離れろ。
巨大な船体の中心部へと進むにつれ、砂の大地の乾いた空気は嘘のように遠のいていきました。
埠頭へと続く通路は、もはや街というよりは、巨大な鉄の墳墓の内側を歩いているかのようです。
覆いかぶさるように張り巡らされた通路からは真っ黒な湿った蔦が垂れ、残骸にも似た街の建物が潮風に吹かれては、喉を鳴らすような不気味な軋みを上げていました。
「……ここ、本当に人が住んでいるのでしょうか」
セイムの背後にぴたりと張り付きながら、ジゼルが不安げに周囲を見渡します。
ひとりでに漏れ出した声が静寂に吸い込まれて消え、その不気味さに彼女は肩をすくませました。
視界に入る範囲に人影はありません。しかし、打ち捨てられた隔壁の隙間や、湿った暗がりの奥―――そこには、こちらを見つめる何者かの気配が満ちている―――ジゼルにはそう思えてなりませんでした。
ふと、前を歩くセイムが呟きます。
「ジゼルさん」
「はっ……!はいっ!」
慌てて返事をしたジゼルの声は、喘ぐように裏返ってしまいます。
背中を向けたまま、セイムはなんら変わらぬ歩幅で歩き続けていました。
ジゼルはほっと小さく息をつきました。彼女にとって、ひどく取り乱しているであろう顔を見られずに済むのなら、それがせめてもの救いでした。
背後の足音がようやく落ち着きを取り戻した頃合いを見計らい、セイムが口を開きます。
「もし、はぐれてしまったら、お互い無理に探そうとせずに、街の港で合流するようにしましょう。その方がきっと確実です」
「え……」
胸の奥を、ひやりとしたものが撫でました。
あまりにも自然な口調で告げられたその言葉に、ジゼルは思わず口を尖らせます。
「ど……どうして今、そんなことを言うのです!まるでこの後、離れ離れになってしまうことが決まっているみたいじゃないですか!」
指先をぎゅっと握りしめ、ジゼルは彼の背中へと詰め寄るように言い募ります。
しかしセイムは、迷路のような通路の先を見据えたまま、振り返ろうともしません。
崩落しかけた鉄骨の上を、彼は何のためらいもなく進みます。
頭上に垂れ下がる蔦を、あたかも暖簾をそうするかのように持ち上げながら彼は言葉を繋ぎます。
「はぐれた後じゃ、伝えられませんから」
「まぁ……っ」
あまりにも淡々としたその言葉にジゼルは絶句します。
湧き上がる不安を振り払うように、鉄骨の端から努めて明るい、少しだけ喧嘩腰な声を放ちました。
セイムの背中に直接言い放つのではなく、ろくなもてなしも、歓迎の言葉も、何もない、廃墟のような街に抗議するかのように―――。
「だっ、だったら、まずははぐれない努力をしなければなりませんわね?」
その声は、いたるところから突き出た鉄柱に、過剰なほどに反響しました。
数歩先、慎重に進みながらセイムは即答します。
「そうですね、手でも繋ぎましょうかジゼルさん」
「手……でも……?」
続けて、こともなげに告げられた提案には、一切の躊躇いも、恥じらいも、初々しさも、含みらしい含みもありませんでした。
ただ、はぐれないためだけの現実的な手段として口にしただけ。面倒が起こる前に、対抗策を先に伝えておいただけ。そんな素っ気ない言い方です。
久しぶりの、二人きりの時間に、あんなことやこんなこと、多くを期待していたジゼルは、むっと唇を尖らせました。
「セイムさんたら……もう知りません!」
そう告げると、ジゼルは真っ赤になった顔を隠すように背けました。
恥じらいと、淡い期待と、一瞬とはいえ心臓を突き上げた激しい歓喜、しかし、それらを悉く台無しにする冷淡な少年への怒りが、心の中でごちゃまぜに爆発します。
セイムは、そんな彼女の内心を少しだけ見透かしたように、右手をそっと差し出しながらも、引き続き淡々と告げました。
「怒らないでください。悪気はないんです」
「ふんっ。ふんっふんっ!」
「……」
セイムの視界の外側。
廃墟のような街へ向け、精一杯の抗議を態度で示して見せながらも、ジゼルはじっとりと汗ばんだ手のひらを、こっそりと服の裾で拭わずにはいられません。
