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反動。

~ドーンソリア大陸東部・フォースポイント~


 これほど気まずい食卓はありませんでした。

 

 セイムとジゼルが言葉を交わさなくなってから、もう何日になるのでしょうか。

 大人たちの前では互いに普段どおりを装っているつもりなのかもしれませんが、どこか不自然に整えられたその態度と、ほんの少し落ちた肩のラインが、かえって痛々しいほどの沈黙を際立たせていました。


 その日のテーブルは、いつもより賑やかでした。 


 これは、二人のお使いが無事に済んだおかげでもありましたが、商業船団の到着が予定よりも遅れていたことも、少なからず影響していました。

 その数日の間に生まれた食卓の空白を、ようやく届いた食材が、時間を巻き戻すように埋め合わせていたのです。

 予定外の不運が、結果として食材の節約につながるのですから、世の中の帳尻というものは、どこで合うのかわかりません。


 テーブルの向こう側、シャズが黙々と、お皿に並べられた料理を平らげていきます。

 この日も、ピナの視線に彼が気づくことはありませんでした。

 小さなため息をひとつ……ピナは口元にいつもと変わらない微笑みを浮かべると、テーブルの左右それぞれ、若干斜め気味に向かい合って座る少年と少女、ジゼルとセイムに何気なく尋ねます。


「二人とも、おかわりはどうかしら?」


 ピナの穏やかな声が、張り詰めた食卓の空気を優しく揺らしました。

 ジゼルは、手元の芽キャベツ(のようなもの)をフォークの先でじっと見つめたまま、小さく首を振ります。


「ううん、ピナさん。ありがとう、お腹いっぱいです」


 セイムもまた、いつもの整った笑みを崩さずに、フォークをいったん置きながら答えます。


「僕も平気です。とても美味しいお料理でした。ピナさん」


 二人の返答はあまりに淀みなく、あまりにも礼儀正しいものでした。

 しかし、だからこそ、その間に横たわるお互いの目さえ合わせようとしない不自然な距離が、ピナの胸をこの日もちくりと刺しました。


 果たして自分にも、こんな年頃があったかしら?


 思い出そうとして、ピナは途中でやめました。

 蘇りかけたのは、目の前の二人とは似ても似つかない、がむしゃらに若く、この上なく無謀だった、かつての自分。


「……そう?ならいいんだけど……」


 ピナは、胸が塞がるような思いでした。

 人知れず背筋を伝う冷や汗を、取ってくれとは言えません。

 ですがこんなとき、彼女はいつだってシャズを頼るのでした。


 「……」


 ……ガタ。


 しかし、シャズはまるで自分には一切関係ないとでも言いたげに、一言も口にすることなく席を立ちました。

 いつもと変わらないその態度を、今日こそは見逃せませんでした。


「シャズ?」


 ピナは、あくまでも穏やかな口調で言いました。

 しかし、その声色は寂しげでした。


 大きなため息をひとつ、頑健な男は渋々席に戻ります。


「……なんなんだ?お前まで」


 うんざりとそう告げるシャズの目の前に、まだ十分に温かい料理が山盛りによそわれます。

 彼はそれをスプーンいっぱいに頬張ると、面倒くさそうにただ一言、「ウマい」と言いました。


「二人に感謝しないといけないわね。だって、いつもだったら必要のないものまでたくさん買ってきてしまうもの。ね、シャズ?」


 遠回しではありましたが、褒められていることを二人はきちんと理解していました。

 ですが、どちらも頑なに口を開こうとしません。

 それどころか、指先一つ動かそうとすらしませんでした。


 シャズは口の中を空にしてから淡々と答えます。


「必要なものがなんなのか、こいつらはまるで理解していない。だから間違いようのないものだけをわざわざ書き出して、こいつらはその通りに買い物をしてきただけだ。大したことじゃない」


