ホローポイントへ。
少し前。
―――離れろ!!
セイムの声が、まだ耳の奥に残っていました。
自分に向けられたあれほどまでに鋭い怒声を、ジゼルはこれまで一度も聞いたことがありませんでした。
冷たい金属の壁に背中を押し付けたまま、彼女はしばらく動けませんでした。
胸の奥がどうしようもなく苦しく、なにかを考えようとするたびに、彼女の心臓は強く、強く、早鐘を打ちました。
目の前のひし形の格子から、時折火花が散っていました。
ぱちり。ぱちぱち。
古く、建付けも歪んだエレベーターには、使用者を思いやるような気配は一切見当たりません。
それは、決められた箇所を決められた速度でただ上下するだけの、無機質な鉄の箱としてのみ存在しているかのようでした。
両手を胸の前に寄せたまま、ジゼルは指を一本ずつ動かしてみました。
ふと、セイムのあまりにも必死な表情が頭に浮かびます。
その途端、戻りかけていた指先の感覚はまた遠のいていきました。
「……怖かったの……でしょうか…?」
その声を聞いた者は一人もいませんでした。
言葉を発した彼女自身の耳にも届かないほどの、それは小さな声でした。
エレベーターは、低く唸るような音を立てながら、どこまでも下へと沈んでいきます。
背中から伝わってくる細かな振動が静まることのない鼓動と混ざり合い、ジゼルはますます落ち着きを失いました。
やがて、膝が耐えきれなくなりました。
崩れ落ちる、というほどの勢いではありませんでした。
ただ、それ以上立っていられなくなったのです。
ジゼルは、一度だけ態勢を立て直そうと壁に片手を伸ばしたまま、その場に静かに腰を落としました。
硬い床の冷たさがスカート越しに伝わってきても、自らのはしたない姿を気にする余裕はもはやなく、むしろ、床がひんやりとして心地がいいとさえ思っていました。
胸の高まりは治まりません。
どうしてこんなに苦しいのか、自分でもわかりかねていました。
知らない街で一人きり。不安で、心配でたまらないはずなのに、あの怒声を思い出すたびに胸の中を満たすのは、どこか温かいざわつきです。
それが不安の続きなのか、または別の何かなのか、ジゼルは判断を保留しました。
結局、彼女はその場に座り込んだまま、膝を寄せるように身を縮めました。
エレベーターは止まりません。
長い長い時間をかけて、軋みと振動を絶えず発生させながら、容赦なく彼女を地の底へと運んでいきました。
~ドーンソリア大陸東部、ジョズの街の地下、通称ホローポイント~
巨大な空間に霞がかかっていました。
人間の放つ活気のようなものはなく、そこにあるのは、開店を控えたレストランの厨房の、仕込みの最中のような、がらんとした静けさです。
その中を、ぼんやりとしたオレンジ色の光が真っすぐに、いくつも降りてきます。
その内の一つに、腰を抜かしたままのジゼルの姿はありました。
―――がしゃん。
格子のフェンスが開きます。
火花を散らし、鋭く交錯する鉄のフェンスは、記憶の中と寸分たがわぬ動きに見えました。
しかし、フェンスの向こう側に広がるのは地上の荒れ果てた廃墟のような街ではなく、あまりにも広く、そして静かな空洞でした。
「……」
ジゼルは動けませんでした。
待っていれば、このエレベーターは元の道を辿り、自分を地上へと帰してくれる。
そんな確信にも似た期待を抱いていたからです。
ですが、
―――地上でエレベーターのフェンスが開いたとき、セイムが待っていてくれなかったら…。あるいは、待っていたら…。
そう考えたとき、彼女の体は、やはり軽やかに動いてしまいました。
外の空気は、地上の砂の大地のそれとはまるで違いました。
肌に触れた瞬間、ひんやりとするような湿り気を帯びていて、不自然なほどに澄んでいます。
「……」
息を潜め、薄い暗がりの左右を確認します。
辺りに目印になりそうなものは何一つありません。
「……」
―――がしゃん。
「……!」
背後でフェンスが閉まりました。
頑丈な金属のワイヤーを伝わる、機械の唸り。
やがて頭上にかかる霞を貫くように、いくつものオレンジ色の光が昇っていくのを、ジゼルは身を寄せたままの状態で見送りました。
「……」
エレベーターの光はすぐに見えなくなりました。
けれど、この場所に完全な暗闇は存在していません。
なぜなのか?その疑問が彼女の心に入り込む隙間はありません。
「えっと…街の、港……に、行けばいいんですよね……?」
そうでした。
言われた通り、ちゃんとそこへ向かわなくてはなりません。
ジゼルは、街の埠頭を目指すことにしました。
目的地はわかっています。ですが、その場所を彼女は知りません。
なので当然の帰結として、ジゼルの足取りは最初の一歩目からひどく心許ないものでした。
「私、一人だって、平気なんです…から」
目印になるものは、どこにもありませんでした。
上を目指して歩いているつもりなのに、足元はいつの間にか緩やかな下り坂になっていましたが、ジゼルはその事実を知りません。
自分が道を間違えているのかどうかさえ、もうよくわかりませんでした。
それでも、彼女に引き返すという選択肢はありませんでした。
―――
やがてたどりついたのは、奇妙な場所でした。
依然として天井は見えないほど高く、頭上には冷たい霧が立ち込めていました。
その場所はまるで、夜明け前の、まだ誰も起きていない早朝の港を思わせる場所でした。
ジゼルがそんな錯覚を覚えた空間の端に、点々と小さな火が揺らめき、そこに人が集まっているのが見えました。
…ざぁ。
…ざぁ。
波の音です。
目を凝らせば、揺らめく人影の反対側には、景色に溶け込むように古びた船が何艘も停められているようでした。
―――港だ!目的地に、ついてしまった!
