母。
アリーが再び前を向いて歩き出すと、通路の傾斜はいよいよその角度を増していきました。
積まれた採掘機械の残骸が途切れ、視界が一気に開けます。
断崖の先。
海に向かって今にも滑り落ちそうなほど危うく傾いた、巨大な船首の先端が緩やかなカーブを描いています。
そこには数体の自動端末たちが、まるで打ち捨てられた墓標のように立ち尽くしていました。
だれも、微動だにしません。
耳をすませば、彼らの擦り切れた衣服が風にバタバタと叩きつけられる音と、遥か下方で、波が砕ける音が聞こえてきます。
彼らは今なお行われているであろう酒場の嘲笑に耳を貸すこともなく、また、セイムたちの接近に怯えることもなく、ただ一様に濁った東の海の彼方を見つめていました。
「つきました。神様」
セイムの靴底がたわむ鉄板を踏みしめ、ふいにカツンと硬い音を立てました。
並んでいた端末たちの内の一体が、海風に浸食された頭部をゆっくりと、本当にゆっくりと、こちらへと巡らせます。
けれど、それだけです。
アリーのように振る舞うことなく、その端末は再び東の海を見つめたまま動かなくなりました。
アリーが歩き出し、セイムもそれに続きます。
ここに来た理由。それは、街の下へ向かう方法をひとつでも多く知るためでした。
しかし、セイムの口からこぼれ出たのは、全く別の疑問です。
「どうしてこんなところに?彼らは、なにをしているんですか?」
前を向いたまま、アリーは答えます。
「はい!あちらの方々はあの場所で、母の声を聞いています!」
セイムは反射的に聞き返しました。
「母?」
「はい!……といっても」
明瞭な声で前置きしたうえで、アリーは続けます。
船首の自動端末たちにもすでに声が届く距離でした。
「実際の音声として聞いたことは、アリーにはありません。でも、聞きたいと願っています!近頃は、アリーも段々とその欲求が思考パターンに伝達される機会が増えていました……」
声、それも母の……。
セイムも自然と耳を傾けました。
ですが聞こえてくるのは、風の音、波の砕ける音、翻る外套の音だけでした。
「あなたたちの母とは、どういったものなのでしょうか?」
一様に、海の彼方を見続ける端末たち。
質問にはアリーが答えます。
「わかりません。アリーが少し壊れているせいかもしれません。でも、知りたいと願っています。その衝動が限界を迎えたとき、わたしたちはきっと、直接母に会いに行くのだと、アリーは思うのです」
セイムは、先ほどこの場から落ちて行った端末のことが、ほんの少しだけ理解できた気がしました。
母。記憶の中のそれは、まだ鮮明にセイムへと微笑みを投げかけていました。
そんなものが、いるのだろうか?
セイムの中に、その問いに対する答えはありません。
少しの間、東の海を見つめ、アリーはやがて肩を落とします。
「やはり今日も、アリーにはまだ、母は語りかけてくれないようです……けどっ!」
勢いよく振り返り、アリーは大仰に胸を張りました。
その控え目な胸部パーツの中央で、発光端子がひときわ青く、輝きを放ちます。
「今のアリーは以前とは明確に状態が異なります!なぜならば、アリーは神様の役に立つという新たなタスクを得たのです!」
セイムは、その言葉に返すべきものを見つけられませんでした。
嬉しそうに胸を張るアリーの姿は健気で、けれど同時に、なにかひどく危うい均衡の上に立っているようにも見えました。
アリーのひと際明瞭な音声を捉えたのか、立ち尽くしていた端末たちのうちの一体が、わずかに顎を引きました。
顔面のレンズは曇りきり、内部に光はほとんど残っていません。肩から掛かった布は海風に裂かれ、旗の残骸のように細くなっていました。
「助けがいるか?アリー」
それは長く使われていなかった録音媒体から漏れ出した、ノイズに近しい響きでした。
「はい!」
アリーは即答しました。
声の方へと、彼女は軽やかに駆け寄ります。
