海の下。
膝を抱えたまま、彼女はいつの間にかすやすやと眠っていました。
目が覚めたとき、船はゆりかごのように穏やかに揺れていました。
ここはどこだろう。もう、地上に戻ってきたのだろうか。
ぼんやりする頭のまま、ジゼルは全身を濡らしていた水分を指先に集めると、それを海へと返します。
ただ、服を乾かしたかったから。
それ以上の理由などない、何気ない行為でした。
指先を離れ、緩やかな放物線を描いて落ちていく、透明な水の玉。
そこに、ひどく浮かない自分の顔が逆さまに映り込んでいるのが、彼女にははっきりと見えてしまいます。
(……はやく、落ちてくれないかな)
膝を抱え、ジゼルはそれをぼんやりと眺めていました。
時間だけが奇妙なほどに引き伸ばされているような感覚に陥りながら、彼女はふとセイムのことを思い出していました。
(セイムさん、いま何してるんだろ。もう、約束の場所についているのかな)
焦点の定まらない視界の中央で、水はまだ、ほとんど同じ場所でこちらを見つめ返しています。
(なのに、どうしてこんなところに来ちゃったのかな、私……)
その問いに、すぐ答えられるほど、彼女の心は整理されていませんでした。
しかし、あの疲れ切った人たちを見て見ぬふりをして、何食わぬ顔をしながらセイムと再会することなど彼女にはできそうにありません。それだけは妙にはっきりしていました。
(でも、私になにができるんだろ?あのおじい様にだって、何もしてあげられなかったのに)
思考の迷宮に囚われるジゼルをよそに、水はようやく船の外へと落ちていきました。
ジゼルはその様子をどこかほっとしたように見つめていました。
しかし次の瞬間です。
不思議なことが起きました。
海へ返したはずの水は、船体の影に入った瞬間に弾け、霜のような銀色の光となってふわふわと頭上へと昇っていったのです。
「!」
この場所が普通でないことに彼女が気づくのに、そう時間はかかりませんでした。
「これは、『エーテル光』の……光?」
エーテル光。
エレメントが活性状態になった際に放たれる微弱な光のことです。
ジゼルはおそるおそる立ち上がり、冷たく頑丈な手すりに両手をかけて、船の外へと視線を向けました。
その瞬間、彼女は息をすることさえ忘れてその場に立ち尽くしました。
頭上を覆っていたのは、果てしない星空でも、地下の岩肌の天井でもありませんでした。そこにあるのはうねり、今にも落ちてきそうなほどの深い藍色の質量、海の天蓋です。
そして、船の底に目を移せば、そこには水すら存在していませんでした。
さび付いた鉄板に覆われた船は、何もない未知の空間に、ぽっかりと浮かんでいたのです。
眼下にどこまでも広がっているのは、淡いエーテルブルーと銀色の光が混ざり合う、息を呑むほどに広大な『浅層エレメント域』の虚空。
暗黒の海底を抜けた先にあったのは、世界の上下の概念を完全にひっくり返した、もう一つの世界でした。
あまりのスケールと美しさに、ジゼルの胸は密かに高鳴ります。
肌に触れる空気は不自然なほど澄みきっていて、目を凝らせば、微かに煌めく光の微粒子が船の周囲をゆっくりと踊るように流れていました。
―――ホローポイント。
濃いエレメントに満たされるこの場所では、水は水の形を保つことはできません。
遥か頭上に見えるその場所で、海水は絶えず、幻想的な光を放ちながら自らの居場所へと押し戻されているのでした。
ジゼルはそっと指先を伸ばし、虚空を漂うエレメントを捉え、唱えてみました。
『……ウォーターショット』
すると世界は、即座に彼女の意志に応えます。
周囲のエレメントが水へと変わり、ジゼルの指先で圧縮された後、放たれたのです。
本来ならば、ウォーターショットは使用者の力量に応じて、分厚い鉄の兜でさえ貫く威力を誇ります。
しかし、この場所ではそうはなりません。
ジゼルの指先から放たれた水は瞬く間に霧散し、淡い光の微粒子となってふわふわと、頭上の海底へと吸い込まれるように昇っていきました。
「ここは……この場所で何が……」
圧倒的な光景を目の前に言葉を失うジゼルの背後で、今度は物音がしました。
がしゃん、がしゃん。荒々しい音です。
それは幻想的なホローポイントとは不釣り合いな……いいえ、それでもこの船にあっては、極めて日常的な騒音でした。
「!」