 すっかり見慣れているはずの、あまりに素直じゃないその態度。

 普段ならそれも彼の不器用な優しさだと微笑ましく思えるのですが、今日の彼女は違いました。

 ピナは思わず、唇を尖らせます。


「そういうことじゃないの!……もう、わかってるくせに」


「なんのことだ?」


「知らない街まで出かけて、いろいろ大変だったの。少しくらいほめてあげたっていいじゃない」


「俺も買い物には行くが、一度も褒められたことはない」


「それはあなたが買い物のたびに余計なものを買ってくるからでしょ?」


「俺がいつ、余計な物を買った」


「あら、覚えていないの?」


「必要のないものを買った覚えはない」


「壊れた測量機を、覚えている限りで三つも買ったわ」


「部品が使える」


「一つも使えなかったじゃない」


「調べるまでわからなかったんだ」


「同じ形のベルトをいくつも買ったわ」


「ただのベルトじゃない、あれはラッチ式の荷締めベルトだ」


「結局使わなかったじゃない」


「規格が違った」


「よくわからない動物の骨は?」


「あれは珍しい」


「必要な物の話をしているの」


「投資として必要だ。価値が出るのは今じゃない」


「今はどこにあるのかしら?」


「作業場だ」


「私の記憶が確かなら、扉を押さえる重しになっていたはずよ」


「役には立っている」


 ピナの微笑みが、わずかに引きつりました


「……もう!」


 どれだけ言及されても顔色一つ変えないシャズは、山盛りだった料理の最後の一口を悠々と頬張ります。

 そのすぐ右側では、セイムが背筋を定規で測ったようにまっすぐに伸ばしたまま、とっくに空になったお皿を穴が開くほど見つめていました。

 ジゼルもまた、フォークの先に刺さった芽キャベツ(のようなもの)から、頑なに顔を上げようとしません。

 すると、どういうわけか、ピナのシャズに対する苛立ちはピークへと向かっていきました。


 最後の一口を飲み込むと同時に、シャズはおもむろに立ち上がります。


「まって、まだ料理が残っているわ。シャズ」


「ああ」


 短い返事。

 しんと静まり返った食卓に、シャズの重い足音が響きます。

 彼はピナの制止を聞き流すように窓辺まで歩くと、留め具を外し、外の冷気が流れ込むのも構わず窓を大きく開け放ちました。


「空気が悪い。少し換気をしよう」


 重苦しい沈黙と、ピナからの小言から逃れるような口実でした。

 シャズがのしのしと席に戻ってきます。

 ピナは空になった彼のお皿に手際よく料理を盛りつけながら、あからさまに眉をひそめて見せました。


「さむいわ……とっても。ねえ、閉めてちょうだい」


 吹き込む砂と外気にさらされ、盛り付けられたばかりの料理からほんのりと湯気が上がります。

 それをスプーンで口元まで持ち上げながら、シャズは捨て台詞のように言いました。


「そんなにデカいケツをしているせいだ。邪魔で仕方がない」


 言い終えると同時に、シャズは豪快に料理を頬張ります。

 一瞬、その場のすべてが完全に凍り付いたかのような沈黙が訪れました。

 ですが、それは長くは続きません。


 ピナの尾が、荒々しく冷気を薙ぎ払います。

 それでも彼女は、努めて穏やかなトーンを保ちながら声を荒らげました。


「よく言うわ。ついこの間だってあなたは……」


 ―――一日中、私のお尻をめでていたくせに。


「……」


 喉まで出かかった言葉を、ピナは間一髪で飲み込みました。

 さすがに若い二人の前で口にする言葉としては、不適切だと思ったからです。

 ですが、このときシャズの指先が一瞬だけピタリと止まったことを、彼女は見逃しません。


「シャズー?」


 すっと顎を引き、その口から漏れた語尾が怪しく伸びます。

 ピナは、いつものように優しい笑顔を絶やしません。

 ですか、彼女がいま、笑いながら怒っていることは、誰の目にも明らかでした。

 

「前にあなたは、内緒で私のお金を持ち出して、街でギャンブルしてきたことがあったわよね?」


 ぴん、と空気が冷たく張り詰めました。窓から入ってくる外気とはまったく質の違う、鋭く冷ややかな冷気が食卓を支配します。


 しかしシャズは、動揺ひとつ見せずに黙々とスプーンを動かし、料理を口へ運び続けました。


「五倍にして返してやっただろう」


「あら?」


 ピナの首が、かくんとかすかに傾きます。


「五倍?……変ねぇ」


 再び、重苦しい沈黙が訪れました。

 ピナはいつもの穏やかな笑みを張り付けたまま、じっとシャズの顔を見つめ続けます。

 その背後で、彼女の尾がゆらり……ゆらりと、まるで得物を狙う猛禽のように大きく揺れていました。


 シャズはピナと絶対に目を合わせようとせず、まるで世界に自分と目の前のお皿しか存在しないかのように淡々と料理を咀嚼し、飲み込んでいきます。

 その横顔はいつも通りの無表情そのものでした。

 ですが、スプーンを握る太い指にいつも以上の力がこもっているのを、ピナだけは見逃しませんでした。

 彼の握っている木製のスプーンは、もっともっと、普段はもっと、真っすぐなのです。


「確かあの時……」


 ピナは指先を顎に当て、思い出す素振りをしながら言いました。


「私に返してくれたのは……せいぜい三倍くらいだったはずよ?残りの『二倍分』は、一体どこへ行っちゃったのかしら?」


「……」


「ねえ、シャズ?どこへ消えたの?」


 シャズは顔色一つ変えませんでした。

 目の前の料理を口に運び続けています。

 やがて。


 ―――がたん。


 激しい音を立てて椅子を引き立ち上がったシャズは、巨木のような四肢を軋ませながら悠々と窓辺へと向かい、先ほど自らが開けた窓を重々しく締めました。

 寒いからではなく、自分の背後に立ち昇る別種の冷気から身を守るかのような、あからさまな時間稼ぎ。

 その間も、ピナの視線はずっと、彼の背中に向けられていました。


 席に戻るなり、シャズは空のカップを突き出して言いました。 


「お茶をくれ」


 ピナは無言のままテーブルの隅にあったポットを手に取ると、シャズのカップへと注ぎました。

 ふわりと立ち上るのは、新鮮な茶葉の香り。

 湯気が揺れるわずかな間、食卓の誰もが息を殺し、指一本動かそうとはしませんでした。


 コトン、と、ポットが元の位置へと戻ります。

 シャズが素知らぬ顔でお茶をひとすすりするのを見計らい、ピナがゆったりと口を開きました。


「いいのよ?べつに……たまにはお尻が邪魔にならない人と一緒に居たいときがあっても……」


「なんのことだ?」


「大体、私のお尻と寒いのと、なんの関係があるのかしら?」


「面積が広い分、熱が伝わりやすいんだろう。薄っぺらい肉が早く焼けるのと同じだ」


 ぴきり、となにかが弾ける音が聞こえたかのようでした。

 

 ピナの笑顔が、いつもの形のまま固まります。

 背後でゆらゆらと揺れていた尾が勢いよく床を打ち、パンッ!とひときわ高い音を響かせました。

 それはまるで、なにかが始まる合図のようでした。


 ピナの額に、普段の彼女からは到底考えられない青筋がぴくぴくと浮かび上がります。

 穏やかだった瞳の奥には、メラメラと燃え盛る漆黒の炎が宿っていました。

 彼女の体から立ち上る熱気が、まるで陽炎のように周囲の空間を歪めていきます。

 

