別れ。
一艘の船が、限界まで機関を軋ませながら、漆黒の虚空を上っていきます。
コルトの無茶な、けれど血を吐くような懇願を受け入れた、最後の一艘でした。
採掘作業に参加していた八十艘のうち、その馬鹿げた提案に応じ、競売に名乗りを上げたのはわずか三艘。競りは速やかに行われました。
そして今、採取されたブルーバードを引き取る権利を得たのは、ジゼルを乗せたあの一艘だけでした。
ホローポイントの底なしの暗がりに、ポツンと残された小さな光が、その場からゆっくりと遠ざかっていきます。
コルトたちは誰一人として振り返りません。
羅針盤もナビゲーターの手も借りず、段々と速度を増していく古びた採掘船。
船底の重りを外し本来の形を取り戻した『浮きシップ』を背に、コルトたちは帰投ポイントをあとにします。
やがて、闇の中から浮かび上がるようにそれは現れました。
純白の巨体をもった、神々しき生物。ホローポイントの絶対者。ヨナ。
はるか遠く、その動きはどこまでも緩慢で、時折、虚空に静止しているようにすら見えました。
乗組員たちの頬を激しく叩くおびただしいエーテル光は、自分たちの船が今まさに、限界の速度で前に進んでいることを告げています。
それなのに、背後に広がる巨大な影は、遠ざかるどころか、むしろぐんぐんと近づいてきました。
それはまるで、虚空に広がる白い影そのものが、その場から一歩も動かないまま、船の方を引き寄せているかのような、そんな錯覚すら覚えるほどでした。
しかし、乗組員たちに、いまさら狼狽える者など一人もいません。
乱暴に剥ぎ取られた甲板の下、剥き出しになった起爆装置へ、コルトはすでに指をかけています。
「十分に引き付けろ」
低く、地を這うような声。
誰も返事はしません。ただ、全員が等しく訪れるであろうそのタイミングを見計っていました。
―――
ヨナが迫ります。
ほんの数秒前まで闇の奥にいたはずの巨体が、次の瞬間には船尾を飲み込まんばかりの距離に肉薄していました。
見張り役は、とっくに双眼鏡を投げ捨てています。肉眼で、その無機質な眼球と視線が合うほどの距離。
もはや、覗き込む必要などありませんでした。
響き渡るエンジンの唸り。あまりにも静かな死の気配。
見張り役の右腕が、鋭く虚空を切り裂きます。
起爆の合図。
コルトの指が、スイッチを限界まで押し込みます。
次の瞬間、ドン!と、世界が爆発しました。
鼓膜を容赦なく破壊するかのような轟音、網膜を焼き尽くさんばかりの閃光。
ですが。
それは、彼らの仕掛けた船底爆薬が放つものではありませんでした。
星の光すら届かないホローポイントの暗闇を、太陽のような光が横から一息に貫いた音でした。
見張り役の合図よりも速く、ヨナの突進よりもなお鋭く、一筋の凶暴な光が空間を裂いて、コルトたちの船尾へと滑り込みます。
「……ジゼル!?」
「コルトさんっ!!!」
鼓膜を、お互いの存在だけで殴りつけるような絶叫。
たったそれだけで、二人の間で言葉は不要でした。なぜ戻った、どこに隠れていた、などという無粋な問いは、この光の速度の前には存在することさえ叶いません。
自らの意志を言葉に変え、ジゼルは世界へと叩きつけます。
『ガーデン・リリー!!』
次の瞬間。
闇の底で淡いエーテル光が狂い咲きました。
それは一輪の小さな花でした。
圧倒的な巨獣を前にしてなお退かない、なによりも尊い決意の結実。
白磁の巨拳は、迫りくる巨獣の行く手を遮るように、その鼻先に毅然と咲き誇ったのです。
「―――チィッ!」
コルトの思考は、光がヨナへと到達するよりも迅速でした。
即座に起爆スイッチを破棄し、隣の赤いレバーを限界まで引き絞ります。
「ベリネ!船底の重りをパージしろ!」
「コルト船長!なんのつもりだ!」
額に脂汗を滲ませながら、ベリネが怒鳴ります。