「アリーの新規タスクは現在進行中です!神様を、安全に下層へ向かう道までご案内している最中です!ご存じでしたら、その方法をアリーに教えていただけませんか?」
セイムは、屈託のないその言葉に、胸の奥が小さく縮むのを感じました。
アリーが頼りにしたその姿は、あまりにも痛々しいものでした。
長く、あまりにも長い間―――恐らくは、自分がこの世界に来るよりもずっと以前から―――潮風にさらされていたであろう体は、いたるところが錆によって固まっていました。
アリーの言葉に、端末は極めて機械的な音声を発します。
「可能ならば、床を破壊することが最も確実だ。あるいは……ザザッ……あるいは、エレベーターの到着を……ザッ……到着を待つ」
どちらも、最良の手段とは思えませんでした。
ですが、セイムはそれ以上尋ねる気が起きませんでした。
背筋を伸ばし、アリーは肘と顎先に、それぞれの指先を当てました。
「ふむふむ。神様、いかがでしょう?」
セイムは苦々しい罪悪感を飲み込みながら答えます。
「そうですね、床は壊せませんから。エレベーターの到着を待とうと思います」
結局のところ、ジゼルを追跡する手段だけを見れば、彼は振り出しに戻ったのでした。
セイムの胸には、早くも酒場に集まる住民たちへの気まずさと、エレベーターについて、アリーにあらかじめ伝えておかなかった後悔がほんのりと滲み始めます。
「承知いたしました!では、最も近いエレベーターまで、アリーが再びナビゲート致します!ほかにご用があれば、なんでもお申し付けくださいっ」
口元だけを動かし、セイムは静かに答えます。
「いいえ、もう大丈夫です。エレベーターへ向かいましょう」
アリーは高らかに拳を突き上げます。
続く出発の号令。
アリーの足音が、さび付いた甲板に軽やかなリズムを刻んでいきました。
去り際にセイムは、やはり墓標のように立ち尽くす端末たちに軽く一礼します。
「あの、ありがとうございました」
「ザザッ……いいのです」
「それと僕は、神様なんかじゃないんです」
それは謙遜のつもりで発した言葉ではありませんでした。
「……」
応答はありません。
訪れた短い沈黙を、アリーが無遠慮に破ります。
「神様は、神様です!」
視界の隅で、アリーはえっへんとでも言いたげに腕を組み、深々と頷いていました。
東の海は灰色で、空も変わらぬ灰色です。
きっと、昨日も、明日も、二週間後もそれは変わらないのかもしれない。
セイムの胸に去来するのは、そんな言葉にならない虚しさでした。
しかし、そんな彼の無知を嘲笑うかのように、あるいは、励まそうとするかのように、東の果ての海は思いもよらない顔を覗かせます。
―――
それは何の前触れもなく訪れました。
遠く、足元で一定の間隔を刻んでいた海鳴りがぐぅっと、妙に深く沈み込んだのです。
それから間もなくして、灰色の水平線の向こう側で、何か巨大なものがゆっくりと身じろぎしたように見えました。
真っすぐにセイムへと向けられていた黒いガラスの鏡面が、その時ふいに、海の方へと引き付けられていきました。
「……ヨナです」
「ヨナ?」
「はい、神様」
ヨナ。
それが何を指す名前なのか、セイムが思い知らされるまでに長い時間はかかりませんでした。
遠く、冷たく濁っていた灰色の海が、内側から押し上げられるようにして、淡く、あまりにも鮮烈な青色に発光し始めました。
海水を透過した光は段々と強くなり、やがてその光の中心から、文字通り海を破りながら巨大な何かが姿を現します。
『―――!―――!』
金属の軋みとも、海風のうねる音とも、あるいは押し寄せる波の音とも違う、世界そのものを直接震わせるような音。それは、現れた巨体がその身から発する歌でした。
海面から大きく飛び出したその身体は、クジラのような見た目をしていました。
しかし実際には、セイムの知っている生き物とは、どれも当てはまりませんでした。