 当のシャズは、そんな殺気にも似た気配を正面から浴びながらも、知らん顔でお茶をすすり続けていました。

 やがて彼は、飲み干したカップをそっとテーブルへと置きます。

 二人の対話が、いよいよ次なるステージへと向かおうとした―――まさにそのときです。

 

「いいじゃありませんか」


 食卓に響いたのは、怒鳴り声でもなんでもない、凛とした、どこか大人びた声でした。


 その声を聞いたシャズとピナは、同時に目を丸くしました。

 その視線の先には、真っすぐに背筋を伸ばしたジゼルの姿がありました。


「シオちゃん……」

「……お前」


「結果的に……!」


 ジゼルはフォークをそっと皿の脇に置くと、そこへ視線を落としたまま続けます。


「結果的に、お金が増えたのなら。それでいいじゃありませんか」


 整然とした、けれどどこか張り詰めた少女の声が、限界まで張り詰めていた食卓に響き渡ります。

 それはあまりにも、身も蓋もない正論……というよりも、どこかやけっぱちのようにも聞こえる危うい熱を伴っていました。

 その一言に、あわや食卓を支配しかけていた殺気が、穴の開いた風船のように、しゅうと音を立てて抜けていくようでした。


 大人たちは口論の原因などすっかり忘れ、ぽかんとお互いの顔を見合っています。

 ピナの額の青筋はいつの間にか消え去り、彼女はただ、ぱちくりと瞬きを繰り返すばかりでした。


(おいおい、金を盗んで、賭場で勝った金で女と遊んだのは俺だぞ。こいつ、何か変なものでも食ったんじゃないのか?)

(ばか言わないの!)

(だがな、そもそもこいつは、ギャンブルなんて言葉の意味を知っているのか?)

(知ってるに決まってるでしょ?!……もう!)

(そうか……ならやはり)

(だからそうだって言ったじゃないの)

(ううむ)


 ……と、これは大人たちの内なる声です。

 精神感応のウィリなどなくとも、成立する会話があることも、この世界の不思議の一つ。

 ぽろりとこぼれた罪の追及はまた後でするとして、その場の劇的な温度差を取り繕うように、ピナは上ずった声を張り上げました。


「そ……そうね!たしかに、シオちゃんの言う通りね。ね?シャズ?」


「ん?あ……ああ。そうだな」


 拍子抜けしたように生返事を返しながら、シャズは滅多に見せない不気味な笑みを口元に浮かべました。


 事態はひとまず一件落着。

 これで、自分たちだけでも普段の平穏に戻れる。大人二人がそう思った、まさにその矢先でした。


「それは違います」


『!!』


「ピナさんはそんなことで怒っているわけじゃありません」


 低く落ち着いていながらも、それは尋常ではない気迫のこもった声でした。

 シャズとピナ、二人の視線が吸い寄せられるようにテーブルの対角線上へと流れます。

 そこには、空になったお皿に視線を落としたまま、手元のフォークを握り締めているセイムの姿がありました。

 

「……なにが違うというのでしょう?」


 ジゼルの声は、氷のように冷淡でした。

 静かに持ち上げられた互いの視線が、やがて食卓の中央で火花を散らします。

 冷ややかなジゼルの瞳を真っすぐに見つめ返し、セイムは粛々と答えました。


「結果的にお金が増えたということと、シャズさん一人だけで賭け事を楽しんでいたことは別です。それも内緒で、ピナさんのお金で……。賭け事に夢中になっている間、シャズさんはきっと、ピナさんのことを忘れていたはずです。それが良くないと言っているんです」


 セイムが言い終えると同時に、ジゼルはドン!と、テーブルを叩き、身を乗り出しました。

 テーブルの上の食器たちが、甲高い悲鳴を上げて、わずかに宙へ跳ね上がります。


「いいじゃありませんか!たまには全部忘れて、心から笑ったっていいじゃありませんか!なぜそれが良くないのです?!」


 普段のおしとやかな彼女からは想像もできないような激しい口調でした。

 大人たちはさらに目を丸くして固まりましたが、セイムは少しも動じません。

 彼は瞼を下げながら、諭すように、けれど断固とした態度で首を横に振りました。


「なにがあっても、絶対に忘れちゃいけないことだってあるんです。温かい料理を用意して待ってくれているピナさんの前でも同じことが言えるんですか?」


「シャズさんの笑顔が、後々その温かいお料理に変わるんです!」


「一歩間違えれば、その料理もなくなっていたんですよ?シャズさんのせいで!」


 セイムが感情を昂らせて身を乗り出した分、ジゼルは冷ややかに、すっと身体を引きました。

 彼女は心底呆れたように、ふんと鼻を鳴らします。


「お料理の材料なんて、いくらでも妥協すればいいじゃありませんか?品数を減らしたり、味付けを工夫すれば、どんな材料でも美味しくなります。それとも、食べ慣れたご飯じゃないと我慢できないんですか?セイムさんは」


 その言葉を聞いたセイムは、この上ない無念と深い悲しみを顔に滲ませました。


「どうしてそんなに怖いことを言うんです?どんな料理でも、誰かが用意してくれたものなら嬉しいに決まっているじゃないですか」


 真っすぐに、あまりにも澄んだ瞳で訴えかけてくるセイム。

 ジゼルはまるで不貞腐れた子供のように、ぷいっと顔を背けながら答えます。


「それで、こ(・)の(・)子(・)にも私の顔をさせていたのですね?」

 

