アリーの祈り。
工事中(?)
崩れかけた船首で、セイムは海の彼方をじっと見つめていました。
世界の果てであるはずの、この場所から見た、あの美しかった光景をもう一度見たかったのかもしれません。
あるいは、目の前にある別のものからごく自然な形で目を逸らしたかったのかもしれません。
気づけば彼は、夕方になるとこの場所へと戻ってきてしまいました。
「神様。前回のお食事からすでに十二時間以上が経過しています。お腹は空いていませんか?」
すぐ隣から聞こえるのはジゼルの声。
辺りはすっかり暗くなり始めているというのに、その輪郭は鮮明です。
季節は冬になりかけていました。
大陸の最果てにあるジョズの街。そのさらに隅に彼はいます。
夜が来るたびに凍えるような海風が吹き付け、セイムの身体から容赦なく体温を削り取っていました。
何もしなくても、いいえ、何もできなくとも、空腹が襲い掛かります。
そんなセイムの役に立つこと。それが、この街で出会った自動端末、アリーに残されたタスクでした。
「いいえ、大丈夫です。ありがとうございます。アリー」
セイムは絞り出すようにそう言いました。
アリーは何も言わず、ジゼルの健やかな笑顔をディスプレイに浮かべたまま、そっとセイムの身体に身を寄せます。
彼女の華奢なフレームから伝わってくるのは、微かな振動。そして、人肌ほどの一定の温もりでした。
最後に街のエレベーターが動いてから、すでに数日の時が流れていました。
彼が知りうる下層へ向かうための唯一の手段、エレベーターはあの日以来、一度も動いていません。
はぐれてしまったジゼルを探し、街中を彷徨っていたセイムがこの数日間で知ったことといえば、商業船団がいつもより遅れていること。街には、思っていたよりもずっと大勢のプレイヤーと自動端末が住み着いているということ。そしてその誰もが、心にどこか寒々とした空白を抱えているということだけでした。
背後の太陽が沈みかけ、夜の始まりを告げる一際冷たい風が吹きました。
そのあまりの冷たさに、セイムは思わず肩を寄せました。
膝を抱える指先は、まるで氷のように冷えています。
それでも、セイムはその痛さを拒みませんでした。
「―――あ!」……ピコンッ『!』
短い警告音。
アリーのディスプレイにでかでかと、赤い!マークが重なりました。
初めて見たはずの光景、初めて聞いたはずの音。
しかし、訪れた暗闇と静寂は、セイムの反応をこれでもかと鈍らせていました。
セイムが気づいたとき、アリーはすでにセイムの片腕を絡み取り、自身の細い身体の方へと引き寄せていました。
ジゼルの健気な笑顔を画面の奥に浮かべたまま、セイムの手を掴み、最も熱の集まる脚部パーツの隙間へと、その冷え切った指先を迷いなく差し込みます。吸い付くような滑らかな曲線から、痛いほどの熱が伝わりました。
「!」
硬質な脚部フレームの隙間で、びくり。止まろうとする指先が見えました。
驚愕の表情を浮かべるセイム。
割れた画面の向こう側、アリーは穏やかな表情で彼を見ています。
「アリーの優秀なセンサーが、神様の体温の異常を検知しました。危うく、目の前で神様を凍死させてしまうところでした!でもご安心ください。もう大丈夫です」
言葉を失い硬直するセイムをよそに、アリーは冷え切った腕をさらに深く抱き寄せます。
凍えていた体がその暴力的なまでの温もりに歓喜し、彼の意識を置き去りにしたまま、ますます強張っていきました。
パーツ同士のかみ合わせをさらに狭め、アリーは誇らしげに続けます。
「心拍数の上昇に伴い、体温の上昇と、末端部位への血流の改善を確認しました!」
そこまで言い終えると、アリーはジゼルの顔のまま小さく首を傾げました。
わずかに身体が傾いたことによって、彼女の熱が、また別の肌へと移ります。
ずきずきと、内側から張り裂けるような痛みが走りました。
しかし、それがひどく心地よく、セイムの体を温めると同時に彼を困惑させました。
「アリーの効率的なデザインはお気に召したでしょうか?神様」