ジゼルは、半ば反射的に身を潜めます。
ですが、隠れられる場所などありませんので、それは寄りかかっていた鉄板に再び身を寄せる程度の粗末なものとなりました。
息を殺し、耳を澄ませます。
おそるおそる音のした方を覗き込むと、鼻を突く臭いの後に、この船の乗組員たちの姿が見えました。
全員が動き回っていて正確な人数は定かではありませんでしたが、それでも十名ほどの男たちの姿が見えました。
その誰もがやはり、ひどく疲れ切っているように見えました。
男たちは誰も、頭上に広がる天蓋の美しさに見惚れてなどいませんでした。
採掘作業を生業とする彼らにとってこの絶景は、ただの仕事場でしかないのだと、その無味乾燥な動きが、なによりも雄弁に物語ります。
全身から鼻を突くような臭いを発生させながら働く男たち、ジゼルは無意識のうちに、その中から誰かを見つけ出そうと、さらに身を乗り出しました。
するとしばらくして、船の先の方から重い足取りでその人物が姿を現しました。
船長、そう呼ばれていた男です。
「手を止めず、そのまま聞いてください」
言葉こそ丁寧でしたが、声には一切の抑揚が無く、どこか機械的でした。
物陰で、きゅっと胸を締め上げられるような恐怖を覚えたジゼル。
乗組員たちは視線すら向けません。
鳴りやまない騒音の中、船長は続けます。
「乗組員に一人、欠員が出ました。だが、ノルマは変わらない」
先ほどの老人のことだと、ジゼルはすぐに悟りました。
船長の声色は、どこまでも平然としていて、事務報告以外の響きを全く伴っていませんでした。
しかし、ジゼルは不思議と、胸に重くのしかかっていた何かがほんの少しだけ軽くなるような気がしました。
眉間にしわを寄せ、ジゼルは引き続き乗組員たちを物陰から見ています。
「それでも、今度競り落としたポイントは、前よりも幾分かましなはずだ。皆さん、安全第一で、どうかよろしくお願いします」
伸びた髭の下、唇は殆ど動いていないように見えました。
低く疲れ切った声で、船長の下あごがかすかに震えているのが見えました。
乗組員たちは、一様に下を向いたまま作業を続けています。
不平を漏らす気力すら惜しいのか、それとも、船長の言う通り、今回の採掘作業はいつもよりましであることを既に受け入れているのか、それは定かではありません。
甲板に引きずり出されたおびただしい数の浮きとワイヤーが、彼らの返事の代わりに鈍い音を立てていました。
そのどれもが古く、そこらじゅうに補修された跡が残っています。
けれど、男たちの酷使され、硬直した背中に、ほんのわずかな―――それは本人たちすら自覚していないような、ほんのわずかな活力が宿ったのをジゼルは見逃しませんでした。
(…いよいよ、始まるんだ……お仕事が……)
あるいはそれは、物陰からこっそりと覗く少女が抱く単なる希望であったのかもしれません。
そして、その答え合わせをする機会は、恐らくは永遠に訪れないのかもしれません。
「では、出航します。取り舵いっぱい、微速前進」
船長が短い指示を終えると同時に、船の底からこれまでとは違う低く重い振動が伝わってきました。
がたがた、とジゼルが身を寄せている鉄板が震えます。
船は、淡いエーテル光に満ちた果てなき虚空を、音もなく静かに進み始めました。
頭上の暗い海に見下ろされながら、地の底の、さらに奥深くへと、ゆっくりと滑り出していったのです。
それからしばらくの間、ジゼルは物陰から、その過酷な反復を見続けることになりました。
―――
そこは、抉れた大陸の下。
ドーンソリアの東を侵食する海の、さらに下。
北北西へと航路を取った船の上、煌々と光を放つ白色の照明の下、同じ作業がひたすらに繰り返されていました。
甲板狭しと引き出されたおびただしい数の浮きと、それらをつなげている長い一本のワイヤーロープを船の後ろから放り出し、すべてを投げ終えるとまた引き上げ、再び船の後ろから放り出す。そんな作業です。
およそ四時間おきに数名が半刻にも満たない仮眠を交代で取り、その作業は続けられていました。
ごろごろ、がしゃん。
金属製の浮きが甲板を転がり、ワイヤーが擦れる鈍い音が、沈黙の空間に規則正しく響き渡ります。
物陰に身を縮めたまま、ジゼルは動き続ける大人たちをじっと見つめていました。
(……そろそろ、かな…?)