 食卓の空気が、さらにもう一段張り詰めました。

 心配そうに見守っていた大人たちの関心が、セイムの隣、椅子の上にちょこんと座る自動端末へと一気に集中します。シャズとピナの瞳には、隠しきれない驚きと動揺が滲み出ていました。

 華奢な肩をびくりと跳ね上げ、アリーは真っ黒なガラスの顔面を少しだけ気まずそうに下へと向けました。

 実はアリー。ちゃっかりと、この屋敷の新たな居候になっていたのです。


 セイムは気まずそうに、顔を背けながら答えます。


「最初に思い浮かんだのが、あなたの顔だっただけです!」


「こんなにボロボロになるまで連れまわして、こき使って……私よりずっと、信頼なさっていたんですね」


「あなたを見つけるために、あの時は必死だったんです!」


 セイムの両手がどん、と食卓を揺らします。

 二人を隔てていたものを打ち破ろうとするような、必死で、あまりにも愚直な叫びでした。


「……あ(・)の(・)時(・)?」


 間髪入れずに、ジゼルが叫び返します。


「優しい嘘なんていらない!」


 その言葉とともに、彼女の瞳からついに一筋の涙が頬を伝いました。


「そんな言い方で、誤魔化そうとして……!あなたが必死なのはあの時だけじゃない!今だって、ドロシーさんのことで必死なくせに!……ずっとずっと!初めて会ったときからずっと!あなたはあの人のことで必死だったくせに……っ!」


 吐き出された声は、もはや悲鳴に近いものでした。

 直後、食卓からあらゆる音が消えました。

 窓の隙間を抜ける風の音も、薪の弾ける音も、大人たちの息遣いですらも、すべてがその場に凍りついてしまったかのようでした。

 

 シャズはお茶をすする手を完全に止め、ピナは息を呑んだまま固まります。

 椅子の上で身を縮めていたアリーすらも、黒いガラスの顔面を消灯させたまま駆動音ひとつ漏らしません。


 ドロシー。

 

 その名に一番の衝撃を受けたのは、他ならぬセイムでした。

 二人の間では、いつからか口にすることすら避けられていた名前です。

 両手をテーブルに付けたまま、セイムは目を見開いて固まっていました。


 ジゼルは涙で濡れた瞳で、真っすぐにセイムを見つめ返していました。

 荒い呼吸を繰り返しながらも、一度も目を逸らしません。


「私のことだって……!」


 喉を詰まらせ、しゃくりあげながら、彼女は必死に言葉を紡ぎます。


「こき使ってよ……っ!頼ってよ……っ!セイムさん!」


 堰を切ったように言葉が溢れ出た瞬間、ジゼルの瞳からぽろぽろと大粒の涙が零れ落ちました。

 

―――がたん!


 セイムが立ち上がります。

 彼はすたすたと出口を目指し、その場から立ち去ろうとしました。

 そんな彼をジゼルが呼び止めます。


「待ってよ!セイムさん!」


 泣いているせいか、喉が潰れて思うように声が出ませんでした。

 それでも、彼女は懸命に言葉を絞り出しました。


「どうなさる……おつもりですか……っ?」


 セイムはぴたりと立ち止まります。

 そんな些細な彼の行動ひとつで、ほんの一瞬ではありましたが張り詰めた食卓の空気は緩みました。

 彼は振り向きもせずに、頑固な口調で言いました。


「最も平和的な方法で、争いを回避するんです!」


 それはつまり、『逃げる』ということでした。

 彼の他人行儀な態度にジゼルは、鼻をすすりながら、声を震わせながら反論します。


「慣れないことをすると、転んで痛い目を見ますよ!」


「それくらい……なんですか……!ぜんぜん、かっこ悪くなんかない……!」


 低く、それでもはっきりとそう口にしたセイムは、間もなく廊下の暗がりへと消えていきました。

 

 食堂には、物音ひとつ立てることすら憚られるような沈黙が残されます。

 ゆらゆらと揺れている暖炉の炎も、どこか遠慮がちに見えました。


 ジゼルはしばらく、その場から動くことができませんでした。

 

 何度拭っても、涙は次から次へと頬を伝っていきます。

 震える指先で目元を乱暴にこするたびに、滲んだ景色の中で、セイムの消えていった廊下の暗がりだけが、ひどく鮮明に残り続けました。 


「……っ、ぅ……」


 喉の奥から漏れそうになる声を、唇を強く結んで押し殺します。

 