常人ならば、それだけで膝を折っていたであろう怒声でした。
しかし、コルトはその数倍に匹敵するであろう、凄まじい怒声をもってそれに応えます。
「わからねえのかベリネ!!」
コルトの声が、船全体を震わせます。
ガコン、と重低音が響き、自沈用の重りが虚空へと引き剥がされていきました。
沈みかけていた船が引っ張られるようにして、猛烈な勢いで浮上を開始します。
「あいつは俺たちを助けようとしてんだ、全員急いで船内へ戻れ!……ジゼルの覚悟を無駄にするな……!」
ごっそりと抜け落ちた船底から見えるのは、視界のほぼすべてを占有するヨナの巨躯。
その巨体に真っ向から激突していく、小さく、あまりにも小さく眩しい少女の背中を、コルトはギリリと歯を食いしばりながらその目に焼き付けました。
「ガーデン・リリー……」
ガーデンリリー、そしてヨナ。
ホローポイントの底なしの闇の上で、その二つの白は激突します。
『撃っ!!!』
海を割り、巨大な山脈すらも粉砕すると語られる一撃が、ヨナの鼻先に炸裂しました。
白くあまりにも巨大な闇に、衝撃という名の高波が押し寄せます。
ヨナの巨体がぐらりと揺れました。そのわずかな間に、船は浅層エレメント域を超え、境界海域へと抜けていきます。
しかし、一度狙った標的を簡単に見逃すほど、ヨナは容易くありません。
ごう、と、ジゼルの世界から音が消えます。
いいえ、それは違います。尋常ならざる密度を持ったエレメントが、すべての音を圧し潰していたのです。
境界海域を突き破り、船は深海へと転がり落ちていきます。その背後から迫るはずの純白の影は、ジゼルという障害物を鼻先にぶら下げたまま、さらにその速度を増しました。
深く、深く、潜ります。
光を拒絶するホローポイントの、さらに奥底へ。
第三層の底さえも一瞬で通過し、世界は人類未踏の領域―――第四層の深部へと、ジゼルを容赦なく引きずり込んでいきました。
指先一つ動かせないまま、ジゼルは感覚を研ぎ澄ませます。
彼女の目的は自衛などではありません。
そして、ヨナの目的もまた、彼女の排除などではないのです。
凄まじい圧力を押しのけていた巨体が、突如として反転します。
周囲の闇に押し戻されるように、ヨナは猛烈な勢いで浮上を開始しました。
鼻先にしがみ付く異物などもはや眼中にありません。
狙うはただ一つ、ブルーバードを弄び、ホローポイントの傷を抉る存在―――コルトたちを乗せた船でした。
唸りを上げて、境界海域を突き破るヨナ。
おびただしいエーテル光を身に纏い、死神の顔をした純白の影が船へと迫ります。
その無機質に澄んだ瞳は、今にも圧壊しそうなほどに軋みを上げている船だけを正面に据えていました。
「……させないっ!」
絶叫と共に、ヨナの鼻先に食い込んでいた指先から、爆発的な勢いで黄金の亀裂が走ります。
「ガーデン・リリー……」
それは夏の日差しを浴びて猛烈に繁茂する、植物の根にも似ていました。
「縛っ!!」
ヨナの半身を覆い尽くさんばかりの勢いで伸びた黄金の亀裂が、凄まじい力で純白の巨体を縛り上げます。
ぎ。ぎ。ぎ。と塩辛く、冷たく、粘り気のある空間が、くぐもった悲鳴を上げました。
急浮上する巨体が強引に捻じ曲げられて、船の隣を突き抜けていきました。
鎌のように鋭いアーチを描く尾びれが船体を掠めます。たったそれだけの衝撃で船は逆さまにひっくり返りました。ですが、船は沈みません。
浮上の勢いをそのままに、ヨナは深海すらも抜け、灰色の海を割り―――やがてスカイワールドの空へとその姿を現しました。
―――
灰色の海を突き破り、ヨナの巨体がスカイワールドの空へと躍り出ました。
次の瞬間、ジゼルの視界を、燃え盛るような鮮烈な赤が焼き尽くします。
「……っ!」
