戻るか進むか。
初めに異変に気づいたのは、角ばった顔を持つ男―――この船の副船長でした。
ごろごろ、がしゃん。
ごろごろ、がしゃん。
金属の浮きが転がり、ワイヤーが軋み、白色灯の下で過酷な反復作業が続いている最中のことです。
男は据え付けの古く平坦な表示板へ視線を落としました。
緑色の画面には、船外に投げ出された無数のセンサーが拾う波形が、一本の不揃いなギザギザの線として這っています。
「おい」
短く漏れたその声に続きはありません。
呼ばれた船長がゆっくりと歩み寄り、表示板の冷たい光に顔を傾けました。
こいつを見てくれ、船長。
まるでそう告げるかのように、副船長の指先が画面の上をなぞります。
その指の先で、淡い光の線が一度だけ、垂直に近い角度で大きく跳ね上がっていました。
それは、誰の目にも明らかな、異様な尖り方でした。
船長は黙ったまま、おもむろに脇のつまみを捻りました。
表示が切り替わり、横向きに走る時間軸が縮んでいきます。ギザギザの線が凝縮していくのと引き換えに、画面の左端から、もう一つ別の『跳ね』が滑り込んできました。
港で別の船から引き継いだ、過去の観測データでした。
船長が喉の奥で、低く唸るように尋ねます。
「こいつをどう思う。ベリネ」
角ばった顔を持つ男、副船長のベリネは、瞳にナメクジのような光を宿したまま即答しました。
「どっちかの船がしくじった」
「本気じゃないよな?」
「そうさ」
吐き捨てるようなやり取りの最中も、船長は目を細め、画面の両端の二つの『跳ね』を見比べていました。
さらに指先でつまみを弄び、表示限界ぎりぎりの過去まで波形を遡らせたとき、左端のさらに奥から新たな三つ目の跳ねがようやく姿を現しました。
それは時間にしておよそ十日前、そのとき観測された跳ねでした。
「なにをもたもたしてんですコルト船長、今すぐ引き返すべきだ」
無駄な会話という名の余計なコストを支払わされて苛立ちを募らせるように、ベリネは声のトーンを一段上げながらそう言いました。
コルトはつまみから手を離すと、表示板の冷たい光を顔に浴びたまま喉の奥をかすかに振動させました。
「全員を集めろ」
それはいつもと変わらない、最小限の指示でした。
あくまで憮然とした態度のまま、ベリネは頷き一つなく、重々しく踵を返して船外へと続く鉄扉をくぐっていきました。
―――
絶えず鳴り続けていた騒音がピタリと止みました。
船の底でうなっていた機関の振動だけが、かえって大きく感じられました。
海の底の、さらに下。
白い灯りに照らされた甲板の上に、息をするのさえ躊躇われるような静けさが訪れます。
特別な指示などありません。
甲板に姿を現したベリネに、乗組員たちの睨みつけるような視線が注がれ、彼もまた同様の目つきでそれらを撥ね退けます。
「?」
物陰から様子をうかがっていたジゼルは、その異常性にすぐに気づきました。
頭の位置をいつもよりずっと低くしながら、張り詰めた甲板の方を覗き込んでいます。
甲板の真ん中でベリネが足を止め、彼が通ってきた暗い通路から、遅れてコルト船長が姿を現しました。
二人の間で、いたって自然な形での立ち位置の譲渡が行われます。
中心に立った船長は、その静寂の中で第一声を発しました。
「なにしてる。お前もだ」
甲板を震わせるような、低く冷えた声。ジゼルの心臓が凍り付きます。
慌てて影の奥へ身を引きましたが、手遅れでした。直前、コルトの濁った視線が、自分の輪郭を完全に捉えていたことを、彼女の肌が知っています。
「はやくしろ」
声は淡々としていて、怒りや咎めるような気配はありません。
ただ確実に、ひどく迷惑そうな響きを伴っていました。
物陰に溶けるように潜んでいたジゼルの喉が、ひゅ、と小さな音を鳴らしました。
直接覗き込むまでもありません。
乗組員たちの、急かすような視線がいっせいにこちらへと突き刺さっているのが、物陰からでも手に取るようにわかりました。
どうして?
なぜ、見つかってしまったのだろうか?
まさか始めから?
