A.L.I.E。
セイムは通路に戻りました。
海風とは別の、生ぬるい街の排気が彼の毛先を揺らします。
この場所は、恐ろしい怪物の腹の中ではない。
人がいて、酒を飲み、笑い、誰かを見捨てながら暮らしている。
―――そのことがわかってしまった分、つい先ほどまで得体の知れなかった街の存在が、妙にありふれたものに変わっているような気がしました。
背後では、安っぽい音楽と濁った笑い声が歪んだ扉の隙間から漏れ続けています。
街の東、船首では未だに、数体の自動端末たちが海風にさらされているはずでした。
その先には、灰色の空の下に東の海が広がっています。
その他には、差しあたって何もない街でした。
口の両端を自然と引き締めながら、セイムはもと来た道を呆然と眺めていました。
「…」
と、そのときでした。
背後の傾いた柱の陰から、かすかな機械の駆動音が鳴りました。
冷たい金属が一瞬だけ擦れ合うような、小さな物音です。
セイムは、半ば反射的に視線を巡らせました。
すると今度は、声が聞こえてきます。
それは、耳に心地よく調律されていたであろう電子音声でした。
「……神様?」
遠慮がちなその声は、セイムの視界のなおも外側から聞こえてきました。
完全にそちらを振り返ると、そこには一体の自動端末が立っています。
外装は色褪せ、細い肩には擦り切れた布のようなものが掛かっていました。
体格は小さく、少女の人形にも似ていました。
けれど顔に当たる部分は、黒いガラスのようなもので覆われていて表情などは分かりません。
目が合った。そう表現してよいのかすら定かではありませんでした。
けれど確かに、その端末は柱の陰から覗き込むようにして、セイムの姿を見ていたのです。
「神様……?」
ほかでもない自分の口からぽつりとこぼれたその言葉に、セイムはぼんやりとした違和感を覚えました。
身構えることもなく、また、逃げることもなく、彼はその場にただただ立ち尽くしています。
すると、端末が柱の陰から歩み出てきました。
剥き出しになった膝の関節部が、かすかに軋む音がしました。
「大丈夫ですか?神様」
「……神様、僕のことでしょうか?」
オウム返しに呟いたセイムの声をどう受け取ったのか、彼女は「はい!」と、愛くるしい所作と共にノイズ交じりの声を弾ませました。
酒場の中からは、相変わらずこの街の生活音が聞こえていました。船首の方では、自動端末たちが海の彼方を未だに見つめ続けていました。
その二つの世界が曖昧に混ざり合う境界の通路で、黒いガラスの顔をした自動端末はセイムに向かってさらにもう一歩を踏み出します。
「わたしの優秀なセンサーが、神様のお困りごとを検知しました!」
「あなたはいったい……」
「あっ!」
突然の出来事を処理しきれないセイムが尋ねかけると、彼女は自分の無作法に気づいたかのように、いたって滑らかな動作で小さな両手を胸元に当てました。
慎ましい胸部パーツの隙間で、青い発光端子が一度静かに消灯します。そして、次の発声と共に、それは再び淡い光を灯しました。
「わたしは、アリーです」
通路に響く澄んだ声。
黒いガラスの顔面に、発光端子の青い光が昇っていきました。
あっけにとられたセイムの顔が、その暗い鏡の中へうっすらと歪んで映り込みます。
「アリー?」
「はい、神様。正式名称は、自動端末・対人接続支援型、ALI-E/07-FP…でも、かつての神様たちは、わたしをアリーと呼びました」
彼女は淀みなくそう告げると、少しだけ首を傾けました。
「あなたも、そう呼んでくれますか?」
かすかなノイズが混じるその問いかけには、言葉以上の切実さが滲んでいるような気がしました。
自分は、神様などでは決してないのだ。
心からそう思いつつも、セイムはこの端末を―――おそらくは、この街の住人たちがそうしてきたように―――雑にあしらうことなどできませんでした。
「……アリー」
セイムは、ゆっくりとその名を口にします。
その瞬間、彼女の胸元に灯っていた青い発光端子が、ほんのわずかに強く輝きました。
身を乗り出すように背中を丸め、剥き出しの関節を軋ませます。
「はい!」
アリーは答えました。
ただ名前を呼ばれただけなのに、内側で喜びをかみしめているような透き通った大きな声でした。