長い間地下の暗闇に慣れきっていた瞳には、沈みかけた太陽の光でさえ、あまりにも眩しすぎました。
反射的に閉じた瞼の裏側まで、真っ赤な光が染み込んでいきます。
それでもジゼルは、細く目を開きました。
はるか眼下に広がる、夕暮れの世界。
灰色の海。切り立った断崖。そして、その縁に引っかかるように横たわる巨大なジョズの街。
けれど、こうして空高くから見下ろしてしまえば、それは得体の知れない不気味な街などではなく、とうの昔に役目を終えた一艘の船にしか見えませんでした。
枝分かれした無数の通路も、積み重ねられた瓦礫も、今はすべてが小さな模型のようです。
世界そのものが、掌に収まるほどのミニチュアになってしまったようでした。
そのはずなのに。
ジゼルは、すぐに見つけてしまいました。
崩れかけた船首の先。
夕日の中に立つ小さな人影。
顔など見えません。服装さえ判別できません。
けれど、それが誰なのかを確かめる必要はありませんでした。
「……セイムさん」
思わず、その名が唇からこぼれました。
そして、まさにそのときでした。
ジゼルの指先に伝わっていた凄まじい力の流れが、突如として変わります。
なぜなのかはわかりません。ただ、ジゼルには、ヨナの意識が異なる対象へと完全に切り替わった。それだけは、はっきりとわかりました。
夕日に染まる空を一直線に突き進んでいた純白の巨体が、空中でゆっくりと身を捻ります。
山ほどもある体の進行方向が、あり得ないほど滑らかに変わっていきました。
「!」
翼もなく、足場さえない空の上で、それはまるで、世界そのものがヨナのために傾いたかのような、奇跡のような光景でした。
ヨナの頭部が、ジョズの街へと向けられます。
透き通った、どこまでも無垢な瞳は、崩れかけた船首に立つたった一人の少年をすでに捉えていました。
「……っ!!」
ジゼルは即座に覚悟を決めました。
次の瞬間、それは一振りの刃となって彼女の手の中に現れていました。
振り抜かれた刃の一閃に気づけた者は、この世界に誰一人として存在しません。
数えきれないこの世の掟、あるいは数多ある神話を、その一撃は過去のものだと断じます。
ヨナの巨体はぐにゃりと捩じれ、凄まじい轟音と共に、とうの昔に人の気配が途絶えた街の中心部へと墜落しました。
剥き出しの鉄骨も、傾いた建物も、すべてが等しく押し流されていきました。
半壊した街に静寂が戻るまでには、それほど長い時間を必要としませんでした。
困惑に震えていた人々の呼吸も、事実を目の当たりにすると同時に、刹那の静寂へと飲み込まれていきました。
そして、それはやがて、津波のような爆発的な歓喜へと変貌します。
―――!!!
割れるような歓声。
街の至る所で息を潜めていた住民たちが、微動だにしないヨナのもとへと殺到していきました。
間もなくして、その純白の巨体は切り刻まれ、焼かれ、塩をかけられ、この地に生きる彼らの糧となりました。
男たちの熱気が立ち込める中、静かに船首へと舞い降りたジゼルは、それを背後に聞いていました。
唇を固く引き締めたまま、じっとこちらを見つめるセイムを、彼女は冷たい夕日を背負って見下ろしています。
彼の傍らには、一体の自動端末の姿がありました。
きっと、なにかがあったのでしょう。頭と胸のクリアパーツには、痛々しい亀裂が走っていました。
アリーは、ほかの自動端末たちと同じく、呆然と、地上に横たわるヨナの姿を眺めていました。
「……タスク、完了……」
アリーの喉元から、電子の砂粒が零れるような、乾いた音声が出力されました。
それと同時に、彼女のディスプレイは音もなく消灯します。
わずかに落ちた華奢な肩越しに、セイムはただただジゼルを見つめていました。
そこに、数日ぶりの再会を喜ぶ声はありませんでした。
二人の間に流れるのは、冷たい夕暮れの静寂だけでした。