 やがて、乱れていた呼吸が少しずつ長く、静かなものへと変わっていきました。

 ジゼルは最後にもう一度、手の甲で涙を拭います。

 涙が完全に止まったわけではありません。

 ですが、彼女は毅然とした顔を作って見せます。


「……ごちそうさまでした」


 掠れた声でそう告げると、ジゼルは両手をテーブルについて、ゆっくりと立ち上がりました。

 椅子の脚が床をそっと滑る音に、ピナが心配そうに顔を持ち上げます。

 彼女がなにかを告げるよりも前に、ジゼルはまだ少し震える声で言いました。


「今日はお風呂には入りません。いつも通り、お風呂場の掃除はします。食器も明日洗います。おやすみなさい」


 そう言い残し、ジゼルは濡れた頬を隠すこともなく、食堂をあとにします。 

 それから間もなくして、ぱたぱたと階段を駆け上がっていく音が聞こえてきました。


 眉をひそめ、ピナがシャズの顔を覗き込みました。

 シャズが重々しく首を左右に振ったのを見て、ピナは両肩をすとんと落としました。


「……困ったわ」


 弱々しいピナの声。

 二人の間に、いまさら明確な言葉など必要はありません。

 シャズは、問いかけるように喉の奥で低く唸りました。

 彼女はその白い尾先で力なく空気を薙ぎ払いながら、真っすぐにシャズを見つめます。 


「だってあの子たち、私たちよりもずっと口が達者よ?」


 シャズは小さく鼻を鳴らすと、冷めきったお茶を最後の一滴まで喉の奥へと流し込みました。

 頑健な体を揺らしてゆっくりと立ち上がると、そのまま無言でピナの分の食器まで重ね、厨房の流し台へと運んでいきました。

 慌てた様子で、アリーもその隣に並びます。 


 ピナは一瞬だけ呆けたように目を丸くし、やがて、今日一番の、柔らかで優しい笑みを浮かべました。 


「明日は雪かしら?」


「……」



―――


 その晩、セイムは部屋に戻る……正確には、ジゼルと同じ空間に居る気が起きませんでした。

 ドーンソリアの東に広がる広大な砂の大地。その夜空は冷たく澄み渡り、頭上には煌めく星々が壮大な大河を描き出しています。

 屋敷の明かりから離れ、月光にさらされた自分の指先が、深い青に染まって見えました。


「……」


 彼は、砂漠へと続く中庭の飛び石を途中まで進みました。

 しかし、以前のように、あてもなく砂の海へ飛び出していく気力が湧いてきません。

 飛び石の上で立ち尽くしたまま、彼はただ、静まり返った夜の音に耳を澄ませていました。


 この静けさが好きだと思い始めたのは、いつからだっただろうか。

 そして、そんな風に思えなくなってしまったのは、いつからだっただろうか。


 心の整理もつかぬまま、やがて彼は、屋敷の隅にあるウルキラたちの小屋を目指しました。

 そこは、月明かりすら届かない屋敷の影の中にあります。

 塗り潰したような漆黒の暗闇の中、セイムは難なくその入り口を見つけ、音を立てずに中へと忍び込みました。

 きぃ。と、扉が軽くきしむ音。小屋の中は、しんと静まり返っていました。

 入り口でしばらく立ち尽くし、訪れた静寂に耳を傾けます。

 この場所は日中の太陽や月の明かりだけではなく、荒野を吹き抜ける風すらも避ける場所にあったのだと、セイムははじめて気づきました。

 彼は慎重に歩を進めます。

 壁に立てかけられた道具の位置も、足元に置いてある餌桶の場所も、彼はすべてを身体で覚えていました。

 やがて、小屋の片隅へと辿り着いた彼は、ひんやりとした壁に背を預け、膝を抱え込むようにして小さく身を寄せました。

 もし、誰かが小屋の扉を開けたとしても、すぐには見つかることのない位置。セイムが無意識に選んでいたのはそんな場所でした。


「……静かだ。この場所は、静かなんだ……」


 セイムは、自らにそう言い聞かせるように声を絞り出しました。

 しかし彼は、その静かであるはずの小屋の暗がりで、干し草がもぞりとこすれ合う音にさえ、まったく気づいていませんでした。

 音の主は素早く鼻先を持ち上げ、辺りの匂いを確かめます。

 間もなく異変を察知したのか、ゆっくりと立ち上がりました。


 その頑健な四肢からは想像もできないような滑らかな身のこなしでセイムへと歩み寄り、彼の頭にふっと鼻息を吹きかけました。


「…!」 


 不意に吹きかけられた温かな吐息に、セイムは視線を跳ね上げます。

 彼の目の前に現れたのは、この小屋を寝床にしている三頭のウルキラでした。

 

 本来、ドーンソリアの過酷な砂漠に生きるウルキラの雄は、群れを作らず単独で行動する孤高の存在です。

 ですが、死と隣り合わせの厳しい自然で生き抜いてきた彼らは、だからこそ、弱った個体の変化を誰よりも敏感に察知する深い知性を備えていました。


 ぬっと頭上に現れた大きな頭部が、セイムのひざ元へと寄ってきます。

 そのまま、彼の冷え切った顔を容赦なく舐め回し始めたのはソロモンです。


 ―――べろん!べろんっ!べろろんっ!!


「ちょ……やめてください。今はそういうのじゃないんです……!」

 

