果ての街。
閉ざされたフェンスの前で、セイムはしばらく立ち尽くしていました。
耳をすませば、遥か下方からいくつもの鈍い金属音が響いています。
ジゼルを乗せたもの、たった一つから発せられている音とは到底思えません。
街中のエレベーターが今もなお地下へと降下を続けていたのかもしれません。
「……」
彼は小さく息を吐き、額へ手を当てました。
―――港で合流しましょう。
つい先ほど、そう提案したのは自分です。
ですが冷静になればなるほど、その判断がひどく浅はかなものだったように思えてなりませんでした。
足を踏み入れて間もないセイムでさえ、この街がまともな都市構造すら失っていることに既に気づいていました。
通路は崩れ、建物の隔壁は閉ざされているか、あるいは開放されたままになっているか、どちらかです。
空を覆うのは、街の至る所から飛び出した足場であり、それらは到底通路と呼べるものではありません。そしてそのどれもが、どこかにたどり着く前に途切れているのを再三目にしてきていたのです。
まして、方向感覚に疎い彼女のことです。
辿り着いた先で、運よく地図に類するものを入手できたとしても、それはほとんど意味をなさないかも知れません。
セイムは周囲を見回しました。
どこかに下へ繋がる通路があるはずです。
なぜ、あんなことを言ってしまったのだろうか?
ジゼルが迷子になりやすいことを、自分は知っていたはずなのに、あえて突き放すような、あんなことを…。
そんな考えが浮かんでは消えていきました。
彼は、思考の大部分を自責の念に支配されたままの状態で歩き始めます。
エレベーター点検口。
地下へと繋がる階段。
海風に浸食された甲板の裂け目。
どれか一つでも見つからないものかと、足早に周辺を巡ります。
ですが。
下へ続く道は見つかりませんでした。
それどころか、街と呼ばれているはずのこの場所で、人影一つ見つけることすら叶いません。
「……ジゼルさん」
ぽつりと、彼は彼女の名を呼びます。
当然、返事はありません。ただ、その細い声だけがうっすらと降り積もった砂に吸われるだけでした。
「……」
やがて彼は、ジゼルを飲み込んだ空洞に背を向け、予定通り港へ向けて歩き出しました。
一歩踏み出すごとに、いくつかの不安が脳裏をよぎりましたが、いまさら立ち止まっても仕方ありません。
それにしても、自分のような存在がジゼルを心配するなどと、なんとおこがましいことか。
彼女以上の実力者など、たぶんこの世界に百人もいないだろう。
むしろ、危険なのは自分の方なのではないか?
彼女の華々しい活躍の数々を思い出しながら、セイムは自然とにじみ出るほろ苦い自嘲を禁じ得ませんでした。
願わくば、どうか、彼女の歩く道だけは平坦であってほしい。
すぐに自分が迎えに行くのだから。と、少年はそう思わずにはいられません。
―――
最初の変化は、目には見えないものでした。
ふと、濁った空気の奥に、かすかな匂いが混ざります。それは、お酒の臭い。
油と錆びの臭いに慣れ始めていた鼻腔へ、ふいに流れ込んできたその刺激にセイムはわずかに眉をひそめました。
決して心地の良い匂いではありません。むしろ、胸の奥がムッとするような安酒の臭気です。
ですがそれは同時に、古い友人に再会したときのような、妙な懐かしさを伴っていました。
この街にも酒場があるのかもしれない。
そんな夢見がちな秘境探検家のような希望が、少年の胸をよぎります。
そこには、きっと誰かがいるはずでした。
まるで死骸の内側を歩いているかのようだったジョズの街に、ようやく継続する文明の気配が混ざり始めていたのです。
無論、セイムの目的はまだ見ぬ文明人との交流ではなく、あくまで買い出しです。そしてなにより、はぐれてしまったジゼルと共に無事にあの屋敷へと帰宅することでした。
点在するエレベーターの柵の向こう側には、きまって空洞が広がっていました。
しかし、一度動いたものならば、二度目もあるに違いありません。重要なのは、『それがいつなのか?』『どこへ繋がっているのか?』それを知ることでした。
―――
匂いを辿るほどに、空気の密度が変わっていくのがわかりました。
先ほどまでの海風の冷たさは影を潜め、代わりに、何人もの呼吸が作り出したような湿り気と、かすかな熱が通路に残っています。