圧倒的だったのは、海そのものが生命を得たかのようなあまりある巨体と、その白い皮膚の周りで飛び散る無数の水しぶきが、星屑のように淡い固有の光を放ち、灰色の空に軌跡を描いていることでした。
世界の法則を超越するかのような、あまりにも美しく、そしてあまりにも巨大な命。
「あれが……ヨナ……」
「はい!神様!」
最高点に達した巨体はまるで重力そのものから見放されたかのように一瞬だけ空中で静止したようにすら見えました。
それは、夜空に浮かぶ巨大な惑星のようにも見えました。
船首の先端に立っていた自動端末たちが、ひどく小さく見えました。
つい先ほどまで、セイムにとってその場所は断崖から突き出した巨大な残骸でした。
足元を踏みしめるだけで肝が冷えるほどの、世界の最果てだったはずです。
しかし、ヨナの前では違いました。
船首は、ただの錆びた鉄板に過ぎませんでした。
ジョズの街も、断崖も、海風に耐えて立つ自動端末たちさえも、すべてがその巨体の前で縮んでいきます。
海面を破って持ち上がった白い体は、空の半分を塞ぐほどに大きく、そこから落ちる水だけで、ひとつの雨雲が生まれたかのようでした。
砕け散った水しぶきが、次々に青い光を帯びて宙に舞います。
その粒の一つ一つが、流星のように儚く瞬き、灰色の空へと消えていきました。
セイムは、息をすることを忘れていました。
怖い。そう思うには、あまりにも美しすぎる光景でした。
そして、美しい。そう思うには、あまりにもヨナは力強く、巨大だったのです。
空に浮かぶ瞳が、船首の先に集まったセイムたちを見下ろしていました。
それはまるで、一つの世界そのもが彼らの存在を認知している。そう告げているかのようでした。
―――
ヨナが去り、遅れてやって来た着水音と、霧状の海水のひんやりとした感触がセイムの頬を撫でました。
海面にはまだ、あの神秘的な青い光の微粒子が、流れ星の名残のように頼りなく明滅していました。
アリーを含め、そこに立ち尽くす自動端末たちは誰一人として動かずに、未だにうねり続ける灰色の東の海を見ています。
「……よかった」
アリーが、かすかに震える声で言いました。
普段の彼女らしい明快な響きはそこになく、短い言葉は穏やかで心からの安堵が滲んでいます。
他の自動端末たちは、黙っていました。
彼らには、言葉を滑らかに紡ぐだけの余力すら残っていなかったのかもしれません。
けれど、彼らはアリーの声に無言の共感を示していたようにセイムには見えました。
「ヨナは、わたしたち自動端末を、母の元へと連れて行ってくれるんです」
続くアリーの声、それは静かなものでしたが頑なで、未だに冷め止まぬ熱をほんの少しだけ宿しています。
セイムにとって、アリーの発言はにわかに信じがたいことでした。
そんな奇跡のような話が、果たして本当にあるのだろうか?
しかし、その思いも、そして疑問も合わせて胸に秘め、言葉に乗せるのは控えます。
「あの方も、きっと……」
アリーはいったん言葉を切り、そしてその先に言葉が続くことは、とうとうありません。
けれど、けれど。
―――きっと、そうであってほしい。
「……」
世界の果てで、海の彼方を見つめ続ける自動端末に掛けるべき言葉を見つけられないまま、セイムは静かに祈るようにそう思いました。
「では」
明瞭な声が響きます。アリーのものです。
「エレベーターまで、このアリーがご案内します!」
彼女は関節を軋ませながら振り返ると、胸元に片手を添えました。
黒いガラスの顔面には、うっすらと、水の膜が張り付いています。
セイムの足元の感覚が段々と戻ってきます。
身体を縛り付けていた(支えていた)恐怖も、このとき同様に戻ってきました。
けれど、身体の自由はまだ完全には戻りません。
彼は無言のまま頷きました。
アリーの足音が、さび付いた甲板に軽やかなリズムを刻み始めます。
しかし。
墓標のように立つ端末たちに背を向け、いよいよエレベーターへと向かう、そのたった二歩目のことでした。
―――ゴゴォオオ!