思いがけない幸運に喜びを隠しきれないジゼルとは対照的に、活気、と呼ばれるものはそこにはありません。
ジゼルははやる気持ちを必死に抑え、慎重に歩を進めます。
すると、煙草の芳香と、正体不明の臭い―――そう、絆創膏をはがしたときのような臭いが、澄んだ空気に混ざり始めました。
缶を切って作ったような粗末な火鉢の上で、くすぶるような炎が揺れています。
そのオレンジ色の光に照らされている男たちの横顔は、誰も彼も疲れ切っていました。
無精髭。黒ずんだ衣服。太い指先には汚れがこびり付いているか、あるいは、コートのポケットに突っ込まれていました。
吐き出される煙はゆっくりで、怒鳴り声一つ上がらないのに、そこには不思議な緊張感が漂っていました。
ジゼルは無意識に足音を立てないようにしながら、集団へとさらに近づきます。
すると、焚火の前で誰かの指先がさっと持ち上がったのが見えました。
次いで、火の向こうで別の手がそれに応じます。
声ではなく、ハンドサインで何かを決めているのだと、ジゼルが気づくまでにやはり少しだけ時間がかかりました。
彼らが行っていたのは、採掘地点を決めるための競売でした。
港での競売といえば、活気に満ちたものを思い浮かべる方々も大勢いらっしゃるのかもしれません。
ですが、この地においては、威勢のいい掛け声も無ければ景気の良い笑い声もありません。
ただ、どこを担当するのか、どれだけ稼げるのか、それだけのために、疲れ果てた男たちが黙々と、定かではない未来に値をつけているのでした。
ジゼルは立ち止まり、その様子を少し離れた場所から見ていました。
みんな、同じ姿をしている。
そんなふうに思ったわけではありません。
顔立ちも背格好も、一人一人がまるで違いました。しかし、疲れているという一点だけは、誰もがひどく似ているように見えたのです。
それはまるで、今日という一日を生き延びるためだけに、向こう二日間の命を前借りしているかのような、厳しく真剣で、どこか虚しい光景でした。
ジゼルは、そんな彼ら全員のことを、既によく知っているような気がしました。
どうしよう。
でも。
あの大人たちには、誰かの助けが必要だ。
とりとめもなく、彼女はそう思いました。
透き通った瞳に焚火の炎が映り込み、それはゆらゆらと、頼りなく小さく揺れていました。
―――
「では、入札を締め切ります。皆さん安全第一で、よろしくお願いします」
ぼそぼそと独り言のように、形だけのあいさつが行われました。
その場に集まっていた男たちは、それぞれの再会を願うことなく解散していきました。
引きずるような重い足取りで、灰色の波の向こうに佇む船へと、男たちがただ黙々と戻っていきます。
彼らの中には、すでにジゼルの存在に気づいている者たちも当然いました。
しかし、ジゼルはその場から一歩も動けないまま、声一つ上げられないまま、その姿を見送っていました。
その、重苦しい人の流れの中に、彼はいました。
ほかの誰よりも背中が丸く、ひどくやせ細った老人でした。
老人は、自分の体躯ほどもある大きな麻袋を背負い、今にも潰されそうな足取りで歩いていました。
薄汚れた袋の隙間からは、手入れの行き届いた『冒険者の道具』が覗いています。
一歩進むたびに、老人の細い膝が痛々しく外側へ飛び出すように揺れていました。
しかし、誰も彼を助けようとはしません。
他人の荷物を持てるほどの余力など、この場の誰の身体にも残されていなかったのかもしれません。
ふと、老人の肉体の均衡が乱れます。
(ぁ……危ない……)
そして気がつけば、ジゼルは老人の後ろに寄り添っていました。
まるで疾風のような身のこなし、誰一人として気にも留めません。
急に声をかけて驚かせてはいけない。
そう思った彼女は、何も言わずにそっと両手を伸ばしました。
家事で少しだけ荒れた、けれど白い指先が、粗末な麻袋の底へ滑り込みます。
ずしりと容赦のない重みが彼女の腕に伝わってきましたが、優れたウィリに恵まれたジゼルにとって、それはお気に入りの枕を抱えるに等しい重さに過ぎません。
じわりじわりと、その袋を押し上げます。
「…?」
老人の足取りがわずかに止まりました。
それと共に、やせ細った体は安定します。
背中の重みがふっと軽くなったことに、彼の身体は気づいていたのかもしれません。
しかし、老人は一言も口にすることも、振り返ることもしませんでした。
後ろに誰かいるのか、なぜ荷物が軽くなったのか、それを確かめるために思考を巡らせるエネルギーさえ、首を巡らせるエネルギーさえ、今の彼にとっては残された貴重な余力であったのです。