視線は差し出されたセイムの手―――傷だらけの指先へと、吸い寄せられるように注がれます。
「……」
がさがさしている。
汚れてもいる。
ついさっきまで、手綱を握っていた。
ちょっとだけ震えている。
強く握ったら痛いかもしれない。
けれどきっと、あの手は温かいに違いない。
高鳴る胸の鼓動とは裏腹に、ジゼルの頭脳はあまりにも冷静に彼の手の性質を分析していました。彼女には、それが不思議で仕方がありませんでした。
気づけば、彼女の指先はすでにそこに触れていました。
「……ぁ」
自分でも遅れて気づいたような、小さな声。
セイムの手は、やはり温かくて、それだけで胸の奥の何かが少しだけ静まりました。
「じ…」
「…?」
すぐ前を歩いているセイムの喉が震えます。
自然と意識が集中し、ジゼルはその横顔を見つめました。わずかな時間でしたが、彼女にはそれがとても長く感じられました。
「…ジゼルさんは。すぐに迷子になってしまいますから」
視線は目的地だけを見据えたまま、無理やり絞り出したような声に余裕はなく、ほんの少しだけ震えていました。
彼女は多くを察しましたが、あえて黙っておくことにしました。
しかし、なにかリアクションを取らずにはいられません。そしてそれは、鼻の奥をかすかに鳴らす程度のものに収まりました。
―――
二人の歩調がぎこちなく連なります。
繋がれた手は時折ぴんと張り詰めて、その都度ジゼルは躓きそうになったりもしました。
けれど、それを気にする余裕すら、今の二人にはありません。
「…」
「…」
しばらく進んだところで、街の地下から突如、突き上げるような衝撃が走りました。
「……なんだ」
「……っ」
―――ずしん!と、ほんの一瞬、けれど、このあまりにも古く閉塞的な場所では、その揺れがやけに大きく感じられました。
じわりと汗ばむ手のひらの感覚と胸の高鳴りが、ジゼルの判断力を決定的に鈍らせていました。
二人の頭上で何かが軋みます。
ぱらぱらと降り注ぐ錆と砂、遅れて、壁の一部が崩れ始めました。
「ジゼルさん!」
セイムは反射的に彼女の手を両手で掴み、そのまま強く引き寄せます。
近くの構造物の影へ、半ば身体を押し込むようにして滑り込みました。
すぐ背後を、崩れた街の一部が通り過ぎて行きました。
ガラガラと音を立てて、瓦礫は壁に雪崩れかかるように積み上がりました。
何度も反響しながら、ようやく静まっていくその音を二人は物陰から聞いていました。
「……」
「……」
瓦礫が落ち切ったあとの空間に、耳が痛くなるほどの重い静寂が訪れます。
狭い影の中で、互いの吐息が混じり合っていました。
ジゼルは、自分の肩に回されたセイムの腕が、かすかに震えているのを感じていました。恐怖からか、あるいは彼女を離すまいとする緊張からか。
つないだままの手は、指と指が食い込むほどに強く湿り気を帯びて熱くなっていました。
ふと、彼女は視線を持ち上げます。
古びた街の欠片など、優れたウィリを有するジゼルにとって、本来なら脅威にもなりません。
その気になれば、落下する瓦礫をひとつ残らず街の外へ弾き飛ばすことだって彼女にはできたのかもしれません。
しかし視線の先で、そうとも知らないセイムは生真面目にも、動かなくなった瓦礫の山を未だに見つめていたのです。
少女の心の内の天使と悪魔が激突し、頭の中でぱちぱちと火花を散らしました。
そして結局のところジゼルは、セイムの良心につけ込むことにしました。
もう平気ですから。
早く先へ進みましょう。
その言葉を胸の奥に飲み込みました。
同時に、この瞬間が一秒でも長く続いてくれることを強く願いました。
守られる必要のない強者が、弱者のふりをして誰かの懐に飛び込む。
その罪悪感にジゼルの心はチリチリと焦がされているかのようでした。
―――
ようやく、周囲の安全を感じ取ったセイムの肩から静かに力が抜け落ちていきました。
ほっと胸をなでおろした彼は、今まさに自分が必死に守ろうとしていた存在と至近距離で向かい合っていることに気づきます。
目と目が合いました。