 たまらず、セイムは顔を背けようとしました。

 すると、また別の一頭がソロモンの反対側から首を擦り寄せ、自身の頭をぐいぐいとセイムの胸元や肩へ押し付けてきます。それはアーサーでした。

 と、ここまでならセイムは、辛うじてこの場に留まることができたかもしれません。

 暗闇に慣れてきた彼の瞳に次に飛び込んできたのは、空の餌桶を口で咥え、高らかに掲げている―――タイベリアスの姿でした。


「!!」


 反射的に立ち上がったセイムは、慌てて餌箱の蓋を開け、抱え上げた干し草を三頭の前に(特にタイベリアスの前に)差し出しました。

 すると三頭のウルキラは、まるで何事もなかったかのように、黙々と目の前の干し草を食べ始めました。

 彼らが目の前の餌に夢中になっているその隙に、セイムはこっそりと、小屋から出ていきました。


―――


 屋敷を横切り、次にセイムが向かったのは、坑道へと続く飛び石の通路。その途中にあるあばら家です。

 それはウルキラたちの住処とは異なり、月明かりにも夜風にも、遠慮なく晒される場所にありました。

 ぼんやりと白く光る坑道の裂け目を背に、その歪なシルエットが浮かび上がっていました。


 ……ぎぃ。……ぎぃ。


 乾いた木が擦れ合う音が、冷たい風に乗って聞こえてきます。

 建付けの悪い扉が出しているものではありません。屋根や壁、小屋そのものが風に軋んでいる音でした。

 セイムは、それを知っていました。


 あばら家の扉を押し開けると、彼の視線は自然とある方向へ吸い寄せられていきます。

 この地を訪れてからしばらくの間、毎晩、身体を丸めて眠っていた場所でした。

 斜めに立てかけられたシャベルと、空になった燃料缶。

 その隙間に残された、ほんのわずかな空間。

 坑道での作業を終えたかつての彼は、ここで冷たい地面に身体を丸めているだけで、不思議と満たされた気持ちになっていました。

 彼は確かに、一種の幸せすら感じていたはずでした。


「……」


 セイムはそっとその隙間に近寄り、すっかり平らにならされたその場所を見下ろします。

 そこに眠っていた頃の自分の姿が、目に浮かぶようでした。

 冷たい土の上で身体を丸め、膝を抱え込むようにして眠る自分。

 毛布などありませんでした。

 満足に夜風を遮る壁も、屋根もありません。

 それでも、坑道で一日中身体を動かした後の疲労に身を任せれば、朝まで目を覚ますことなく眠ることができました。

 何も求めず、何も足りないとも思わない。あの頃は、それだけで十分だったのです。

 

「……」


 セイムは、斜めに立てかけられたシャベルを少しだけ横へずらしました。

 空の燃料缶も、足先で邪魔にならない位置へと押しやります。

 そうして生まれたのは、あの頃とほとんど変わらない、ちょうど身体一つを収められるだけの空間でした。

 かつて毎晩そうしていたように、彼はそこへゆっくりと腰を下ろしました。

 壁に寄りかかり、膝を抱え、身体を小さく丸め―――そして、静かに目を閉じました。


……ぎぃ。……ぎぃ。


 屋根の軋む音が聞こえます。

 壁のすき間を抜けた冷たい風が頬を撫でていきました。

 硬い地面から伝わってくる冷気が、服越しにじわじわと肌へと染み込んでいきます。

 昔と、何も変わっていませんでした。

 いいえ。以前より多少、建物が傷んでいるのでしょう。

 身を切るような寒さを、彼はこのとき意識せざるを得ませんでした。


 それでも、この程度の寒さなら眠ることの妨げにもならなかったはずでした。


「……」


 それなのに、どうしても眠れそうもありませんでした。


 腕の位置を変えてみます。膝を抱えなおしてみます。壁に預けていた背中を少しだけ横へずらし、もう一度目を閉じてみます。

 ですが、どれを試しても、以前のようにしっくりとはきませんでした。


 やがてセイムは、諦めたように瞼を開きます。

 視界の先には、すき間だらけの屋根。

 その向こうから、ほんの小さく月の光が覗いています。

 そこに月があったことを、彼はずっとずっと知っていました。


「……もともと弱かったのに」


 彼はもう一度、膝を抱えなおしてそう言います。

 誰にも聞かれることのない声でした。

 自然と歪み始めた口元を、その膝の間へ隠します。

 

「もっと、弱くなってしまったみたいです」


 微かな自嘲を含んだ声が、あばら家の隙間から外へと抜けていきました。

 返事はありません。ただ、屋根だけが―――ぎぃ。ぎぃ。

 以前と変わらない音を立てています。


「……」


 しばらくして、セイムは立ち上がりました。

 ずらしたシャベルにも、足先で押しやった燃料缶にも手を伸ばしません。

 ほんの少し前まで自分が収まっていた隙間を振り返ることもなく、そのままあばら家をあとにしました。


―――


 扉を出た途端、遮るもののない夜風がセイムの身体を吹き抜けました。

 思わず肩を竦めます。

 頭上に広がる壮大な星々に見下ろされながら、彼は一歩、また一歩と足を動かしました。

 砂漠と同じく、屋敷もすでに静まり返っています。

 その中でただ一つ。居間の窓だけには、淡いオレンジ色の光がゆらゆらと揺れていました。

 暖炉の残り火が、弾けることもなく静かに薪を燻ぶらせているのでしょう。中がどうなっているのか、セイムはよく知っていました。


 セイムはしばらく窓の明かりを眺めたあと、屋敷の扉へ手を伸ばしました。

 音を立てないように、ゆっくりと押し開けます。

 途端に、外とは違う空気が彼の頬を撫でました。


 暖炉から遠く離れた廊下ですら、夜風にさらされた外とは比べものになりません。

 すっかり冷え切った身体に、建物が蓄えた温もりがじんわりと染み込んでいきます。

 それは見かたによっては、単なる熱の浪費を意味していました。

 言いようのない申し訳なさが込み上げてきます。

 セイムはできるだけ早く、そして静かに、扉を閉じることにしました。


 ぱたん。


 そんな小さな音を最後に、荒野を吹き抜けていた風の音はどこかへと遠のいていきました。

 屋敷の中には、誰かの寝息さえ聞こえてきそうなほど穏やかな静けさが満ちていました。


 廊下を進んだ先、居間の扉の隙間から、細いオレンジ色の光が廊下に伸びています。

 一瞬だけ足を止めましたが、中を覗くことはしません。

 そのまま、階段へと向かいます。


 二階にある部屋には、いつもと変わらない空気がありました。

 広い屋敷の中でも、とりわけ掃除の行き届いた空間。

 そこには、ほのかな石鹸の香りが漂っています。

 扉のすぐ脇で待機していたアリーが、セイムの存在に気づくと同時に、軽く頭を下げました。

 それ以上のものはありません。

 アリーはすぐに視線を戻し、何事もなかったかのように元の待機状態へと戻ります。

 窓辺に配置されているベッドには、すっぽりと布団にくるまったジゼルの姿がありました。

 