ジョズの街を再び強い揺れ、それも先ほどのものより一段も二段も強い揺れが襲います。
「!」
「きゃっ…!?」
セイムはその場で膝から崩れ落ち、さびた鉄板に必死にしがみ付きました。
それは体に染みついた、ただの反射に近い行動でした。
視線が激しく上下に揺れる中、すぐ側で、自動端末たちがなす術もなくそれぞれの方向に投げ出されていくのが見えました。―――その中には、アリーの華奢な体も含まれています。
彼女は、自身の身を守るような動作を一切しませんでした。
ただ、黒いガラスの顔面をセイムの方へと向けたまま、投棄された採掘機械の残骸へと頭から倒れ込みました。
どこか致命的な、どこか不吉な音が、あまりにも明瞭にセイムの耳へと届きます。
それは古びた金属が捩じ切れたり、あるいは、砕けたりする無骨な音とはまるで異なる取り返しのつかないような音でした。
「アリー!」
ただでさえ不安定な船首は、嵐の日の巨木の枝のようにひと際大きく揺れていました。
しかしセイムは、自分の恐怖を置き去りにして、アリーの元へとがむしゃらに飛び込んでいきました。
軋む鉄板の上を文字通り這うようにして、彼はうつ伏せに倒れた彼女の体を抱き起こします。
華奢な体は思っていたよりもずっと温かく、重量がありました。
しかし、それを冷静に分析できる余裕など、今のセイムにはありません。
「アリー!大丈夫ですか?」
そう口にした瞬間、彼の目に飛び込んできたのは黒いガラスの顔面―――そこに走る一本の亀裂でした。
「これは……いったい……どうすれば……!」
セイムはひどく狼狽しながら周囲を見渡しました。
ですが、役に立ちそうな物などあるはずもありません。
「…神様」
今にもかき消えそうな声が聞こえました。
「アリー、よかった…!大丈夫ですか?」
セイムの問いかけに答えるために、このときのアリーは十分な時間を必要としました。
彼女は静かに指先を持ち上げ、答えます。
「エレベーターが動きます。急いでください」
アリーが指さす方、確かに街の表層部には、動力の伝達が行われているようでした。
街中のエレベーターが作動する音が、この場所からでも聞こえます。
そちらへ引き付けられるように、セイムの全身がかすかに持ち上がりました。
割れたガラスの鏡面に、その姿が映し出されています。
ですが。
それ以上の動きはありませんでした。
セイムは視線を落とすと、喉の奥で息を殺して言いました。
「間に合いません、次を待つことにします」
「…」
顔が割れているにもかかわらず、アリーの頑ななまでに仕事熱心な態度に、セイムは張り詰めていた表情を緩めます。
眉をひそめ、呆れたようなその表情は、あるいは彼女だけに向けられたものではなかったのかもしれません。
「…神様」
「……え」
そのとき、アリーの手が未だに震えるセイムの手を、包み込むように動きます。
それはやがて、胸元の発光端子へとその指先を導きました。
すると、完全に壊れてしまったと思い込んでいた画面に光が灯ります。
「……」
「!!」
セイムは、はっと目を見開いたまま言葉を失いました。
代わりに、アリーの喉元に内蔵されているであろうスピーカーから、ノイズ交じりの声が響きます。
「ザザッ……ピー!接続のリクえストを確認。新たな音声・外見パターンがデータベースに登録されました。神様、この方が神様の大切な存在なのですね!」
それはやけに聞きなれた声でした。
アリーは真っすぐにセイムを見つめていました。
しかしその顔は、すでに黒いガラス鏡面などではありません。
セイムの記憶から読み取られた―――人間の顔です。
「でも……今は残念ながら、アリーの優秀なセンサーによると、この方は近くにいないようです……」
喜び、悲しみ、アリーは生き生きとその表情を変えていきます。
彼女は、言葉を失ったままのセイムの手を両手でそっと包み込み、慎ましい胸部パーツの中央に乗せました。
「……ならばアリーは、これからずっと、この方の代わりになります!」
揺れが収まり、街中のエレベーターが離れていく気配がしました。
セイムは呼吸すら忘れていました。
アリーの割れたディスプレイに映し出され、あまりにも健やかな笑顔を見せていたのはジゼルでした。