薄暗い影の中で、ジゼルの瞳は恐怖に潤んでいるように映りました。
引きつった全身の肌が、段々と感覚を取り戻していきます。
狭く、冷たく、硬い空間の角に、強引に押し込まれている熱の塊。
信じられないほど柔らかい肩に、傷だらけの指先が強く食い込んでいました。
「……ぁ」
「…」
先に視線を逸らしたのはジゼルでした。
次の瞬間、セイムは弾かれたように距離を取りました。
突き飛ばすような乱暴さはありません。ただ、指先の熱から反射的に離れるように、狭い影の中から無理やり半歩、身を引いたのです。
「す、すみません」
咄嗟に漏れ出したセイムの声は掠れていました。
ジゼルは何も答えませんでした。
彼女は顔を伏せたまま、胸元の服をぎゅっと握りしめています。
見えているのは俯いた横顔の一部だけです。しかし、細く震えるまつ毛と、噛みしめられた唇が、今にも泣き出しそうな表情を隠しきれていません。
呼吸すら止めているのでしょうか。その姿は、うす暗い街の一部に溶け込んでしまったかのようでした。
「…」
怒りとも、悲しみともわずかに異なるその表情をセイムは知りません。
気まずい沈黙が翼を広げ、二人の間で、崩れた瓦礫の上で、湿った街の空中で羽ばたいていきました。
先ほどまで触れていたジゼルの肩の柔らかさが、掌に嫌な熱として残っています。
ジゼルを守ろうとしたはずの行為が、閉所という状況下ではかえって、彼女にとっての脅威になっていたのではないか…?
セイムを胸を焼くのは、そんな自責の念でした。
―――ぎぃ。
古びた金属音が、二人の足元で鳴りました。
「……?」
あまりにも小さく短い音でした。
セイムが顔を持ち上げます。
するとジゼルも、物陰の角に体を押し付けたまま、あくまで形だけ、彼の動作に合わせます。
彼女の聴力は、耳元で弾む鼓動にかき消され、この時ろくに機能していなかったのです。
直後、二人の間にあった床の継ぎ目が不自然に裂けました。
そこから、さび付いたひし形の金属の格子が勢いよくせり上がってきます。
同時に頭上からも、同じ形の格子が落ちてきました。
不測の事態を想定した安全装置など、初めから組み込まれていないのでしょう。あまりにも機械的に現れたそれは、古びた金属フェンスでした。
『!!』
二人を空間ごと分断するように、赤茶けた錆をこぼしながら格子は、上下から互いを求めるように伸び、鋭く、悲鳴のような音を立てて交差していきます。
上下それぞれの到達点で双方のフェンスは停止し、二つのひし形は寸分たがわぬ精度で重なり合いました。
―――がしゃん。
「セイムさんっ!」
ジゼルは反射的に手を伸ばしました。
しかし、彼女の指先は冷たい金属に阻まれます。
セイムの視線が素早く流れます。
錆びたフェンスの終端、それから左右、スイッチの類は見当たりません。
「セイムさん!セイムさんっ!」
ジゼルが格子にしがみ付きます。
少しだけ家事で荒れた指先が、錆びたひし形の隙間にかかりました。
今にも泣き出しそうだった顔は、すでに恐怖と混乱に染まっていました。
「ジゼ――」
セイムも彼女の名を呼ぼうとしましたが、その声は喉の奥で凍り付きます。
彼女の頭上、砂のこびり付いた壁の一部が不自然に飛び出している箇所がありました。
それは、なだらかな曲線を持った三角形の突起でした。
その突起に、ぼうっと、緑色の光が灯ったのです。
次に彼の目に飛び込んできたのはジゼルの指でした。
細い指が、格子の隙間から、こちら側へ出ています。
「離れろッ!!!!」
反射的に、セイムは叫んでいました。
自分の声だとは思えませんでした。
乱暴に、無遠慮に、あまりにも野蛮に放たれた怒号にジゼルの目が見開かれます。
びくりと肩を震わせ、彼女の手は格子から離れました。
その直後でした。
鉄の檻が船体の底へと引きずり込まれるように動き出しました。
ひし形の格子がキシキシと唸りながら高速ですれ違っていきます。
その向こう側で、セイムもまた、自分の声にまだ驚いているように見えました。
何も告げられないまま、二人の姿は、お互いの視界から完全に消えていきました。