「交代だ」
(!)
冷たい照明に照らされた男たちの横顔には、絶えず脂汗が滲んでいます。
誰もジゼルの隠れている場所に気づく様子はありません。
船長とはまた別の、角ばった顔をした大柄の男が言いました。
港で、船の乗り込み口を監視していた男です。
彼の交代の合図と同時に、確固たる決意に満ちた、ジゼルの細やかな奉仕活動は幕を開けます。
『クローク……インっ!』
誰にも聞こえないように細心の注意を払いながらそう唱えます。
すると、彼女の姿はたちまち消えてしまいました。
光の屈折を利用した隠れ蓑。『ゴーストクローク』の発動です。
持ち場を外れた数名の男たちが、重い足取りで船内の狭い通路へと消えていきました。
ジゼルはまるで床を滑る影のように、その列の最後尾から二番目へと身体を滑り込ませ、彼らの後をこっそりと付いていきました。
周囲から聞こえてくるのは、船のエンジンのくぐもった唸り、疲れ切った足音。
やがて辿り着いたのは、硬い鉄板が剥き出しになった狭い雑魚寝部屋でした。
四畳半にも満たないその部屋で、男たちは衣服を着替えることさえせず、ただ割り当てられた硬い寝台の上へ文字通り倒れ込むようにして横たわりました。
仕事の愚痴も、世間話もありません。
まるで休憩すらも作業の一環であるかのように、ものの数秒もしない内に、部屋には地鳴りのような寝息が満ち始めます。
開け放たれた扉の端から、ジゼルがひょっこりと顔を覗かせ、中の様子を確認しました。
狭い部屋にはやはり、鼻を突くような、胸がムッとするような臭いが充満しています。
しかし、透明になった光の膜の向こう側、ジゼルはどこか嬉しそうに左右の口角を持ち上げていました。
(……寝てる、今のうちに……!)
ジゼルは、入り口の近くで眠っていた男の前で両手をそっと広げ、意識を集中させました。
間もなくして、それは狭い寝室の空間から引き寄せられるように姿を現します。
彼女の拳ほどの小さな水球です。
ホローポイントでのエレメント操作には、ちょっとしたコツが必要でした。
普段は面として扱っていたものを、無数の点として扱うような感覚です。
けれど、ジゼルは難なくそれをやってのけます。
(あとは、慎重に……)
ジゼルは泥のように眠る乗組員たちの休息を間違っても邪魔をしてしまわないように、球として安定させた水分を、汚れた衣服へと滑らせました。
職人の手仕事のような精密さで、水は布地の繊維を一切傷つけることなく、汚れだけを器用に絡め取っていきました。
ジゼルのコントロールに従い、水は衣類に染み込み、汚れを捕まえては湧き出し、再び布地へと戻っていきます。
まるで寝息に合わせるように、伸縮を繰り返す水の球。
男の肌には水一滴分の不快感も与えない、完璧な表面張力の綱渡り。
優れた素質と不断の努力が結実した確かな技術。
やがて透明だった水球は、見る見るうちに濁った灰色へとその色を変えていきました。
(よし)
確かな手ごたえ。
ジゼルはそっと身を引き、部屋の中央の空間へとその濁った水球を放ります。
そして、水を水として結び付けていた意志の糸をふっと緩めました。
刹那、水球はホローポイントの法則に従い、落下する暇さえ与えられないまま、閉じ込めていた汚れもろとも淡いエーテル光となって一瞬で霧散していきました。
それはまるで、男たちの積年の疲労が、美しい光となって昇華されたかのようです。
(♪)
ジゼルは、この瞬間がとても好きになっていました。
けれど、やりすぎることは決してしませんでした。
あくまでもこっそりと、慎ましく、気づかれないように……。
彼女のこの一風変わった大人たちとの関わり方は、常にカンペキより少し手前のところでそっと手加減されたまま、しばらくの間、誰からも気づかれることなく続いていくのでした。