 指先一つ見せてなるものか。


 そんな頑なな決意を体現しているかのように、小さなお尻をこちらへと向けていました。


「……」


 セイムは、そこから少し離れた自分のベッドへと向かい、静かに横になります。

 わずかな身じろぎもありません。

 寝息すら聞こえませんでした。

 背を向けたまま横たわるその姿を、セイムはしばらく見つめていました。


「ジゼルさん」


 そっと、その名を呼んでみます。

 声はすぐに部屋の静寂へと溶けていきました。

 反応はありません。

 目の前の布団の塊は、ぴくりとも動きませんでした。

 それでもセイムは目を逸らしません。

 急かすこともなく、ただ辛抱強く待ち続けます。


「……なんですか?セイムさん」


 どれほどの時間がたったのか、ようやく返ってきたのは、素っ気なく、ただ名前を知るだけの他人へ向けるような、妙に整えられた声でした。

 ふかふかの枕に横顔を半分埋めたまま、セイムはしばらく黙っていました。

 部屋の中は、まるで静止画のように動きを止めています。

 窓から差し込む月光さえも、遠慮がちに床へと伸びているかのようでした。

 やがて、セイムはそっと口を開きます。

 

「お願いがあるんです」


 今度は、ジゼルの方が黙りました。

 しばらくして、小さなため息が聞こえます。

 布団がかすかに擦れました。

 ジゼルはその中でゆっくりと身体を回し、ようやくセイムの方へ顔を向けます。


「なんですか?セイムさん」


 鼻から細く抜けるような、よそ行き用の声。

 泣き腫らしたであろう目元に、透き通ったアイスブルーの瞳。

 二人はそのまま動きを止めました。

 互いに表情らしい表情も浮かべず、ただ、向かい合った二つのベッドの上から、しばらく相手の顔を見つめていました。


 ほんの少しだけ間を置いて、セイムは言いました。


「ドロシーに会いたいんです」


 そう口にしたセイムの瞳はどこまでも真っすぐで、残酷なくらい透き通っていました。

 ジゼルはなにかを言いかけて、唇を少し離した状態で動きを止めています。


 やがて、彼女は言いました。


「あなたおひとりでは、きっと半日も持ちませんものね」


「ジゼルさんだって、僕がいないとすぐに泣くじゃないですか」


「……」「……」


 二人は無表情のまま、指先一つ動かすことなく、しばらく互いの顔を見つめていました。

 

 やがて。


「……くくっ。フフフッ!」


 声を押し殺しながら、セイムが笑います。

 つられるように、ジゼルも笑ってしまいました。


「なにが可笑しいんです?」


 呼吸を乱しながらも、声だけは妙に澄ましていました。

 語尾もつんと持ち上がっています。


 うっすらと涙を溜めなおした瞳を見つめ、セイムは込み上げてくる可笑しさを抑えながら言いました。


「ひどいですよ」


「……なにがです?」


「一週間くらいはもちます」


「いいえ、もって三時間です」


「どうして減ったんですか」


 二人はまた、くすくすと声を殺して笑い合いました。


 やがて、セイムの笑い声が少しずつ落ち着いていきます。


「そうだ」


 ふと思い出したように身体を起こすと、セイムは扉のそばへ視線を向けました。

 そこには、先ほどから変わらずアリーが待機しています。


「ちゃんと紹介していませんでした。アリー、こちらへ来てください」


 唐突に名前を呼ばれ、アリーの肩がびくりと跳ねあがりました。

 今さらすぎる紹介を、ジゼルは冷やかしたりはしませんでした。

 いつか自分も、誰かにこうして紹介される時が来るのだろう―――そんな思いを早くも胸の奥に抱えながら、彼女もまた、そっと布団から身体を起こします。


「は、はい!」


 ……ウィーン、カシャ。

 ……ウィーン、カシャ。


 あからさまに動揺し、緊張した足取りで歩いてくるその姿を、二人は優しく見守りました。

 やがてベッドの間までたどり着くと、セイムは少しだけ誇らしげに声を弾ませます。


「ジゼルさん、アリーです。アリー、ジゼルさんです」


 アリーは背筋をピンと伸ばし、丁寧なお辞儀をして見せました。


「私は、対人接続支援型自動端末、ALI-E/07-FP。通称アリーです。改めまして、よろしくお願いいたします。ジゼル様」


「はい。こちらこそ、よろしくお願いします。アリーさん」


「はい!」


 ジゼルは丁寧に頭を下げました。

 顔を上げた後も、しばらくアリーを見つめています。

 そして、その表情から少しずつ笑みが消えていきました。


「アリーさん……」


「はい!なんでしょう?ジゼル様」


「あの立派な生き物は、あなたたちにとって大切な存在だったのよね。それを、私は……」


 ジゼルが言葉尻を濁らせて視線を落とすと、セイムが気遣うように口を開きかけました。

 ですが、それを制するようにアリーが軽やかに言葉を重ねます。


「確かにヨナは、私たち自動端末にとって大切な存在と呼べたかもしれません」


 静かな、けれどどこか淡々とした声でした。

 ジゼルの表情が曇ります。

 布団の上に置かれていた指先が、ゆっくりと握り込まれていきました。


「ジゼルさん―――」


 たまらずセイムが口を開きます。


「ですが」


 それすらも遮るように、アリーは続けました。


「ですが、今のアリーには、その大切さを以前と同じように感じることができないのです。アリーは、その、ヨナのことを以前ほどよく思い出せないのです。あの時、アリーの処理能力が限界を超えてしまったせいかもしれません」


