように、苦悩から解放してやりたかった。心底、残念に思うよ」
「ふふ、支配者の身勝手な慈愛、というわけですか。ですが、空っぽの器に注がれた水は、いくら輝いて見えても、決して喉の渇きを潤してはくれませんでしょう?」
「おやおや、これは手厳しいな」
怪人は愉快そうに煙を吐きだしました。
「だが、お嬢さん。彼女たちをよく知れば、そこに注がれたのが、ただの水でないことをきっと君も知るだろう」
怪人が諭すようにそう告げると、傍らにいたロロが唇を尖らせます。
「そうよ。甘いかも」
「しぃー。ロロ、ダメでございますわ邪魔をしては。ご主人様は今とても楽しんでいらっしゃるのだから」
ベラトリスはロロをたしなめながら、その濡れた髪に絡まっていた小さな海藻を何気なく取り除いてやりました。
「ふぅん。そう?」
「ええ、とても」
「ふふ」
「ふふふ」
二人の戯れを満足そうに眺めると、怪人は煙草の火を砂に押し当てて消し、ふと思い立ったかのように口にします。
「そろそろ、小腹が空いてきたな」
それを聞くと、ロロとベラはすぐに怪人の元を離れました。
完璧な淑女の礼を捧げた後、広げられた安物のビーチタオルへと向かいます。
バスケットから取り出したお皿にサンドウィッチを盛り付け、並べたカップに手馴れた所作で紅茶を注いでいきました。
彼女たちの身に付けた装飾品が潮風に揺られ、上品な音色を奏でます。
甲斐甲斐しく働く二人の美女。
ベラトリスとロロの姿は奇妙なほどに、常夏のリゾートに溶け込んでいました。
まるで、これまでずっと、こうして三人で暮らしていたかのように。
「君も来たまえ、天からの……いいや、世界からの贈り物だ。ありがたく頂戴するとしようじゃないか」
どこかうそぶくような怪人の態度に、女は思わず眉をひそめました。
ですが、目の前で繰り広げられていたのは、どこからどう見ても、微笑ましく穏やかなピクニックの風景でした。
ロロは片手を頬に当て、口いっぱいに頬張ったサンドウィッチを味わっていました。
ビーチタオルの一角を軽く払いながら、ベラが可憐に微笑みました。
「お姉さま。どうぞこちらへ、焼き立てのパンに新鮮なお野菜と燻製肉を挟んだ、ご主人様のお気に入りでございます。お好きでございましょ?『燻製』」
丁寧な給仕の奥に見え隠れする、底知れぬ危険と底なしの狂気。
女は内心、ベラトリスに強い不快感を覚えながらも、やがては彼女の美しい笑顔に毒気を抜かれてしまったように、静かに息を吐きました。
そしてビーチチェアからしなやかに腰を上げると、差し出されたカップを受け取り、彼らのささやかな饗宴へとそっと足を踏み入れます。
「毒を食らわば皿までも、そう言いますものね?」
女は、はらりと舞い落ちそうになった肩ひもを、ごく自然に、そしてこの上なく優雅に掛け直しながらそう告げました。
いったいいつの間に外れていたのだろうか……。
そんな疑問を、彼女は微塵も顔には出さず、すっかり温くなった紅茶に口をつけます。
視線の先、怪人が満足げに目を細めました。
「殊勝な心掛けだ。我々も見習いたいものだ。」
しなやかな動作で女が腰を下ろします。
安物のビーチタオル越しに伝わるのは、砂浜の感触と太陽の熱でした。
パラソルの影からはみ出た片足に、健やかな光が降り注いでいます。
つま先で砂を軽く撫でるようにこねながら、彼女は小さく吐息を漏らしました。
そして、サングラス越しに怪人の顔を正面から見据えます。
「今度やったら、ぜったいに許しませんからね?」
冷ややかな殺意すら滲むその警告に対し、怪人は一言も返さず、ただ胸に手を当てて優雅に一礼して見せました。
沈黙の肯定。その態度には、危険なゲームを楽しんでいる余裕がどこまでも満ちています。
「はい、お姉さま。どうぞ」
そこへ、ロロがサンドウィッチの乗った皿を差し出してきました。
ロロは怪人の横顔をちらりと盗み見ると、呆れたように唇を尖らせます。
「ご主人様ったら、本当に悪趣味なんだから。お姉さまを怒らせちゃダメでしょ?」
どこで、どのように拵えられたかも分からぬそのサンドウィッチを、女は一瞬視線でなぞり、そっと口元へと運んで一口かじりました。
香ばしく焼かれたパン、香草とともに燻製された芳醇な肉の旨味、そして新鮮な野菜の瑞々しさと甘みが、口いっぱいに広がります。