姿を見ずとも、疲労困憊した肉体から剥がれ落ちたものだとセイムにはわかりました。
曲がり角の先、崩落しかかった天井を不格好な鉄柱で支えた区画に、その光はありました。
剥き出しのフィラメントが、不規則なリズムで点滅を繰り返しています。チチッ、という光の粒子がガラス球の内側を叩く音が聞こえます。それが、壊死を免れたこの区画に、わずかな血流を与えているようでした。
セイムは一度足を止め、自分の身なりを整えました。
砂を払い、呼吸を整える。これから向かうのは、自分の中だけの常識が通用する場所ではきっとありません。
シャズのように、がさつでどこか剥き出しの生命力と規律を持った、辺境の大人たちの世界が広がっていることでしょう。
これまでの未熟な対人的経験が、いまの彼にとっては唯一の護身術でした。
ふと、視界の端に動く影がありました。
反射的に身を隠そうとしたセイムの目に飛び込んできたのは、壁に貼られた、色褪せた興行ポスターの残骸です。
そこには、かつてこの街で喝采を浴びたであろう劇作家や、華やかな衣装に身を包んだ俳優たちの名が、辛うじて読み取れる程度に残っていました。
ならば、言葉は伝わるはずだ。
街の構造でも、物流でも、あるいはジゼルが運ばれたエレベーターの作動方法でもいい。
彼女を見つけ出し、この買い出しを無事に完遂するための何かを、ここで掴まなければなりませんでした。
―――
角を曲がると、ついにその場所が姿を現しました。
分厚く、頑丈そうな、しかし半分ほど建付けが歪んだ防潮扉。その隙間から、濁った笑い声と、安っぽい音楽の断片が漏れ出しています。
看板などはかかっていません。
ただ、扉の横に積まれた空き瓶とブリキの空き缶、そこから漂う強烈なアルコールの匂いだけが、この地の住民の生活を、なによりも雄弁に物語っていました。
歩きながら、セイムは一度だけ深呼吸します。
肺が酒と埃の臭いで満たされるのを感じながら、彼はその歪んだ扉の隙間に体を滑り込ませました。
中は、思っていたよりもずっと広い場所でした。
そこはかつて、街全体の制御を司っていた区画だったのかもしれません。
天井は高く、壁面には用途の分からない計器類や、砂のこびり付いた黒い表示板がいくつも残されています。操作端末のようなものはすでに取り外され、その跡地には、歪んだ鉄板を繋ぎ合わせて作られた長いカウンターが設けられていました。
壁の大部分は窓になっています。
かつて頑丈な床だったであろう部分を境に、それは大きく上下に分かれていました。
それが最初にセイムの目を引いたものでした。
入り口から見て正面の壁を占める厚い強化ガラスの向こうには、濁った東の海が広がっています。さらにその手前、断崖から突き出すようにして、巨大な船首の残骸が灰色の空に向かって伸びていました。
むせ返るような強い匂いは、足元の空間から漂っています。
地上に打ち上げられた魚が放つものに似ています。その中で、人々は肩先が干渉し合うほどの距離で静かにひしゃげた金属カップを傾けていました。
『客』の殆どは、一目で労働者と分かる身なりをしていました。指先が飛び出た汚れた手袋。分厚い靴底。削れた爪。どの顔にも疲労がこびりつき、酒気と汗と錆びた金属の臭いが、すえた熱となって店内に溜まっていました。
セイムが入ってきた瞬間、いくつもの視線がこちらを向きました。
ですが、それだけです。
誰も声をかけてきません。追い払おうとする素振りも見せませんでした。
彼らはただ静かに、手にした酒の容器を傾け続けるだけでした。
この街にとって、自分にはなんの価値も無いのだと、セイムにはすぐにわかりました。
彼は公共浴場の湯船につかるようにゆっくりと、慎重に、ホールへと続く階段を下りていきました。
その一段一段が、それぞれ別の次元から取り寄せられてきたかのように歪んでいました。
木箱を机代わりにした卓上で、誰かが硬貨のようなものを弾く音だけが、妙に大きく響いていました。
誰一人として、セイムの存在を拒んではいませんでした。ただ、受け入れてもいませんでした。
―――下へ。
あれほど切望していたはずなのに、達成感は少しもありません。
むしろ、かえってジゼルから遠ざかっているような気さえします。
今すぐ引き返すべきなのではないか?