でも、今はもう、誤魔化せない。
そう悟った彼女は、震える指先で体を支えながら、物陰から姿を現しました。
この世界のどこにあるのかも定かではない、生きていくためには全く必要とされていないと思われる、贅沢な技術。それによって丁寧に染色された、細く編まれた金の髪、そして、透き通ったアイスブルーの瞳。
その小柄な体が、地下の白色灯の下に晒されます。
誰かが小さく息を呑みました。けれど、それもすぐに沈黙へ飲み込まれます。
ジゼルは唇を引き結んだまま、その場に立ち尽くしました。
やがて、どうにかして逃げ場を追い求め、伏せ気味に泳いでいた視線がとある異常を捉えます。
ベリネの頑健な両肩にふつふつと、確かな苛立ちが湧き上がっていたのです。
熱くなっていた顔が、急激に冷えていくような感覚を覚えたジゼルは、それでもこそこそと素早く、彼らの輪の最後尾へと加わりました。
誰一人として、彼女を相手にしませんでした。
そしてそれが、このときの彼女にとって何よりの救いとなっていました。
「皆さんに、ご報告があります」
唸りを上げていた機関部も、いつの間にか鳴りを潜めていました。
いつの間にか自分たちの船に乗り込んでいた育ちの良さそうな小娘のことなど、一切関知するに値しない。
乗組員たちの横顔はそう断じます。
ホローポイントの静寂に、コルトの低い声が響きます。
「船は現在、ブルーバードの発生地点へ向け順調に航行しています。ですが先ほど、投下されたセンサーに明らかな異常が観測されました」
一切の淀みなく続いていた声が、そこでほんのわずかに途切れました。
しかしコルトは、一度だけ呼吸を整えると、すぐにまた淡々と報告を続けます。
「ヨナが出ました。それも短時間のうちに二度」
ヨナ。
その言葉の意味を、ジゼルは知りませんでした。
ですが、そのたった一言で、疲れ切った男たちの横顔に戦慄にも似た緊張感が一気に駆け巡ったのがわかりました。
それでも彼らは、誰ひとり口を挟みません。
乗組員たちを一瞥し終えると、コルトはさらに続けます。
「私もずいぶんと長い間船乗りをしていますが、こんなことは初めてです」
その言葉の終わりを待つように、ベリネが胸ポケットからひどく潰れた煙草を取り出しました。
マッチの火が静寂を切り裂くようにしゅうと音を立て、彼は口にくわえた一本の煙草に火を点けます。
深く吸い込まれた煙が、彼の酷使された肺を満たし、やがて白色灯の光を濁らせるように吐き出されました。
指先に挟まれたその煙草は、彼の頑健な両肩と同じように、ごくわずかに震えています。
それは恐怖からではなく、深く吸い込まれた煙草の煙による作用でした。
「出航前に、ヨナが撃退されたのがここから十八グリッド離れた位置……そして、先ほどの反応が四グリッド離れた位置で確認されています」
相変わらずの抑揚のない声が続きます。
その場でただ一人、訝し気に眉をひそめる少女を見かねたわけではありません。
抑揚のない声に、ベリネはぶっきらぼうに付け足しました。
「もし、奴がこのまま動き回っているのだとしたら、奴は俺たちが現場を掘り始める頃には、この船を次の標的にするかもしれねえ」
標的という不穏な言葉。乗組員たちは顔色一つ変えませんでした。
彼らにとって、それは今更怯えるような仮定の話ではなく、この暗い空域で働く者が等しく支払うべき、ただの日常のコストに過ぎないのかもしれません。
誰もが静かに、コルトの次の言葉を待っています。
「正直に言って、この状況での採掘はリスクが高い。だが、ここで反転すれば今期のノルマは確実に果たせない。そうなれば俺たちはしばらく、ヨナの危険周期に、ただの囮として下に降りる羽目になるだろう…そこで」
言い終える前に、再びベリネが動きます。
彼は煙草を咥えたまま、足元に置かれた古びた金属の箱を両手で抱え上げました。
「引き返すか、続けるか。皆様に投票によって決めていただきます」
抗議の声はありませんでした。
罵声も、動揺の囁きすらもなく、冷え切った沈黙だけが男たちの間に居座り続けます。
その異常な無音に圧し潰されそうになりながら、ジゼルの小さな胸の奥で、心臓はにわかに早鐘を打ち始めました。
箱の上面には、大人の拳が楽に通るほどの、四角い投入口が一つだけ開いています。
ベリネが船長の前で立ち止まり、最初の一票が早くも投じられました。
次に、箱の隅を片手で支えたまま、ベリネがそれに続きます。
かちゃり。
箱の底から響く、軽快な金属音。
ジゼルの戸惑いを置き去りにしたまま、他の乗組員たちも続々と自らの命運を箱の中身にゆだねていきました。
(……まさか、まさか……ね?)