「お呼びいただき、ありがとうございます!神様!」
「……いえ」
大げさで、活力に満ちていて、どこか場違いなアリーの態度に、セイムは思わず首を横に振りました。
鼓膜はキンキンと痛みましたが、彼は気にしていませんでした。
「僕は神様じゃありません」
セイムは事実を伝えます。
するとアリーは、ひどく不思議そうにゆっくりと首を傾けました。
「神様では、ありませんか?」
「はい」
「ですが、わたしの呼びかけに応答しました」
「ええ、それはそうですけど……」
アリーの黒いガラスの顔面には、相変わらず表情らしいものは映っていません。
その暗い反射の中には、依然としてセイムの困惑した顔だけが薄く歪んでいます。
「応答可能な存在は、仕様上、神様に分類されてしまうのです」
「そんな……困りますよ……僕は……」
セイムは眉をひそめながら、一度言葉を飲み込みます。
「あそこにいる方々も……」
持ち上げた指の先は通路の壁でした。
そしてそれは、恐らくは今も立ち尽くす自動端末たちがいる方角でもありました。
アリーも肩をすくめ、じっとそちらを見ています。
その姿は健気で、人ならざるものの純真さに満ちていました。
「…」
「……神様?」
「あ、ああ!ええと」
「はい!あそこ。とは、この街の最東端に位置する場所のことですよね?そして、あそこにいる方々というのは、船首で待機する自動端末たちのことですよね?アリーは神様の意図をすべて正しく理解しています。アリーと他の自動端末を、どういった基準を用いて比較したいのでしょうか?」
アリーが話し終えると、胸の発光端子の光は消灯しました。
どうやらそれは、彼女のなにかしらの行動と連動しているようでした。
アリーの勢いに圧倒されながらも、ようやく何かを思い出したかのように、セイムは言い直します。
「あなたの仲間たちは、誰もがそうなんですか?返事をしたら、神様と……仕様上そうなってしまうんですか?」
それは、子供が内緒話をするときのような声でした。
数秒の思考時間の後、アリーは肩を落としながらも、明瞭な声で答えます。
「……申し訳ありません神様。アリーにはわかりません……なぜならアリーは、少し壊れているのです。自己診断によると、思考回路の中枢に原因不明のスルーホールの存在が確認されています。なので、他の個体との比較に信憑性はないのです」
あまりにも素直な口調でした。
セイムは何も言えなくなります。
より正確な説明を試みるように、アリーは身体の動きをぴたりと止めました。
顔面のガラスに光が灯り、その全面に何かが映し出されます。
―――簡易的な大陸の地図と、場所を示すいくつかの赤い点。そしてそれぞれの点から伸びる線上には、施設名のような記載がありました。
「本来、不良セクターが確認された場合は、製造元指定の保守窓口にて、交換・修理が可能です」
壊れている。そう自称した彼女の顔面に映し出されたのは、この街の錆びた空気にはあまりにも不釣り合いな、高度な文明の痕跡でした。
彼女の顔は、ただの色ガラスではなく映像を映し出すためのディスプレイになっていたのです。
食い入るように画面を見つめるセイムに対して、彼女は淡々と続けます。
「ですが、製造元および修理センターは、登録座標からすでに消失してしまいましたので、残念ながら、アリーが修理されることはありません。よって、その質問にアリーが正確にお答えすることは、もはや絶望的と呼べるでしょう」
『LOST』『LOST』『LOST』…………。
地図上の点が赤い×印で上書きされていき、やがて、彼女の顔面は元の暗いガラス鏡面へと戻りました。
告げられた事実を哀れむべきなのか、あるいは、彼女の優れた機能を賞賛すべきか、そこには少年の複雑な表情が映っていました。
酒場の中から、また濁った笑い声が漏れました。
遠く、船首に立つ自動端末たちは、変わらず東の海を見ています。
その中で、アリーだけがセイムをじっと、見つめていました。
「ところで、神様はお困りですか?」
「……」
いまさら、セイムに否定する理由はありませんでした。
「はい、困っています」
アリーはさっと身を引いて、嬉しそうに両手をかちりと鳴らします。