カツン、カツンと、明瞭な音を鳴らす靴底とは裏腹に、セイムの頭にぼんやりと浮かんだのはそんな思いでした。
ふいに。
店内の空気が動きます。
一人、また一人と、客たちの視線と意識が大窓の外へ向けられていたのです。
階段の途中で、セイムも足を止めました。
窓の外、断崖から突き出した船首の上に、いつの間にか何かが立っていました。
いいえ。
それらは、はじめから立っていたのです。
人影のように見えました。
いいえ。
正確には、人影ではありません。
人にしては過剰なほどに細い手足。風雨にさらされて色の抜けた外装。ところどころ剥がれ落ちた人工皮膚の下から、黒ずんだ内部が覗いているのが遠目でもわかりました。
人間の形を模しておきながら、人間らしい揺らぎを一切持たないもの。
それは自動端末でした。
ドーンソリアの果てにあるこの街に流れ着いた、役目を失った人造の存在。そのうちの一体が、他の仲間たちに見守られるように、船首の先に立っていたのです。
ぼろ布のような外套が、東の海に向かってはためいています。しかし、体は殆ど揺れていません。ただじっと、この場所からよく見える位置で、遥か彼方、海の向こうを見つめているようでした。
酒場の中から、誰かが笑いました。
「みろよ、まただ」
別の誰かが、グラスを傾けます。
「……辛気臭いたらない」
その声に、周囲は無言の賛同を捧げたように見えました。
セイムは息を呑みます。
大窓の向こうで、自動端末が一歩を踏み出しました。
足元には、もう船首の先端しか残っていません。
それでも端末は、ためらうことなく進みます。
やがてその身体は落ちました。
一瞬、外套が鳥の翼のように広がりました。
旧式の自動端末に飛翔機能など搭載されているはずもありません。その身体はただ重力に引かれ、灰色の空を縦に裂くようにして、誰からも見えない場所で東の海へと吸い込まれていったのです。
酒場が、わっと湧きました。
机をたたく音。誰かが杯を掲げ、言葉とは到底呼べないような熱気を発します。
ですが、その発熱は驚くほど短いものでした。
ほんの数秒もしないうちに喧騒は薄れ、やがて湿った笑いへと変わっていきます。
「馬鹿な鉄くずだ。泳げもしねえくせに」
「……『ホローポイント』へ行くのが、そんなに待ちきれないのかね」
「好きにすればいい。俺には関係ない」
「……あの」
一階、そう呼べる位置まで降りていたセイムは、個人でなく集団に向けて声を放ちました。
客たちはごく自然な態度で、安酒をちびちびと飲み続けています。
その場に立ったままの状態で、セイムは尋ねました。
「この街の下へ向かうには、どうしたらいいでしょうか?」
返事はありませんでした。
返事はありませんでしたが、セイムは、自分という異物がこの場所の空気を乱していることだけは感じ取っていました。
「さっき、エレベーターで人とはぐれてしまったんです」
ですが、彼はこのとき、どこまでも無遠慮に、そして無謀に振る舞うことができました。
大窓の向こうでは、残された自動端末たちが立ち尽くしています。
そのどれもが、吹き荒れる風の中ただ呆然と海の彼方を眺めていました。
やがて、彼の存在に業を煮やした客の一人が、それでも努めて常識的な声量で答えます。
「下へ向かいたいだと?よせよ、縁起でもねえ」
必然的に新たな疑問を生み出しかねない返答に、別の誰かが苛立ちを募らせます。
泥のように濁った瞳が、セイムの視線とぶつかりました。
「採掘場で欠員が出るまでエレベーターは動かない。待つ以外に方法は何もない」
「そうですか」
薄い愛想笑いを浮かべながら、セイムは頭を軽く下げます。
「お騒がせして、すみませんでした」
少なくともそれは、彼の本心から発せられたものでした。
彼は客たちから背を向けると、階段を登り始めます。
「おい」
客の一人がセイムを呼び止めました。
「なんでしょう」
振り返るセイム。
しかし、誰が呼び止めたのかすら分かりません。
やがて、客たちの視線が、まるで密告者を炙り出すかのように一人の男へと向けられていきます。
その男は手にした酒を一気に呷ると、口元でぼそぼそと唱えました。
「いや、なんでもない」
「わかりました」
セイムは、男の瞳にかすかな良心が揺れていることに気づきます。
彼が唯一受け取ることができたのは、それだけでした。