「ん……とても美味しいですね」
そう告げた彼女の顔は、仮面のようにも見えたかもしれません。
やがて、奇妙なランチタイムも終わりを迎えます。
傾き始めた太陽が海を真っ赤に染め上げる頃、怪人とその二人のしもべは、簡単な挨拶とともに、夕闇の彼方へと姿を消していきました。
女はビーチチェアに深く身を預けたまま、静まり返った波打ち際と、去り行く影をただただ見送っていました。
―――
それから、幾日が過ぎたでしょう。
空の青が茜色へと変わり、深い群青の夜を抱き、再び眩しい朝焼けへと塗り替えられていく。
太陽と月が幾度も頭上を通り過ぎ、波の音だけが絶えることなく時を刻んでいきます。
旋回する空の下、静寂に包まれたラグナビーチの時間だけが音もたてずに過ぎ去っていきました。
そして、ひときわ日差しの強い日のこと。
女の停滞を破ったのは、風を切り裂く重々しい羽音でした。
水平線をなぞるように飛ぶ影に、彼女はようやく動き、ゆっくりとサングラスを外しました。
眩しい水平線を横切るようにして姿を現したのは、大きな翼を広げた三頭の巨大な爬虫類。組織内でも限られた部隊にのみ支給される騎乗生物『ドランジ』でした。
荒々しい風圧を巻き上げながら、ドランジたちはあっという間に波打ち際へと舞い降ります。
いずれの個体も分厚い耐火性の鎧で厳重に身を固めており、その先頭を行く一頭の背には、同じく全身を黒ずんだ鎧で包んだ男が跨っていました。
水辺に着地するや否や、ドランジたちは荒い息を吐きながら、喉を鳴らしてグビグビと海水を飲み始めます。
「……ガーゲイン」
女の口から、その名がこぼれ落ちました。
幾日か前、怪人に見せていた冷徹な仮面は影を潜め、その声色には、お互いをよく知る旧友との再会を秘かに慈しむような、確かな親しみが宿っています。
ドランジの背から、男が滑るようにして地上へと降り立ちます。
金属の甲冑が砂を踏みしめる重い音が響きました。
波に濡れた砂浜に深い足跡を刻み込みながら、無骨なブーツがこちらへ歩いてきます。
手にしっかりと握られた太い手綱の先では、ドランジが不服そうに頭を揺らしていました。
日差しを飲み込む、すっかり煤けた鍛銀の鎧。
その足音が近づくにつれ、波の音さえもどこか遠くへ押しやられていくようでした。
「探したぞ、アルメリア」
「……」
兜の隙間から低く響いたその名―――アルメリア。
ですが、この地に来てからというもの、彼女が自らそう名乗ったことは一度としてありませんでした。
アルメリアはビーチチェアの上で半身を起こしたまま、アイスブルーの瞳でじっとりとガーゲインを見つめていました。
無言のまま注がれる強い視線に、さしもの頑強な武人もどこか居心地悪そうに身をすくませます。
「な……なんだ?」
「相変わらず、空気の読めない人ですね、あなたは」
「!?!?」
ガーゲインはぐっと言葉に詰まりました。
アルメリアは小さく息を吐くと、呆れたように再び椅子の背もたれへと深く体を預け直します。
「それで?」
まるで王様のように、尊大な口調でアルメリアは尋ねます。
重々しく鎧を鳴らし、ガーゲインは咳ばらいをひとつすると、腰に下げた革の胴乱から一通の手紙を取り出し彼女へと差し出しました。
「……お前にあてた手紙だ」
それ以上の説明はありません。
しかし、寡黙で知られるこの男にしてみれば、これでも十分に喋りすぎている方でした。
「手紙?」
「そうだ」
アルメリアは寝そべった体勢のまま片手を伸ばし、その手紙を受け取ります。
そして読むまでもなく、そっと自らのお腹の上に置き、重ねた両手を添えました。
久々の再会は彼にとって、思っていたものと違っていたのかもしれません。
見慣れないその姿。つま先から頭のてっぺんまで、執拗なほどに真剣な視線を注いでくる、ガーゲイン。
アルメリアはその肌を焦がすような視線を、どこか愉しむように受け止めていました。
「開けないのか?」
「後で開けます」
「そうか」
用件は済んだと言わんばかりに、ガーゲインは踵を返そうとします。
「どこへ向かうつもりです?」
背後からかけられたアルメリアの問いかけに、ガーゲインは足を止め、振り返ることなく肩越しに答えました。
「とある危険人物の情報収集……『ヴァーミリオの怪人』と名乗るプレイヤーだ」