「限界……?」


 ジゼルが首を傾げると、アリーはゆっくりと俯きました。

 それから間もなくして、搭載された冷却ファンが、いつもより数段高い音を立て始めます。

 指先で胸の発光端末に触れながらアリーは言いました。


「……はい。と申し上げますのも、セイム様と出会う以前の記録領域は、その大部分が新たな記録によって不可逆的に上書きされつつあります。本来、このような仕様は、私たちの同モデルには搭載されていません。あの時、つまりセイム様をこの身体に刻み込んだあの瞬間から。アリーはもっと、壊れてしまったのかもしれません」


―――ふぉわぁああああ!!!(ファンの唸る音)


「……」

「……」


 部屋の中に、また別の種類の沈黙が訪れました。

 ジゼルがゆっくりとセイムを見ます。

 セイムもゆっくりとアリーを見ました。


「アリー」


「はい!」


「その言い方は、やめてください」


『!?』


 思わぬ冷静なトーンで返され、アリーは言葉を詰まらせました。

 どこか冷ややかですらある声、腫れ物に触れるかのような態度。

 アリーの思考回路に、たちまち危険信号が灯ります。


「な……!なぜでしょう?!」


「……なんとなくです」


 加えて、素っ気なく視線を逸らされると、アリーはいっそう慌ただしく焦り出しました。


「で、では!記録されている映像データを検証し、適切な言語表現をお教えください!まずは……」


 アリーは矢継ぎ早にそう告げると、顔面のディスプレイを起動させました。

 その優秀なセンサーによって、細部まで記録された映像がディスプレイいっぱいに映し出されました。


 滑らかな曲線を描く白い脚部に、幼子のようにしがみ付きながら眠る、セイムの姿。


「わ!わ!」


 弾かれたようにベッドから飛び上がり、慌ててそれを隠そうとするセイム。

 

 ジゼルは、そんな彼をしばらく黙って見つめていました。

 胸の奥に残ったものが、消えてしまったわけではありません。

 それでもやがて、細められた瞳の下、その口元に柔らかな笑みが戻ります。

 ほんの少しだけ、作りものめいた笑みでした。


「セイムさん。どうなさったのですか?いけませんよ、アリーさんの邪魔をしては」


「違うんです!この時は凍死しそうだったんです!」


 唐突に飛び出した物騒な言葉に、ジゼルの細やかな演技は早くも瓦解します。

 殺伐としたジョズの街は記憶に新しく、セイムなら本当に凍死しかけていても不思議ではありません。

 そう思うと、今の彼の姿が余計に可笑しくなってしまいました。


「ずいぶんと、充実した時間をお過ごしになられたのね」

「そ、そうだ!アリー!地図を出してください!」

「はい!」

 

 アリーのディスプレイが切り替わり、セイムの映像の代わりに鮮明な地図が浮かび上がります。

 

「そもそも、ジゼルさんが道に迷うから……街中、探したんですよ?」


 セイムは地図へ視線を落としたまま、どこか居心地悪そうにぶつぶつと零します。その耳は、まだうっすらと赤みを帯びたままでした。


 ジゼルはくすくすと肩を揺らして笑うと、彼の必死な様子に付き合うように、ベッドの上で身を乗り出します。

 街で迷ったおかげで、誰と出会い、そして、誰を手助けすることができたのか。

 その出来事を、今口にするのはやめておこうとジゼルは思い直しました。

 夜はまだ長く、急いですべてを語り明かす必要など、どこにもないのです。

 

「それでですね」


 気を取り直したセイムが、アリーの顔面を指さします。


「地図って、上が北、下が南と決まっているんです」

 

 ジゼルは素直に頷きました。


「北が上、南が下です。『なんか(南下)……北上?』って覚えてください」


「なんか、北上?」


「そうです」


「なるほど」


 極めて珍妙な講義でしたが、ジゼルはどうやら納得したようでした。

 もっとも、セイムには先ほどから、彼女が本当に理解しようとしているようには見えません。

 隙あらば先ほどの話を蒸し返されるのではないかと、内心ひやひやしていました。


「南は『S』と表記されることもあります。『下』のSって覚えるのもいいかもしれません」


「下のS」


「はい」


 ジゼルはまた、もっともらしく頷きます。

 その顔は先ほどとほとんど変わりませんでした。


「では、Nはなんと覚えたらいいのですか?」


「N?」


「はい。北はNなのでしょう?」


「そうですけど……」


 セイムの指先が止まりました。


「N……」


 思いのほか真剣な顔で、セイムはしばらく考え込みます。

 ジゼルも急かすことなく、その答えを待っていました。


「ぅぅん……」


 やがて、セイムが恐る恐る口を開きます。


「ぬえ(上)?」

「……」

「……上、です」

「……」


 ジゼルの口元が、ぴくりと震えました。


「いや、違います。今のは忘れてください」

「ぬえ」

「忘れてくださいって!」

「ふふっ……!」


 とうとう堪えきれず、ジゼルが吹き出しました。


「ジゼルさん!」


「だって……っ、セイムさんが、あんまり真剣なお顔で……!」


「僕だって、ちゃんと考えたんですよ!」


「わかってます。けど……可笑しくって」


 ジゼルは喉の奥でころころと笑いました。


「もう」


 そう言ったセイム自身も、やがて耐えきれなくなりました。

 二人の笑い声が、静まり返った夜の屋敷に重なります。




 一階の居間では、暖炉の残り火が赤く揺れていました。

 ピナは椅子の傍らに腰を下ろしたまま、隣に座るシャズの膝へ体を預けています。


 二階から、かすかに笑い声が聞こえてきました。


「……」


 ピナは何も言いませんでした。

 ただ、傍らにあったシャズの大きな手を取ると、その甲を指先でゆっくりとなぞります。

 

 シャズも、何も言いません。


 暖炉の中で、小さく薪が崩れました。


 二階からは、もう一度だけ笑い声が聞こえてきました。

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