「やっぱり!それはどのようなお困りごとでしょうか?神様のお役に、アリーは立てるでしょうか?」
「人を探しています。さっきはぐれてしまったんです」
セイムの言葉を聞いた瞬間、アリーは小さく弾むようにして黒いガラスの顔を彼へと近づけました。
「探索任務ですね!対象の特徴を教えてください。アリーの優秀な情報処理システムで、この区画のネットワークにアクセスし、近隣の生体反応を―――」
しかし、そこまで言って、アリーの胸の発光端子がチチッ、と頼りなく点滅しました。
彼女は差し出しかけていた細い両手を泳がせ、それから、明らかに落胆したように肩をがっくりと落としました。
擦り切れた布の外套が、その小さな体に寂しくまとわりつきます。
「……申し訳ございません、神様。現在のわたしの権限では、ジョズの主幹ネットワークに接続できません。はぐれてしまったその方の位置を、すぐに特定することは……できないみたいです」
「そうですか」
「……はい、申し訳ございません。神様…」
発光端子の光が一段弱まったように見えました。
しかし、セイムに失望はありませんでした。
やる気だけが先行し、結果として空回りしているようにも見える彼女を、嘲笑する気にもなれませんでした。
懸命な誰かの姿を笑ったことなど、彼は一度としてありません。
「では、この街の下へ向かう方法は分かりますか?」
セイムの問いに、アリーは再び沈黙しました。
黒いガラスの奥で小さな駆動音が細かく鳴っています。懸命に何かしらの処理を行っている様子に見えました。
けれど、やがて彼女は諦めたように、頭を左右に振ります。
「対人接続支援型であるわたしには、下層の採掘区画へのアクセスルートは開示されていません。お役に立てなくて、アリー、すごく悲しいです……」
今にも消え入りそうな、ノイズの混じった声でした。
しかし、アリーの胸の端子は消えていません。
彼女はふいに何か妙案を思いついたかのように顔を持ち上げます。
黒いガラス鏡面の中で、青い光が少年の輪郭を綺麗に照らしていました。
「ですが、神様!わたしのデータベースにはなくても、仲間の誰かなら知っているかもしれません!」
「仲間?」
「はい!あそこにいる、ずっと海を見ている自動端末たちです」
アリーは細い指先で、東の海―――断崖から突き出した、あの巨大な船首の方角を指し示しました。
「あの方たちは、わたしよりずっと長くこの街にいます。神様が下層へと向かう方法を、きっと知っています。アリーが、神様を仲間たちのところへ案内します!」
「…」
セイムの身体が、かすかに硬直しました。
―――下。
アリーが指さす船首の先。
彼の脳裏には、つい先ほど海へと吸い込まれていったであろう、あの自動端末の姿が鮮明に焼き付いていました。
待つ以外に方法はないと吐き捨てた男の言葉が、海風の冷たさとなって背筋を駆け抜けます。
ですが。
「わかりました。お願いします、アリー」
セイムは、自分の声を信じるようにそう告げました。
彼には、えり好みできる選択肢など一つも残されていません。なにより、目の前で発光端子を健気に明滅させている小さな自動端末の、そのかすかな熱を、今は頼るほかなかったのです。
「はい、神様!アリーにお任せください!」
アリーは子供のように嬉しそうに声を弾ませます。
「目的地はすぐそこです!どうか足元にはお気を付けください。アリーも何度か躓いているのですが、アリーには一切の管理権限が与えられていないのです……」
そう言って振り向いた彼女の顔面に、簡素な警告表示が浮かび上がりました。
小さな人型の記号が、小石らしき障害物に躓き、見事に転倒します。
続いて、同じ人型がその小石を拾い上げようとする映像へ切り替わりました。
しかし次の瞬間、その上から大きな赤い×印が重ねられます。
「障害物の撤去は、アリーの権限外です!」
胸を張るような声でした。
なぜそこを誇らしげに言うのか、セイムはささやかな疑問を禁じ得ません。
「でも、躓く危険性のある障害物を迂回するルートは知っていますので、心配はありません!」
大仰に胸を張りながら、彼女は船首へと続く通路へ向かって歩き始めました。
カツン、カツンと、セイムの靴底が硬い音を立て、彼女の関節の軋む音を静かに追いかけていきました。