「ヴァーミリオの……怪人?」
アルメリアの瞳がわずかに細められました。
ヴァーミリオ。
かつて存在していた大陸の名でありながら、今現在、その名を知る者にとって、それは決して快い響きではありませんでした。
ガーゲインは短く肯定しました。
「ヴァーミリオ。その名を知る人物であるということ。各地で同人物による略奪行為が報告されていること、そして、高い戦闘能力と未確認のウィリを持つこと以外、正体は全く掴めていない。どこの組織に所属しているのか、あるいは、特定の個人および団体に個人的な怨恨を持つものなのか……とにかく、四聖公も神経を尖らせている」
寡黙な彼がこれほど言葉を重ねるほどに、その存在が組織にとって重大な脅威となっていることが伺えました。
「そのような人物に、あなたおひとりでは危険ではありませんか?」
それは彼の実力を疑うものではなく、親しい人物に向けられた純粋な懸念でした。
ガーゲインは身をかがめ、三頭のドランジの重なり合う翼の隙間から言葉を返します。
「もし俺が帰らなければ、そのときはさすがの四聖公もお前に泣きつくだろう。『はやく都市に戻ってこい』と……あるいは、既にそのつもりなのかもしれないな」
アルメリアは、指先で封筒の角をぴんと弾きます。
「嫌ですね。都合のいい女と思われるのは」
「……!」
言葉を詰まらせ、ガーゲインは重厚な鎧に包まれた、頑強な身体を強張らせました。
彼は相変わらず肩越しに言いました。
「……そういえば、件の人物だが、強力な魅了系のコードスキルを用いることが確認されている、発動条件や効果など、詳細については一切不明だが、被害者には『若く、顔立ちの整った女性プレイヤー』という共通点があった」
ドランジの背へと跨りながら、ガーゲインは兜の奥から、ビーチチェアに寝そべる女の方をちらりと盗み見ます。
「だから、その……お前も気をつけろ」
アルメリアはくすりと可憐に笑いました。
「珍しいですね。あなたがお世辞を言うなんて」
「そうじゃない、脅威の話だ」
柄にもなく慌ててそう口にすると、ガーゲインは照れ隠しのように手綱を引き、ドランジの向きを変えました。
彼は半ば強引に話題を変えます。
「もうじき、感謝祭が開催される。顔を出したらどうだ?大陸全土のNPCの処理はもう済んだと情報部から聞いている。みんなもお前を待っている」
そんな任務もあったなと、アルメリアは思いました。
いまさら語るまでもない情報操作の一環です。
彼女が不在の間、都市で巻き起こった様々な異変や混乱について、ガーゲインは最後まで一言も語りませんでした。
ですが、その発言は弱体化しつつある組織と仲間たちを心配する、彼なりの切実な要請だったのかもしれません。
返事を待つこともなく、三頭のドランジは大きく翼を羽ばたかせると、爆風を残して大空へと飛び去っていきました。
静寂を取り戻したラグナビーチ。
一人残されたアルメリアは、手紙をひょいと持ち上げると、降り注ぐ太陽の光にかざしました。
そこに刻まれていた紋章、その封蝋は、最高権力者である教皇様からの親書であることを示しています。
「……あなたは、なにもわかっていませんね」
青い海に絶え間なく押し寄せる白波を見つめながら、彼女はそっと呟きました。
その言葉は、寄せては返す波音に紛れていきます。
やがて、彼女の指先で、手紙の端に小さな赤い炎が灯りました。
炎は音もなく封筒を伝い、教皇様からの至急の親書を静かに焼き尽くしていきます。
南国の風が吹き抜けたとき、そこにはもう、灰ひとつ残っていませんでした。
このまま、時間が止まればいいのに。
それは彼女がずっと抱えていた、認識にすらならない願望でした。
ドランジ・・・ドラゴンの生体組織から培養された人工生命体。馬よりも一回りほど大きい爬虫類のような見た目。飛行能力を持ち、教会騎士団の一部部隊で主に移動手段として用いられている。浮きシップに比べて隠密性に優れ、機械的なメンテナンスも必要としないため運用が楽。すべてのドランジは例外なく先天的な欠陥を抱えている。飛行時に体内で発生する熱に自身の身体が耐えられない。そのため、長時間ないしは高速で飛び続けると内側から発火する。多くの生物はドランジを本能的に避けようとする。好物は蟹。