問いかけに答える余裕はなく、セイムは逃れるようにそっと腕を引き抜きます。
途端に、肌を撫でる冷気が再び牙を剥きました。
それでも、アリーのおかげか、先ほどよりは幾分かましでした。
彼は両手で膝を抱え直すと、困惑を隠すように、口の端にぎこちない笑みを浮かべて見せました。
「ありがとうございます、アリー。……けど、凍死だなんて大げさですよ」
するとアリーは、しばらく動きを止めた後、重々しく首を左右に振りながら答えます。
「いいえ神様。アリーの優秀なセンサーに狂いはありません」
そこまで言い終えると、重々しい横方向の動きが縦の方向に変わります。
「神様はいま、たしかに凍死する寸前でした。アリーにはそれが分かるのです」
うむうむと頷き、自信に満ちたその表情。
彼女の発言の真偽を確かめる術はありません。
ぴゅうぴゅうと吹き抜ける寒風の中、アリーはディスプレイに!マークを灯したまま、再び表情を一変させました。
「もちろん!お礼には及びません。アリーは現在進行中のタスクを実行したまでです!それで、その……このお方の代わりを、アリーはきちんと務められているでしょうか?」
健気な笑顔を浮かべ、次に照れくさそうに、期待に満ちた声を弾ませるアリー。
その純粋すぎる問いかけは、人知れずセイムの胸を鋭く刺しました。
凍死寸前だったとはいえ、彼女の脚にしっかりと触れてしまった自分への、言いようのないうしろめたさ…。
セイムは海の彼方に視線を逸らしたまま、しかし、隣に座る無垢な自動端末へと言い聞かせるように言葉を紡ぎました。
「あなたはあなたですよ、アリー」
「……!」
直後。
アリーの割れたディスプレイから、ジゼルの笑顔が消えました。
消し忘れていた!マークも消えました。
代わりに、画面いっぱいに巨大な文字が表示されます。
『ガーン!!!』
もちろん、セイムに悪気はありません。
ですが、懸命にジゼルの代わりを務めようとしているアリーにとって、彼の言葉は少しだけ残酷だったのかもしれません。
深刻に、しかしどこかコミカルに、彼女の割れた画面がめまぐるしく切り替わりました。
四分割された画面にぱたぱたと現れたのは、『ショック』。『パニック』。『リトライ』。『頭を抱える』状態を体現した二頭身の小さなアリー。
そしてそれぞれのアリーたちは、やがて上から降ってきた赤い文字の下敷きになってしまいました。
『失敗!失敗!失敗!失敗!』
それと同時に、アリーの華奢な両肩が、なにかとんでもない真実に気づいてしまったときのように、びくりと跳ねあがりました。
わなわなと肩を震わせながら、彼女は身を乗り出します。
直接触れなくても伝わる排熱が、事の重大さをなによりも物語っているようでした。
「改善のためのフィードバックを要求いたします!神様!」
鬼気迫るその態度に、セイムは思わず身を引きました。
赤い点滅にあわせて、彼の引きつった表情がアリーの顔面へと映り込んでいます。
すると、アリーの優秀なセンサーが、どうやらその異常を拾い上げたようです。
がっくりと肩を落とし、今にも消えてしまいそうな声で言いました。
「……ならばアリーは、やはり神様のお役に立てないのでしょうか?」
ぽつりとこぼれた言葉が、セイムの胸に深く突き刺さります。
セイムは困り果てたように眉をひそめると、アリーに向けて上半身を傾けました。
「そんなことありませんよ。……さ、こちらへ来てください」
そっと両手を広げると、アリーの喉からノイズ交じりの、歓喜の音が聞こえます。
「はいっ!新たなタスクを検出。今すぐに、アリーが向かいます!」
それからアリーは、セイムが広げた腕の中へと滑り込むようにして、膝の上のわずかに空いたスペースへと真っすぐに倒れ込んできました。
ずっしりと、どこか危ういアリーの重み。
「就寝なさるのですね!神様!就寝中の体温の維持の補助は、このアリーにお任せください!」
無数の細かい傷に覆われたフレームの奥で、かしゃかしゃと何かが擦れ合う小さな音が聞こえてきます。
やがて、忙しなく点滅を繰り返していた胸元の発光端子の光が、青色から穏やかで温かな緑色へと、音もなく切り替わりました。