老人は、ただ「運よく、荷物が軽くなった」という目の前の事実だけを受け入れ、再び機械的に足を前へと進め始めました。
ジゼルは老人の背中を見つめたまま、その歩幅に合わせ、こっそりと荷物を支え続けました。
やがて、停泊していたうちの一艘、古びた船のタラップが近づいてきます。
入り口で乗船を確認している男の横を通り過ぎるときも、ジゼルはただ老人の陰に隠れるようにして慎重に歩を進めました。
見張りの男は疲れ切った目で老人を一瞥しただけで、その背後にぴったりと張り付いている少女を咎めることはしませんでした。
この場所に不釣り合いなほどに身なりの整った少女が、なぜこの場所にいるのかなど、彼らの知ったことではなかったのです。
老人がタラップに足をかけると、船内の通路からひんやりとした鉄の冷気と、例の絆創膏をはがしたときのような不穏な匂いが漂ってきました。
前を行く老人の足が止まったので、ジゼルも慎重に立ち止まります。
「ああ。船長さん。悪いけどまた迷惑になるよ」
穏やかで、震える声でした。
ジゼルは声の向けられた先を見上げます。
するとそこには、くたびれた衣服に身を包んだ一人の男が立っていました。
男は何も告げません。
ただ、冷え切った眼差しで、老人とジゼルを辛うじて視界の範囲内に収めているようでした。
まるで邪魔者に向ける視線の隅で、老人は無邪気に笑います。
「今度は役に立てる気がするよ。どういうわけか、やけに体が軽いんだ。この老骨にも、ようやく出番が回ってきたのかな。ありがたいね」
ゆっくりと語られる年老いた声。
男はやはり、何も告げませんでした。
「…」
なぜ、何も言わないの?
若い娘特有の、責めるような視線が男へと突き刺さります。
するとふいに、男がジゼルを睨み返しました。
ジゼルは反射的に視線を逸らします。
「死んだか」
それは地鳴りを思わせる低い声でした。
はじめジゼルは、何を言っているのか理解できませんでした。
しかし、両手で抱えていた麻袋の脇を滑る光を見たとき、その言葉の意味を理解します。
「……あ」
まさかこんな一瞬で…なにがあったというだろうか。
思考が一瞬停止し、その間に船の上の男がタラップを降りてきます。
ジゼルが両手で抱える麻袋へと手を伸ばしながら、男は言いました。
「ログアウト現象だよ。お嬢ちゃん」
両者ともに、それ以上の説明は必要ありませんでした。
ログアウト現象とは、この世界にやってきたプレイヤーたちに訪れる死。
肉体の活動限界を超えた際に見られる現象です。
つまり、老人の身体はすでに、限界の向こう側へと足を踏み入れていたのでした。
言葉を失うジゼルの両手から、麻袋の重さが消え失せます。
「帰んなよ。そんなところに突っ立ってたら船が出せねえだろ」
粗暴で、冷たく、疲れ切った、突き放すような声でした。
空になった両手で服を握り締め、ジゼルは唇を噛みしめました。
見張りの男が手にしていた台帳を抱え、タラップへと進みます。
「どけよ、邪魔だから」
ジゼルが予想した通り、優しい言葉はありません。
ですが彼女は、言われた通りに道を譲りました。
間もなくして、澄んだ空気の中に、けたたましいベルの音が響き渡ります。
港に集結した船たちが、巨大なクレーンによって次々と、見上げるほどの高さまで吊り上げられていきました。
それらは順番に海面へと叩きつけられるように落下しました。
冷たい海水が容赦なく降り注ぎ、ジゼルは一瞬でずぶ濡れになりました。
彼女のことなど、初めからいなかったかのように、それぞれの船はゆっくりと海底へと沈んでいきます。
そして、何を思ったのか。
そのうちの一艘に、ジゼルは飛び乗りました。
分厚い装甲板に覆われた船が、彼女を乗せたままゆっくりと海底へと沈んでいきます。
甲板の隅でジゼルは膝を抱えて座り込んでいました。
やがて、彼女の体も船と共に、暗く冷たい海に飲み込まれていきました。
船が沈むにつれ、周囲は人のいる場所ではなくなっていきました。
立ち昇っていた気泡も、やがては船から一つ残らず離れていきました。
高圧・低温・そして無酸素。
極めて過酷な環境から、ジゼルの持つ優れたウィリは、この時も彼女を十分に守りました。
(私は馬鹿だ……私は馬鹿だ……でも、この人たちは私より、セイムさんよりも、ずっと―――)
分厚い鉄板が時折、今にも押しつぶされそうな鈍い軋みを上げていました。
ジゼルは膝を抱えたまま、真っ暗な海中を見つめています。
指先すら見えない暗闇。なのに、視界が妙にぼやけているように思えました。