「おい」
「ひっ!」
気づいたときには、目の前にベリネが立っていました。
壁のように聳える身体の上から、彼はジゼルを鋭く見下ろしています。
「わ……わ……わたくしは……」
たとえ蚊の鳴くような声でも、この巨大な静寂に浮かぶ小さな船の上では、残酷なほど明瞭に響き渡ります。
「しらばっくれんな。わかってんだろ」
ベリネの低い声。声以上に厳しい眼差しが、ジゼルを射すくめていました。
助けを求めるように彼女の視線が右へ左へ泳ぎます。
ですが、乗組員たちの誰一人として、彼女を特別扱いするような気配は一切ありませんでした。
ここにあるのは、一人の乗船者としての義務だけです。
とうとうジゼルは観念し、箱の中へ恐る恐る指先を伸ばしました。
暗闇の奥、冷たい金属に指先が触れた瞬間、低い地鳴りのような声が頭上から降ってきます。
「おい」
「ひっ!」
全身の肌が粟立つような緊張感に、ジゼルの指先がびくりと跳ねました。
じわりじわりと視線を持ち上げるとベリネの口の端にくわえられたままの煙草の灰が、妙に長く伸びています。ジゼルはその全く無関係な事実に必死で意識を固定することで、辛うじて精神の均衡を保っていました。
「ざらざらの面を俺の方に向ければ進む。お前の方に向ければ戻る。決めたら裏返せ。もう裏になってる票には触るな」
ジゼルは力なく片腕を伸ばしたまま、顔を引きつらせてこくりと小さく頷きました。
箱の中には、すでに人数分の金属チップが整列していました。
指先に感じるのは、どれも滑らかに研磨された感触です。
そして彼女は、箱の隅で見つけてしまいます。
たった一枚だけ、箱の底で虚しく弾かれていた、自分の票です。
ジゼルは盗み見るように、ベリネの顔を窺いました。
先ほどまで長く伸びていた煙草の灰は、すでに音もなく崩れ落ち、短くなっていました。
いつまで待たせるつもりだ。
残った灰が、そう告げているかのようでした。
ごくりと喉を鳴らしながら、彼女はベリネに言われた通りにしました。
ざらついた面をどちらかに向けて、その最後の金属チップを指先で裏返したのです。
ジゼルの指先が箱から現れると同時に、ベリネは無造作に身を翻します。
そのまま彼は、抱えた箱をコルトへと手渡し、元の立ち位置へと戻りました。
乗組員たちの視線が、一斉にその四角い金属の箱へと集まります。
コルト船長は表情を変えないまま、古びた箱の蓋を持ち上げました。
やがて、それぞれのチップが彼によって手早く裏返されていく全く同じ音が聞こえてきます。
かち・・・かち・・・かち・・・。
・・・かち。
その音は、確かに人数分聞こえました。
箱の中を覗き込んでいた船長の、白濁した両目がわずかに細められます。
「投票の結果。7対4で、採掘は続行することになりました」
その瞬間、甲板の空気がわずかに変化したように思えました。
安堵の息を漏らすものは誰もいません。ただ、一方の選択肢が消えたことで、乗組員たちの肩の力がわずかに抜けただけでした。
進むと決まった。ならば、やることは一つだけだと言わんばかりに、彼らの瞳に冷徹な光が戻っていきます。
ベリネはくわえた煙草を床に落とし、無骨なブーツの底で踏み消しました。
「作業再開だ。遅れた分急げよ」
ベリネの低く鋭い指示が飛ぶと、それまで石像のように硬直していた男たちが一斉に動き始めました。
再び甲板を転がる金属のセンサー。
足元を埋め尽くすワイヤーロープ。
ぽつりと佇む場違いな少女。
男たちの装いは、見違えるほどに清潔になっていました。
けれど、この船の上では、それは誇れる変化ですらありませんでした。
汚れも臭いも、彼らにとっては初めから、あろうがなかろうが大差のないものだったのです。
ジゼルはスカートをきゅっと握りしめました。
白色灯の下に立ち尽くしたまま、再び動き始めた男たちの背中を見つめています。
ごろごろ、がしゃん。
ごろごろ、がしゃん。
やがて船の奥から、機関部の音が靴底に伝わります。
再び動き出した船の上で、淡いエーテル光と金の髪だけが、白色灯の光を浴びて美しく揺れていました。