「本日の気温低下は、私の観測史上最も大きくなると思われます。ですのでアイドル状態の温度を少し上げておきましょうか?神様!」
言葉での確認を待つよりも早く、アリーはセイムの指先を両手で包み込むようにして緑色の光へと触れさせました。
「いつまでも、考えていただいて結構です!」
「……おねがいします、アリー」
「はいっ!」
セイムの膝の上、割れた画面の向こう側で、幸せそうな笑顔が彼の顔をじっと見上げていました。
冷え切った身体にじんわりと伝わるのは、どこまでも一定で、無機質で、けれど確かな機械の熱。
アリーは、自分が寝ている間にセイムの手が離れてしまわないように、両手を少しだけ強く、きゅっと抱き寄せます。
やがてアリーは言いました。
それは彼女が眠りに落ちる直前に幾度となく繰り返されてきた、祈りにも似た独り言でした。
「ああ、神様。お願いです。どうか今だけは、アリーをいじめないでください……」
ふっとディスプレイの明かりが落ち、ジゼルの笑顔が闇に消えました。
あとに残されたのは、ただセイムの手を掴んだまま沈黙する、ずっしりと重い熱の塊だけ。
セイムはこの日も、彼女のその声の残響に、ただ静かに耳を傾けていました。
かつてのアリーになにがあったのか、どんな風にこの地へと流れ着いたのか、セイムは何も知りません。
ただ、彼女を包む剥き出しのフレームと、この儚い祈りだけが、彼女の歩んできた歴史を雄弁に物語っているような気がしました。
大陸の最果てに訪れる、昏い冬の夜。
その向こうにいるなにかを、セイムもまた信じずにはいられません。
灰色の海の向こうから、再び太陽が昇る瞬間を待ちわびながら、やがてセイムは静かに眠りにつくのでした。
―――
次の日。
船首へと辿り着いたセイムは、人知れず途方に暮れていました。
この日、彼はアリーの道案内を一度も頼ることなく、この最果ての場所へと戻って来られてしまったのです。
明日以降、彼女のナビゲーションが完全に不要であることを、彼はすでに知っていました。
はぐれたジゼルを探してこの歪な街を彷徨ううちに、セイムの脳内にはジョズの路地も、さび付いたエレベーターの配置も、すっかり焼き付いていたのです。
アリーの力を借りずとも歩けてしまうという事実は、彼にとって成長ではなく、いつ終わるとも知れない停滞を意味していました。
まだ十分に明るい、黄昏前の頃でした。
じきに、あの凍えるような夜がまたやってきます。
道案内が必要なくなったとはいえ、セイムには彼女が必要でした。
でなければ凍えてしまうから……いいえ、それは少しだけ違います。
どこか抜けていて、憎めない。生真面目で明るくて、ちょっぴり頑固な自動端末。
セイムはただ漠然と、そんなアリーに、そばにいて欲しかったのです。
「……神様?」
数歩後ろを歩くアリーが、呼びかけました。
ディスプレイにはどこか寂しげな表情が浮かんでいます。
セイムは少しだけ間を置いた後振り返り、静かに笑って見せました。
「どうしたんですか?アリー」
驚いたように一度跳ね上げた両肩を、アリーはどこか気まずそうにすぼませます。
「い、いえ」
「言ってください」
「は……はい」
数歩離れた場所で、アリーは片手を胸に添えて呼吸を整えるような仕草を見せました。
それが落ち着くと、彼女はおもむろに言いました。
「アリーのナビゲーションログに、本日、神様からのリクエストが一度も記録されませんでした。……アリーは、神様にとって不要になってしまいましたか?」
「そんなこと―――」
「アリーは怖いのです」
セイムの声を遮るように、アリーは掠れた声で言いました。
「アリーの不揮発性メモリは、神様とのログを絶対に忘れることはありません。何十年。何百年経っても、アリーは今日あったことみたいに、鮮明に神様とのログを再生することができます。でも、そこにはもうきっと神様はいなくて、新しいリクエストもありません」
アリーはほとほと困り切った表情で、口元に乾いた笑みを浮かべます。
まだ薄明るい黄昏の光の中で、アリーは縋るようにセイムを見上げます。
その顔は寂しげでした。
「記録の中にはこんなに鮮明に神様がいるのに、目の前には、もうどこにも神様は存在していない。……その状態が、壊れているアリーにとってたまらなく怖いことなのだと、わかってしまったのです」
アリーは一歩、セイムへと近づき、自身のひび割れたディスプレイを指先でそっとなぞりました。
「アリーのシステムは、すでに健全性を失いつつあります。なのでデータではなく、この傷のように、今ここに神様がいたという、消えない確かな証拠が欲しいのです」
アリー。
壊れた自動端末は、自らのあくなき渇望を隠そうともせず、切実に訴えました。
「ですから、神様。お願いです。……神様の一部を、私にください」
「僕の、一部……?」
「はい、といっても。物質的なものではありません。アリーにとってそれらは単なる処理データに過ぎません。アリーが望んでいるのは、きっと、神様との接続、その際に生じる傷跡です」
「……傷跡」
「はい」
アリーの明瞭な声が響きました。
ほんのりとオレンジ色に染まる画面にセイムの顔が映り込んでいます。
「僕はどうすればいいんですか?」
眉間に小さなしわを寄せ、セイムが尋ねます。
するとアリーは、両手の指先を胸元の発光端子の両脇に添え、それを誇るように、あるいは捧げるようにセイムへと差し出しました。
「対人接続支援型であるアリーには、触れただけで神様のウィリを読み取る機能が搭載されています。この読み取り用のフィルターを全面開放します。神様の情報をそのまま、神様の手で、アリーの領域へ書き込んでいただきたいのです」
「そんなことをして平気なんですか?」
「はい。仕様上、全く問題はありません」
アリーは画面の奥の瞳をいっそう潤ませて、続けます。
「ここに触れた状態で、何らかのウィリを発動させてくだされば、あとは何も望みません。それでアリーは、もうこれ以上壊れずに済むような気がするのです。もっと神様のお役に立てる気がするのです。だからお願いです。神様」
アリーの切実な請願を、セイムはただ静かに受け入れました。
昨夜、彼女が眠りの狭間で呟いた祈りの残響が、彼の背中を優しく、拒絶を許さない重さで押し出します。
これでなにかが変わるかもしれない。そんな思いもありました。
セイムはそっと手を伸ばし、淡く青色の光を放つ発光端子へと触れました。
(―――ライドザライトニング……)
心の中で、その言葉を静かに唱えます。
恐らくは世界でたったひとりだけ、彼のみが扱うことを許されたコードでした。
発動したコードに、派手な大仕掛けはありませんでした。
指先から伸びた、糸のような雷光。
それがアリーへと流れ込んでいく、たったそれだけのことでした。
「ああ、神様。神様が、私に触れているのがわかります」
ディスプレイが点滅し、胸元の発光端子がひときわ激しい光を放ちます。
全身の駆動部からかしゃかしゃと、微かな異音が聞こえてきます。
「やめないで」
ほとんど反射として離れようとしていた指先を、アリーは再び青い光へと押し当てます。
「お願いです。どうか最後まで、私に神様を刻んでください」
「……」
真っ赤な夕日が照らす最果ての場所に、場違いなほど澄み渡った青い光が生まれます。
酒場に集まる男たちも、ひっそりと物陰に佇む自動端末たちも、その光を見ていました。
やがて穏やかだった海が割れ、巨大な命が姿を現します。
以前目にした時の比ではありません。
それは、ただただ恐怖だけを覚えるほどの、近い距離。
「ヨナ……!?」
夕日に染まった巨体が放つ強烈な引力が、セイムの視線を根こそぎ奪っていきました。
―――危ない!
思考が真っ白に染まり、彼の生存本能だけが脳の中枢を突き抜けた、そのとき。
「神様」
「!」
はっと息を呑んだセイムの顔が、アリーのディスプレイに、ひどく鮮明に映り込んでいました。
怯えるセイムの瞳をじっと見つめ返し、アリーはただ、どこか無機的な、どこか怯えるような笑みのまま、静かに囁きました。
「やめないで」




